第三章18 背中を押す手
夢を、見ていた。
何故夢と分かるかと言えば、もう絶対に会えないと分かっている人がそこに居るからだ。
橘瑞生。幼馴染で、心臓に病を抱え、それでも健気に生きた少女。
ミコトは、思い出す。
苦しそうにしている彼女を。悲しそうに涙を流す彼女を。眠ったまま、目を覚まさない彼女を。
結局、彼女に何もしてあげられなかった。
ミコトの心の中には、ずっとその後悔が残っている。
だからミコトは、一つだけ心に誓ったのだ。
彼女に託された、最後に交わした、『命を大切にする』という約束。
それだけは、絶対に守り抜くと。
しかし、ミコトは思い出す。
教室で失われた多くの命を。燃え盛り悲鳴を上げる少女の声を。消える瞬間すら見ることができなかった、大切な仲間を。――薄れる意識の中で聞こえた、エイタの高笑いを。
助けられなかった、取りこぼしてしまった命。そして、これから取りこぼすであろう命。
それらは悲嘆な声を揃え、ミコトを苛み苦しめる。
助けて。なんで助けてくれなかったんだ。お前がもっと頑張れば、俺たちは助かったはずなのに、と。
――違う。助けたかった。僕は頑張ったんだ。でも、あと少し届かなかった。
『本当に?』
頭の中で言い訳の言葉を並べるミコトの前に、エイタの影が現れる。
『本当に、お前はあいつらを助けたかったのか?』
そう言って指を差す先に、消えて行った人々の顔が浮かぶ。
「当たり前だよ……みんな、みんな助けたかった……!」
エイタの問いかけに、ミコトは叫ぶ。
『理由は?』
しかし、エイタは尚も問いを重ねる。
「理由……?」
『理由だよ。お前があいつらを助けたいと思う理由』
問の意味が分からず、ミコトはオウム返しに問い返す。あるいは、それは分かっていないフリだったのかもしれない。
これは夢であって、エイタの言葉もまたミコトの脳内で生み出される言葉に過ぎない。
すぐさま問が打ち返されたということは、そういうことなのだろう。
「それは……命は、大切なものだから。当たり前で……」
『だから、その理由を訊いてるんだよ。命が大切な理由をさ』
「それは……」
――約束したから。ただ、それだけ。
『ほらな? 結局お前はその約束しか考えてない。本当に命が大切なのか、それすら考えたことがないんじゃないか?』
エイタはミコトの全てを見透かすように、問いかけを以てミコトの心を抉る。その声は、エイタの声にも聞こえるし、誰か別の声にも聞こえる。
『命が大切、それは結構なことね。でも、それは貴方の答じゃないでしょう?』
気が付けば目の前に居るのはエイタではなく女神で、しかし言葉はずっと続いている。
『ミコト、お前にはガッカリやわ。お前の中にあった芯は、お前のもんじゃなかったんやな』
失望を露わにする、タイジュの声が聞こえる。
『だから、私のことも助けられなかったんだね。命を大切にするっていうのは上辺だけ。本当は、何にも考えちゃいなかったんだ』
エリの声がミコトを責める。彼女の顔は、酷くかすんで見えた。それはミコトが、彼女が最後にどんな顔になっていたのかを知らないから。
『戦いは俺たちに任せて、意志は瑞生の借り物で。なら、お前は何のために戦ってる?』
いつもと変わらない、淡々とした調子のユウの声がそう訊ねる。
返す答はない。ミコトには、何もないから。
『ミコトくん……ごめんね。私との約束が重荷になってるなら……忘れてくれても、いいんだよ?』
そして目の前に現れた瑞生が――そう言って、悲しげに微笑んだ。
「そんな……忘れるなんて、そんなことできない! そんなこと、言わないでよ……!」
弾かれたように、ミコトはそれを否定する。やはりそれはただの反射で、ただ瑞生との約束にしがみついているだけだ。
『――なんで?』
