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第三章16 橘瑞生⑥

 それから程なくして、その日はやって来た。

 瑞生の十二歳の誕生日から、およそ半年。あれ以来、ドナーは見つからないままだった。


 教室で授業を受けている最中。突然前の扉が開かれたと思えば、教師の一人が担任を手招きし、何やら耳打ちをした。


「柏手くん、信藤くん、ちょっと」


 担任の教師がそう言って二人を手招きしたので、何事かと不安を抱きながらそれに従う。

 そして、周りには聞こえない声で告げられたのだった。


「橘瑞生ちゃんが急変したそうです。親御さんが迎えに来てるから、一緒に病院に行ってあげて」


***************


 病院に辿り着くと、いつかと同じように待合室に通された。

 手術中のランプが赤々と点灯し、瑞生の両親と、命と結、二人の母親の6人で待つ空間をじっと見つめている。


 やがてそのランプが赤い目を閉じたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。

 そんな大手術の結果――


「申し訳ありません。手は尽くしたのですが――」


 瑞生の意識は、もう戻らないと告げられた。


 瑞生の両親に対する説明を傍から聞いていて理解できたのは、脳に大きなダメージを負ったためだということ。

 それは回復があり得ないダメージらしく、生命維持装置がなければすぐに死んでしまうそうだ。


「今夜はいっしょに居てあげてください。これからのことは、落ち着いてから相談しましょう」


 そしてそう言い残すと、瑞生は病室に運ばれ、結たちは全員そこに集まり、医師と看護師は全員席を外した。



「こうやって見てると……普通に眠ってるようにしか見えないな」

「そうね、本当に……」


 瑞生の両親は両側から彼女の手を片方ずつ握り、そんなことを呟いている。


「そうだ……命くんと結くんは、流石に泊まる訳にはいかないだろう。今のうちに、話しかけてあげてくれないかな」


 言われるがまま、命と結は瑞生の隣に行き、それぞれ場所を交代する。

 命は瑞生の左手を握り、結は右手を握りしめる。


「瑞生ちゃん……」

「瑞生……」


 名前を呼んでみたものの、何を話せばいいのか全く思い付かなかった。

 だって、瑞生は今眠っていて、握った手はこんなにも温かくて。

 彼女が目を覚まさないなんて信じられないのだから、別れの言葉など言えるはずもない。

 それでも反応を何も返してくれない彼女に、一体何を話せばいいのだろう。


「――そう言えば、今日学校でね……」


 結が途方に暮れていたら、命は訥々とそんなことを話し始めた。

 いつも通りの、なんてことのない日常の話。

 ああそうか、そうすれば良かったのかと、結もそれに相槌を打って喋り始める。


 そうやって話し始めたら、いくらでも話せた。瑞生の反応が無いだけで、いつも通りの会話だ。

 気が付いたら親たちは気を遣ったのか部屋から出て行っていて、本当にいつも通りの空間が出来上がる。

 瑞生の病室に遊びに来て、時間の許す限り他愛のないことをして過ごす。そんな、ありふれた日常の風景。


「……命?」


 しかし、ぽつぽつと喋っていた命が急に黙り込んだ。

 何事かと思って声を上げて彼を見れば――ぽろぽろと、涙を流している。


「ごめん……ごめんね、瑞生ちゃん。結局、僕たちは瑞生ちゃんに、何もしてあげられない……っ」


 命も結局、無理をしていたのだ。いつも通りに、変わらずに振舞っていながら、しかしもう元には戻らないことを理解している。

 それでも普段通りにしようとしたのは――


「泣くなよ、命。瑞生だってそう思ってるよ」


 瑞生を悲しませたくない。ただそれだけだ。

 彼女に今意識は無い。目を閉じ、口を閉じ、呼び掛けに答えることはない。

 でも、彼女はここに居るのだ。だから二人は、瑞生のために話をし、手を握り、笑顔を浮かべる。

 たとえ涙が頬を伝おうとも、その頬を懸命に引き上げる。


 だが、もし、叶うのなら。


「目を、開けてくれ――」


 零れ落ちた言葉は自分の堰をぶった切り、決壊した感情は涙と言葉を体外に放出しようと暴れ回った。


「目を開けてくれ。声を聞かせてくれ。目を見て、話を聞いて、もう一回笑ってくれよ。せめて、一回だけでいい……最後の別れも言えないまま、このまま死ぬなんて……そんなの、寂しすぎるだろ……」


