第一章5 見出した道
――鉄の味がする。
生暖かい液体に嫌悪感を覚えながら、ミコトはそう思った。
血が出るほど唇を噛み締めたのは、またも何もできなかった自分が悔しくて悔しくて堪らなかったからだ。
一人の少年がいた。彼は、自分の中の憎しみと戦っていた。
一人の男性がいた。彼は、自分の中の恐怖と戦っていた。
一人の少女がいた。彼女は、そんな彼らのために戦っていた。
そしてここに居る哀れな少年は、何とも戦うことができずにうなだれている。
声を上げれば、足を一歩踏み出せば、何か変わったかもしれない。
しかし、ミコトにはどちらもできなかった。結果として、目の前で一人の人間が文字通り消えて無くなった。
ミコトという名前は、何よりも命を大切にする優しい人間になるように付けたんだと、いつだったか両親が言っていた。
ミコトもそうありたいと思って生きてきたし、実際優しいと言われることも多い。
でも、ミコトのそれは優しさではなく臆病だった。
嫌われるのが怖い。傷つくのが怖い。だから人とぶつからないようにする。
本当の優しさには、優しさを貫くだけの強さも必要なのだ。
そして、それはミコトにはついぞ身に付かなかったものだった。
ミコトが自責の念に圧し潰されそうになっている間に、教室にはささやきが跋扈していた。
「本当に消えたよ」
「でも、ねえ、なんか……」
「うん、思ったよりあっけないよな」
耳を澄ませてみると、囁きはそんな内容が主だった。
確かに、血が飛び散るわけでもなく、服どころか猿轡までまるまる綺麗さっぱり、音も立てずに消えてしまっている。そのせいか、やけに現実感が薄い。
まるで、最初からタナカという人間が居なかったかのようだ。
「あらぁ? もしかして、もっとエグいのを想像していたのかしら? 可愛い顔してやるじゃない」
そんな生徒たちの反応に、女神はニヤニヤと笑いを浮かべる。
図らずも不謹慎さを自覚させられた生徒達は、居心地悪そうに身じろぎした。
「じゃあ早速――あら、なんだかまた大人しくなってしまったようね」
自分の言葉に勢いを失くした生徒たちを見やり、女神はがっかりしたように進行を止める。
それからふと思い出したように顔を明るくし、言葉を続けた。
「そうそう、言い忘れていたのだけど。貴方たちがやる気になりそうなことがあったわ」
――まだ、何かあるというのか。
既に状況は最悪に近く、女神が提示する新たな事実が、この状況を改善するというのは全くもって考えられなかった。
何か変化があるとすれば、それは悪い方向に転がる公算がずっと高い。
ミコトは歯噛みしながら女神の次の言葉を待つ。
「この鬼ごっこで、最後まで残った一人には――一つだけ、あらゆる願いを叶える権利が与えられるわ」
女神の言葉に静寂が流れ――全員に次第に興奮が広がるのが見て取れた。
一つだけ、あらゆる願いを叶える。
それは、ミコトにとって一筋の希望となり――同時に大きな絶望でもあった。
ここまでの事態を考えれば、女神の言う『あらゆる』とは、掛け値なしに『全て』ということだろう。
どんな願いでも、物理法則も世の理も全てを振り切って、掛けられた願いの彼方まで一足飛びに辿り着く。約束された奇跡の実現だ。
それはつまり――今消えたタナカを含め、これから始まるゲームの中で失われるであろう命を取り返せるということである。
逆に、これで積極的な参加を決意する人間は多いだろう。
自分と他人の命を天秤に掛ければ、多くの場合それは自分の側に傾く。
そこに更に極上の宝を乗せたとなれば、ほぼ全ての人が天秤をかなぐり捨て諸手で宝を掴みに行くだろう。
つまり、巻き込まれた段階で勝ち残る以外に取るべき選択肢は無いのだ。
生き残るために。望みを叶えるために。誰かを救うためでさえも。
「さて、やる気も出たみたいだし続きといきましょうか」
ミコトの思考を、女神の言葉が遮った。
ふと顔を上げると、クラスメートは様々な表情を浮かべているものの、全員それなりに覚悟を決めているようだった。
ミコトもようやく一つの決意を固め、女神の言葉を待つ。
「まずは、左手の能力を決めましょう。ちゃんと全員の希望を聞いた上で決めるから安心して」
全員の希望を聞くとなると、相当時間がかかるんじゃなかろうか。
そんな疑問は、予想の斜め後ろから解決される。
「それでは、個別モードに入るわ」
両手を左右に広げた女神が、その言葉と共に手を打つ。
以前見た宮司の拍手にそっくりだなとミコトがぼんやりと思った次の瞬間――