瑞生は悲しい顔のまま、ミコトにそう訊ねる。
「なんでって……それは、約束したからっ……!」
『なんで、ミコトくんは約束したの? なんで、その約束を守ろうと思ったの?』
やはり反射で答えるミコトを、瑞生は逃さず問い質す。
約束を願ったのは瑞生だ。だが、その約束を受けたのは。守り抜くと決めたのは。
――ミコト自身なのだ。
「……それは――」
ミコトは、答を探す。ずっと考えるのを放棄していたその答に、遅きに失して向き合う。
だが、ずっと考えてこなかったのだから、それがすぐに見つかるはずはなかった。
『――残念だけど、もう時間みたい』
そうしてミコトは、またも何もできないまま。
「待って――!」
遠ざかる瑞生に手を伸ばし――夢の終わりを迎えることになった。
***************
巨人が、右手を振り上げるのが見える。
「――リョウカ!」
ユウはいち早く動き出し、そう声を上げる。呼ばれたリョウカもすぐに意図を察し、ユウに合わせて行動する。
「『完全停止』!」
目の前を横切ったユウが創り出した網を、左手で触れて止める。
間一髪のところで振り下ろされた巨人の右手が、網に阻まれ眼前で止まった。
「アカリ、ミコトを連れて小屋の外に!」
「わかった!」
巨人を見て呆然としているミコトを見て、彼がまともに動けないと判断したユウはアカリにそう伝える。アカリは二つ返事でミコトを左手で引っ掴むと、小屋の外へと転び出た。
「あれ? 全員無事? おかしいなあ」
上から降ってくる巨人の声は、どこか気が抜けていた。実際あれで大概決着は着くだろうから、驚いても不思議はないが。
追撃がすぐに来ないと読んで、ユウとリョウカもすぐに能力を解除して小屋を出た。
四人揃って、改めて突然現れた巨人を見上げる。
普通の、制服を来た少年だ。サイズ感がおかしいのを除けば、だが。
彼の大きさは通常の倍どころではなく、十倍近くあった。つまり、十五メートルに迫る巨体だ。
「まあいいや、もう一回」
相変わらず気の抜けた声でそう言うと、巨人は再び右手を振り下ろす。
先ほどと同様に、ユウとリョウカの連携によってそれは阻まれる。
「ふーん、網だ。カッチカチだね」
彼はそのまま右手の指で網を触り、確かめるようにそう口にする。
「リョウカ、合図したら一瞬能力を解除してくれ。その後すぐ再発動」
低い声で呟くユウに、リョウカは僅かに顎を引く。
「今だ!」
つんつんと網を突いている巨人のそのタイミングを見計らって、ユウが声を上げる。
リョウカが能力を解除するのとほぼ同時、ユウも能力を変化させる。
「あれ?」
巨人が疑問符を浮かべ、企みは成功する。
一部だけ網を変化させ、とりもちに変えたのだ。そこでもう一度リョウカの能力を使えば――巨人の指が貼り付き、微動だにしなくなる。
いくらデカかろうと、右手さえ封じてしまえばこちらのものだ。後は停止なり退場なりさせればいい。
「リョウカ!」
と、ユウとリョウカの居る辺りを狙って、巨人が今度は左手を振り下ろした。通常なら潰されてジ・エンド、しかしリョウカが居ればそうはならない。
相手の能力が何であれ、発動する前に止めてしまえばこちらの勝ちだ。
リョウカも当然の如く、逃げずに左手を突き出して待つ。しかし――
「――! 横だ!」
左手は、二人の寸前で止まった。何事かと巨人を見れば、その左足が二人目掛けて飛んで来るところだった。
重たい風を引き連れて迫る巨人の靴に、二人はぶつかるギリギリのところで気が付いた。
接続が停止して動けないユウは思わず目を瞑り、リョウカは左手を構え直して――
「『完全停止』!」
ユウの鼻先で、巨人の靴はピタリと止まった。
「……しぬかとおもった」
固まったままそうこぼし、ユウは盛大にため息を吐く。
一瞬ひやりとしたが、これでミコト陣営の勝利が確定――