 返事は無い。

 結がこれだけ話しかけているのに、命がぼろぼろと涙を流しているのに、こんなにも手を強く握りしめているのに。

 瑞生は目を瞑ったまま、穏やかな顔で眠り続ける。


「瑞生……瑞生……」

「瑞生ちゃん……」


 壊れた機械のように、弱々しくその名を、何度も口にする。

 そうして名前を呼べば呼ぶほど、どうしようもない現実が二人の心に刃を突き立てる。


 瑞生はもう、目を覚まさない。

 結局、二人にできることは何もないと。


 そう、思い知らされた。



 だからそれは――二人の力ではなく、純粋な奇跡だったのだと思う。


「――命、くん。結くん……」


 あり得ない声を聞いた。

 意識が無いはずだ。目を開けることすらできないはずだ――それなのに。

 余りにも聞き慣れ過ぎた、しかし初めて聞いた時からずっと変わらず心地よい、そよ風のような、柔らかくて優しい声。


 恐る恐る目線を上げていくと――


「命くん……結くん」


 ゆっくりと目を開き、二人の名前を呼ぶ瑞生の姿がそこにあった。


「み――」

「瑞生ちゃん!?」

「瑞生!? 聞こえるのか!?」


 命も結も、我を忘れて大声を上げる。

 病室の外がにわかに騒がしくなり、扉が開かれ三人の親たちが入ってくる。


「二人とも、どうかした――」

「おじさん、瑞生が!」

「瑞生ちゃんが目を!」

「な――瑞生!?」


 怪訝な顔をしている瑞生の父親の問を遮り、二人は叫ぶ。

 そして、彼も確かに見たのだろう。愛しい娘が、帰ってこないと思っていた娘が、目を開いているのを。


「す、すぐに先生を呼んできます!」


 一番扉に近い位置に居た命の母親が、そう叫んで部屋を出て行った。


「命くん、結くん」

「うん、ここにいるよ、瑞生……!」

「瑞生ちゃん!」


 騒がしい室内にあって、しかも呼吸器のせいでくぐもっているにも関わらず、瑞生の声は二人にはっきりと聞き取れた。

 手を握り、その呼び声に懸命に答える。


「ごめん、ね。私、もう助からないみたい……話は、ずっと聞こえてたの」

「そんなことない、こうして意識が戻ったんだ。助かるよ」


 弱々しい声で、弱気なことを言う瑞生を、励ますように結は話しかける。


「ううん、自分の、ことだもん……分かるよ。たぶん、今、こうして話せるのは……神様がくれた、最後のプレゼント」


 だが、瑞生はそれを否定する。

 その声が、言葉が、二人の手を握り返すその手の、どうしようもない弱さが。

 それが事実なのだと、何故か二人をそう納得させてしまった。いや、もしかしたら、二人にももう分かっていたのかもしれない。


「命くん、ごめんね……帽子、被らなくて。いっしょに外に行くって、約束、してたのに」


 だから二人は、その言葉を聞き取ることに全力を傾ける。瑞生の、最後の言葉。それを、一言一句聞き漏らさないように。


「いい、いいよ、そんなこと」


 命は首をぶんぶんと横に振り、彼女の手を強く握りしめる。


「ううん、他にも、いっぱい。……いっぱい、約束してたのに。全部、守れないや」


 外に出かけること。帽子を被ること。サンダルを履くこと。

 他にも、いろいろと約束していた。命は、彼女が治ると信じて、そして彼女を励ますために、そういう約束をいくつもしてきたのだ。


「でも、最後にもう一つだけ、約束、して……?」


 だから――瑞生から約束を求めるのは、これが初めてだった。

 声も出せずに何度も首を縦に振る、そんな命を見て彼女は微笑む。

 そして、「命くん、」と、名前を呼んで。



「――その名前の通り、何よりも命を大切にする人でいてね」



 そう、願いを口にした。


 その言葉には、どれだけの意味が込められていたのだろう。

 命。自分の命。他人の命。自分の大切な誰かの命。自分の知らない誰かの命。


 その真意は、瑞生本人にしか分からない。

 ただ、彼女の人生の全てを懸けた願いが込められていたことは、命にも、結にも、痛いほど伝わった。


「わかった、約束する……約束するよ。だからっ……」


 震える声で、溢れる涙を拭いもせず、ただ瑞生の手を握りしめて命は答える。

 しかし、「だから」の先は言えなかった。生きてほしいなんて、そんな無責任で、言ってもどうしようもないことは。


「よかった……私……好きだったの。命くんの……名前」


 瑞生は、命の答を聞くと、そう言った。


 「名前」と言うまでの間は、きっと苦しいからじゃない。

 結だけが分かるその間の意味は、どこまでも優しく、そしてどこまでも哀しかった。


「えへへ……ありがとう。二人とも、ずっと、手、握っててくれたよね」


 そして瑞生は、あらん限りの力を振り絞って、そう言いながら手に力を込める。

 彼女の言葉はどんどんと弱くなっていくが、手だけは懸命に、僅かに強く握られた。 


「あのときと、いっしょだね……」


 彼女の右手は命の手の中に、左手は結の手の中にある。

 それはあの夜、いつかのクリスマスの日と同じ手で。

 か細い声で語る彼女は、あの日と同じ笑顔を浮かべ――


「二人とも、ありがとう。私……すっごく……」


 楽しかったよ。


 最後のその言葉は、音にならなかった。

 だが、じっと顔を見つめていた二人には、確かに彼女がそう言ったのが分かった。


 そして――抜け落ちた言葉を追いかけるように、目を閉じ、手から力を失くし――



 橘瑞生は、二度と覚めない眠りへと落ちていった。

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