ミコトは、真っ白な空間に一人で立っていた。
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白。混じりけのない純粋な白だ。
天井、壁、床の境目は無く、見渡す限り真っ白な世界は、ミコトという異物が無ければ存在しているのかすら危うい。
まさに『空白』を体現しているような空間だ。
暗闇と違い自分の姿が見えることが、唯一世界の存在を肯定している。
しかし、自分以外の物はなに一つ見当たらないし、耳は飾り物と化したのか一切の音を拾っていない。
「何でもアリだなあ、本当に」
試しに独り言を呟き、自分の耳の機能に異常が無いことを確かめる。
「カシワデミコトくん」
突如呼ばれた自分の名前に振り返ると、何もなかったはずの空間に女神が出現していた。
『個別モード』というさっきの言葉を考えると、この空間の登場人物はこれで全てだろう。
そのもう一人の顔を、怒りを籠めて睨み付ける。
「あら、そんなに怖い顔をしなくても大丈夫よ。取って食おうというわけではないのだから」
女神はわざとらしく間違えた解釈をして、変わらぬ笑顔でその視線を受け流す。
「それでは、貴方の左手の能力を決めましょう」
――そんなもの、要らない。
怒りに任せてそんなことを言いそうになる自分を、ミコトはなんとか抑えつけた。
ここで怒りに身を任せては、このゲームを止めることはおろか、自分が生き残ることすらできないだろう。
今できること。それは、勝ち残るために必要な情報と能力を得ることだ。
それを掴むために、今は感情を殺そう。冷静に頭を回そう。
自分にそう言い聞かせるミコトは、それが言い訳に過ぎないことをわかっていた。
結局のところ、ミコトはこの期に及んですら臆病風に吹かれているのだ。
だが、結果としてそれが役に立つのなら、自分の臆病ですらも利用してやろう。
勇気が無い。ならばその分、考えることだけはやめてはいけない。
「貴方は、どんな能力を望むのかしら」
考えるんだ。このゲームを終わらせるために。
「その前に、いくつか聞いてもいいでしょうか」
ミコトは、感情を殺した声で問いを発する。
何かを考えるなら、まずはともかく情報を集めれるだけ集めろ――というのは、ユウが以前に教えてくれたことだった。
「ええ、もちろん。何でも聞いて頂戴?」
女神はその問いをどう受け取ったのか、ひどく上機嫌に返事を寄越した。
そのことにひとまずの安堵を得つつ、ミコトは思案を巡らせる。
「まず……消えた人間はどうなるんでしょうか」
一番気になっている点を直球でぶつける。
駆け引きや心理戦などは、ミコトの最も苦手とするところの一つだ。
そもそもそういったものが通じる相手とも思えないし、女神は何でも答えると言ったのだ。
ここまでで、女神はミコトが知る限り一つも嘘を言っていない。
なんとなく、嘘は吐かないと予感していた。
「言葉の通りよ。この世界からきれいさっぱり消えて無くなるの」
案の定、女神はあっさりと答えた。
しかし、答えを聞いても理解には苦労する。
「死ぬわけではない、ってさっき言ってませんでしたっけ。消えるのと死ぬのは違うんですかね?」
「当然違うでしょう。消えたら死体は残らないし」
何を当たり前のことを、という空気を醸し出す女神。誤魔化している風でもなく、本気で考え方が違うのだろう。
その態度に、ミコトは苛立ちを覚えながら質問を続ける。
「ええっとそうじゃなくてですね、つまり、消えた人間はどこに行くんですか?」
「貴方、電気を消したときに『明かりはどこに行くのか』、なんて考えるかしら」
消えるってそういうことでしょう、と女神は結ぶ。
これで、もしかしたら消えた人はどこかに行ってしまっているが生きているかもしれない、という儚い望みは完全に断ち切られた。
「つまり――消えるっていうのは、死ぬよりひどいことなんですね」
「何を以てひどいというかはわからないけれど、貴方がそう思うのならそうなんでしょう」
右手で触られたら、消えて無くなる。
死んだなら天国や地獄に行けたり、生まれ変わったりできるかもしれないが、消えたらそれも絶対にあり得ないのだ。
女神に聞けばその辺りも真実を教えてもらえるのかもしれないが、それは今気にしても仕方ないことだ。
確かなのは、消えるということが死以上の絶対的な現象であるという事実。
「じゃあ次ですけども。勝者が叶えられるたった一つの願いっていうのは、本当に何でも叶うんですか?」