「うわ、何これ! 足動かない!」
「――な……!」
して、いなかった。
聞こえなくなったはずの巨人の声が降ってきて、ユウは愕然と目を瞠り声を漏らす。
「まさか……デカすぎて、靴と人間を別物だと認識した……?」
「みたいです……ごめんなさい、ユウ」
巨人の声と不自然な格好で狼狽えている様を見れば、どうやら巨人の靴だけが停止しているようだった。
一度に能力を発動できる物体は一つだけ。だが、『一つの物体』の定義は曖昧だ。
例えば、大概人間に触れる時は服の上から触れる。しかし、服も含めて『一人の人間』と認識できるから、問題なくその人間に対して能力を発動できていた。
しかし、ここまで大きくなっていると、靴を通して巨人に触れているという認識を固められなかったのだろう。謝るリョウカだが、決して彼女が悪いわけではない。
しかし、そんなことを考察している余裕はどこにも無かった。
巨人の右手はまだ、とりもちに貼り付いている。しかし『停止』が解けたことである程度の可動域を得ており、その周辺は危険域だ。
そして、右手と左足以外は健在。
「――! ミコト!」
「アカリ!」
ユウとリョウカが叫び、その視線の先には。
ミコトを引っ張るアカリと、二人に迫る巨人の右足があった。
*************
目を覚まして尚、夢を見ているようだった。
いや、それは正確な言い方ではない。正しくは――現実逃避、と言う。
エイタに勝ち逃げされた事実を改めて知らされ、ミコトは完全に心が折れてしまった。
――また、何もできなかった。
現実では完全な敗北を喫し、夢の中では唯一守りたかった約束を否定され、挙句その相手の問に何も答えられず。
そんなときに現れた巨人を見て、ミコトはもう、何もかもどうでもよくなった。
頑張っても何も得られず、何のために頑張っているのかも分からない。
その上こんな、勝ち目の無さそうな敵が目の前に現れた。
――もう、ここで終わってしまっていいんじゃないか。
だからミコトは、手を引いてくれる誰かに引き摺られて動いているだけだった。
それが誰なのかもほとんど理解しないまま、巨人の猛威をぼんやりと眺めるだけの、空っぽな生き物。それが今のミコトだった。
「ミコトくん、しっかりして!」
時折、そんな声が聞こえた。水の底にいるようにぼんやりと、遠くから聞こえる感覚を味わう。
もちろん、そんな感覚だから誰なのかは分からない。ただ、その声は心地よい。
何度も何度も、その声はミコトを励まし、そして腕を引く。声の心地よさにつられ、ミコトはそれに従う。
――ああ、このままこうして、腕を引いてもらえたら。
そんなことをぼんやり思う自分に気が付く。
この期に及んでそんな事を考える自分は、どうしようもなく救えない。
だからそれは、そんなミコトに対する神の鉄槌だったのかもしれない。
「――! ミコト!」
「アカリ!」
遠くで、誰かが叫ぶのが聞こえた。
ミコトの名前と――ミコトの腕を引く、その少女の名前だ。
その名前が、空っぽのミコトに、少しだけ意識を取り戻させる。
「ハナ、ちゃ……」
彼女に気が付き声を上げるのと同時――背中に衝撃が走る。
「ミコトくん」
後ろを振り返れば、アカリその人が左手を突き出していて。
自分は彼女に、背中を押されたのだと気付く。
そして、呟いた彼女と目が合ったと認識した瞬間――
アカリは、通り過ぎた巨大な物体に撥ね飛ばされた。
ゴッという鈍い音がミコトの鼓膜を殴りつけ、アカリは蹴飛ばした石ころのようにころころと転がって吹き飛んでいく。
そして、近くにあった別の建物にぶつかってようやく止まり、そのままぐったりと動かなくなった。
「――ハナちゃん!!」
皮肉にも、その姿が、ミコトの意識を完全に覚醒させた。
叫んで駆け寄り、ミコトはぴくりとも動かないアカリの傍らに跪く。
アカリはだらりと四肢を投げ出し、その半分は変な方向に曲がっていて、身体中の至る所から血を流している。
「ハナちゃん、あぁ、ハナちゃん……」
どくどくと血が溢れ、辺りに血だまりを作っていくのが分かる。跪くミコトの脚をその血が濡らし、生温い感触が浸み込む。
どうしていいのか、どうすればいいのか分からず、ミコトは益体も無く彼女の名前を呼ぶ。
ミコトの能力は強制退場。触れた参加者をゲームから退場させる、ただそれだけの能力。
故に彼女の傷を癒す術は無く、彼女にしてあげられることは、またしても何もない。
だから思わず――せめて、彼女を励まそうとした。
声を掛けて――抱き上げて。
しかし、その挙は幸いなことに完遂されなかった。
抱き上げようとミコトが両手を彼女に伸ばした瞬間、頬を思い切りぶん殴られたからだ。
「馬鹿野郎! ハナサキを消すつもりか!」
痛みに我に返り顔を上げれば、左手を振り抜いた体勢のユウがそこに居た。
「ごめ……! 後ろ!」
反射的に謝るミコトだが、それは目の前の光景によって中断された。ユウの背後、巨人がまたしても右手を振り下ろしたからだ。
「懲りない奴だな」
しかし、ユウは冷静に対処した。
能力を発動し、リョウカの能力で固める。今度はドーム状に網を張ったから、これでどちらも手出しはできない。
「ハナサキ……これは……酷いな」
そしてユウはアカリの様子を検分し、思わずそうこぼす。
「ごめん、ハナちゃん……僕のせいで……! それなのに、僕は……!」
アカリに向かって両手を地に着き跪き、ミコトは許しを乞うように声を落とす。
「また……何もしてあげられない……!」
アカリの姿がぼやける。いや、アカリを見ているミコトの視界がぼやけているのだ。
自分の不甲斐無さに、無益さに、ミコトは堪えようもなく涙をこぼす。
「ミコト、くん……」
と、不意にそう声が聞こえる。見れば、なんとアカリは薄く目を開けていた。
そして、ミコトの名前を呼んでいるのだ。
「ハナちゃん!」
「ミコトくん……手、握ってくれる?」
アカリは、かろうじて動かせる左手を少し持ち上げてそう言った。
一も二も無く、ミコトはそれに従う。今度は慎重に、左手だけを彼女に伸ばす。
そしてその華奢な手を握りしめれば、彼女も僅かに握り返して。
「ありがと……ほら、ね?」
「ハナちゃん……何が……?」
微かな笑顔で、そんなことを言う。訳が分からず、問い返すミコトに――
「私、今、元気になったよ。ミコトくんは……何もできなくなんか、ないよ……」
どうしようもなく優しい言葉を掛けて。
そしてその掌から、温かい何かがミコトに流れ込んでくる。
その温かい何かは、ミコトの身体をゆっくりと巡り――やがて、心を静かに満たした。
***************
「……ユウくん。リョウカちゃん」
しばらく黙り込んだミコトはやがて、目元をぐいと拭うと、おもむろに立ち上がった。
そして二人の名前を呼び、目を合わせて――
「まず、あの巨人を退場させよう」
決然とした面持ちで、そう言った。
「――ようやくお目覚めか。全く、世話が焼けるな」
ユウは、ニヤリと笑いながらそう答える。
悩み、苦しみ、答えを探し――そして見つけた。そんな表情を、ミコトがしていたから。
「そうですね。このうるさいのを黙らせたら、いっぱい言い訳してもらいますから」
リョウカもそう言って微笑み、網の外を見上げる。
先ほどから性懲りもなく網を叩き続けている巨人は、ぶーぶーとその大きな口で文句を言い続けていた。
それを見て、三人は改めて戦う意志を頷いて確認し合う。
――どうやら、手を汚すのは無しみたいだな。
ユウは、安堵と喜びを感じながら、そう心の中で呟いた。