「当然よ。まあ、願いを百個に増やしてくれという屁理屈は却下だけれど」
こともなげに答える女神だが、それもやはり真実なのだろう。ということは、
「例えば、消えた人を全員元に戻す――なんてことも……」
「もちろん可能よ。あるいは――今後このゲームが二度と行われないように私を殺す、とかね」
自ら命を差し出すような女神の発言に、ミコトは訝しげに顔をしかめる。
というか、その言い種では『生かしておくといずれ次のゲームを始めるから殺しておいた方がいい』と自ら進言してるのと同じだ。
「いやこれは……『私を倒しても第二第三の女神が』みたいな?」
最悪なパターンが脳裏をよぎり、ミコトはしかめていた顔を若干青ざめさせる。
「私が量産型の取るに足りない存在のような戯言が聞こえた気がするけれど……まあいいでしょう。質問はもういいのかしら?」
「いや、まだ何個かあります……」
ミコトのぼやきに不満げな声を上げる女神。
切り上げられそうになる質問タイムを、ミコトは考え考え延長申請した。
「ええと……願いを叶えられるのは残った一人、だから……あ、ていうかこのゲームの参加者ってうちのクラスだけなのかなあ」
「参加者は日本全国の高校生。人数は――正確な数が知りたいかしら?」
ほぼ独り言と化しているミコトの質問。
それに対する女神の言葉には、その情報だけで途方もない数の参加者がいると知れたので「結構です」と返事を返す。
ミコトの頭の回転は決して速くない。
速くはないが悪いわけではなく、ユウ曰く「時間が掛かるけどいずれ正解に辿り着くタイプ」とのことだ。
なら、たっぷり時間をかけよう。納得行くまで考え尽くし、疑問が尽きるまで問い続ける。
「日本全国の高校生……何人いるのか分からないけど、その中からたった一人。あれ、なんで高校生?」
考えをまとめる言葉を口にしつつ、最後に「ですか?」と付け足して女神に問いを発する。
その問いは女神の笑顔を誘ったようで、口角を釣り上げて答えが返る。
「この鬼ごっこの名前、憶えているかしら。『イマジン鬼ごっこ』。イマジン――つまり想像力が重要な鍵となる」
女神は立て板に水と語り続ける。
「だから高校生にしたのよ。人格は形成されているけれど、まだ豊かな想像力を失っていない。日本という国を選んだのも同じ理由ね」
「想像力が鍵となる、っていうのは――」
「左手の能力は、使用者の想像を実現する。もちろんある程度バランスは取らせてもらうけれど、基本的には想像力豊かなほど高い効果を得られるわ」
そこまで聞いて、ミコトは納得した。だから、『イマジン鬼ごっこ』。
確かに日本の妄想力、もとい想像力豊かな高校生たちが活躍しそうである。
とは言っても、巻き込まれたことを許すわけではないが。
「左手の能力……全員が使えるわけだし、バランス調整もされるんだから無双したりはできなさそうだなあ」
ミコトもマンガやアニメ、ゲームで鍛えた想像力には自信がある方だが、それでも全国の高校生の頂点に立てるとは思わない。
それに、右手の方が文字通り『一撃必殺』である。
「普通に考えて、僕の運動神経じゃすぐやられてしまうよなあ」
スポーツテストなんかもクラスで下から数えた方が早いくらいである。
例えば相手を近付かせないような能力にしたとして、背後から迫られたり普通に掻い潜られたりで、最終的にただの鬼ごっこになってジ・エンド。
あっさりと自分がやられる未来が思い浮かび、ミコトはいやいやと首を振る。
「なら……最初から逃げに特化する、とか」
自己バフでスピードをガンガン上げて逃げ切りを狙う。あるいは、スニーキングで一人だけかくれんぼで生き残る。
どちらかと言うとそっちの方が目がありそうだ。人を攻撃する能力は性に合わないし。
と、逃げ特化の能力を中心に候補を考えようとして、ふと思いとどまった。
――もし逃げを選んで、それでも負けてしまったら。
ただひたすらに逃げ、自分の命だけを守り、その挙句にその命すら奪われ、願いを叶えることもできない。
逃げる、隠れるということは、その過程で目にする誰かの命を見捨てるということに他ならない。
そして負けてしまえばそれを取り戻す方法もない。
「命を大切に、か――」
テレビゲームなら、それは防御を第一に考えろということだが、現実ではそうではない。
回復魔法が使えるわけではないし消えたら終わりなのだから、時には守りを固めるだけでは生き残れないのだ。
「回復魔法? 消えた人を復活させる能力……は、『触れたものをどうにかする能力』だから無理かあ……死者なら蘇らせられそうだけども」
思考の波間の選択肢を拾い上げ、役に立たない考えだと再び放り投げる。
ここでも、消えるという問題が立ちはだかる。
「じゃあ、そもそも消えないようにできれば……?」
逆転の発想。そこに不意に希望が見えて、ミコトは勢いよく女神をふり仰ぐ。
「触れたものを消えないようにする、という能力は可能ですか!?」
「可能よ?」
あっさりと肯定する女神。ミコトの顔が思わず明るくなる、それを見届けて女神も笑顔を浮かべ――
「ただし、左手の能力は同時に複数の物に発動することはできないわ。これはどんな能力でも一緒。二つ目の物体に能力を発動した瞬間、前の物体にかけられた能力は解除されるわ」
ミコトの希望を断ち切るルールを告げた。
その無情な言葉に、ミコトの顔は一転して暗くなる。
「いやでも、考え方としては悪くないんじゃないかなあ……自分にかけ続けていれば勝ち残れそうだし……」
逃げの戦法に戻ることになるが、それで勝ちが確定できるなら問題はない。勝って願いでみんなを助ければ。
「触れたものを消えないようにする能力、でいいのかしら?」
女神の確認に、しかしミコトは何かを見落としている気がしてならない。
こんな簡単に勝ち残る術が見つかるものだろうか。
ともすれば必勝法にも思える能力。それの存在を許容して『バランスを取る』のは不可能なはずだ。
目線を変えて考えてみる。例えばミコトが非情な人間で、容赦なく敵を倒すとする。
そこに触れたものを消えないようにする能力――『消失無効』とでも呼んでおこう。その能力を持つ敵が現れたら。
「どうすれば倒せるかなあ? 『参加者は絶対に死なない』から、右手以外の勝利方法はないし……」
不死身の敵を倒す方法。マンガ的知識で行けば、常套手段は『封印』。敵の動きを封じればその脅威は死んだのと同義だが、
「この場合、どうなんだろうか。動かなくても参加者として存在している以上負けではないのかなあ」
「ええ、願いを叶えられるのは最後の一人だけ」
問いかけたわけではないミコトの疑問にも、女神は答えをもたらす。
親切なのか退屈なのか、前者ならその優しさを以てこのゲームを即刻取りやめてほしいものだが。
「ですよねえ。ていうか、そもそも同じ能力者が二人居たら決着つかないんじゃあ?」
「そうね。仮にその能力だけが複数人勝ち残るようなら――左手の使用を不可にして決勝戦でもやりましょうか」
ミコトが思いつく程度の能力は、他の人だって思いつくに違いない。
ミコトの疑問に主催者としては順当過ぎる回答がなされ、また一つ希望を断たれる。
『消失無効』をはじめ絶対防御系は、主催者がドローゲームを認めない以上決勝で封じられて実力勝負ということになるだろう。
他の能力より勝率は格段に上がるには違いないが、それでも最後の決戦で勝てる気はあまりしない。
「無双は無理で逃げ切りも厳しそう……八方ふさがりってやつだなあ……」
ミコトは頭を抱えてしまう。でも、諦めるわけにはいかない。さっき決めた、一つの覚悟。
『できるだけ多くの命を救う』――。それがミコトの決意だった。
動けなかった自分。戦えなかった自分。勇気が足りない自分。
そんな自分を、変えるべき時が来たのだ。その決意を固めさせたのは、戦う姿を見せた少女だ。
「考えろ考えろ考えろ――みんなの命を救う方法を」
誰の命だって奪われていいはずがない。こんな理不尽なゲームに参加させられ、命の奪い合いを演じなければいけないなんて。
「そう――参加、させられるなんて」
ミコトの必死の思考と言葉が、一つの可能性に辿り着いた。
『①右手で触れられた参加者は、消える』。
『②左手には、触れたものに影響を与える能力が与えられる』。
『③参加者は、絶対に死なない』。
そして『④最後まで残った一人には、あらゆる願いを一つだけ叶える権利が与えられる』。
右手で触れられた参加者は例外なく消され、参加者が最後の一人になるまでゲームは続く。
結末は『消える』か『最後の一人になる』かしかない。
――そう、『参加者』は。
「――これが、たぶん最後の質問です」
ミコトは女神に向き直り、静かに言った。
その言葉に、女神は無言で続きを促す。
この質問の返答次第で、ミコトの左手の能力が、このゲームで為すべきことことが決まる。
決意を固め、問いかけたその内容は――。