第三章16 橘瑞生⑥
それから程なくして、その日はやって来た。
瑞生の十二歳の誕生日から、およそ半年。あれ以来、ドナーは見つからないままだった。
教室で授業を受けている最中。突然前の扉が開かれたと思えば、教師の一人が担任を手招きし、何やら耳打ちをした。
「柏手くん、信藤くん、ちょっと」
担任の教師がそう言って二人を手招きしたので、何事かと不安を抱きながらそれに従う。
そして、周りには聞こえない声で告げられたのだった。
「橘瑞生ちゃんが急変したそうです。親御さんが迎えに来てるから、一緒に病院に行ってあげて」
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病院に辿り着くと、いつかと同じように待合室に通された。
手術中のランプが赤々と点灯し、瑞生の両親と、命と結、二人の母親の6人で待つ空間をじっと見つめている。
やがてそのランプが赤い目を閉じたときには、辺りはすっかり暗くなっていた。
そんな大手術の結果――
「申し訳ありません。手は尽くしたのですが――」
瑞生の意識は、もう戻らないと告げられた。
瑞生の両親に対する説明を傍から聞いていて理解できたのは、脳に大きなダメージを負ったためだということ。
それは回復があり得ないダメージらしく、生命維持装置がなければすぐに死んでしまうそうだ。
「今夜はいっしょに居てあげてください。これからのことは、落ち着いてから相談しましょう」
そしてそう言い残すと、瑞生は病室に運ばれ、結たちは全員そこに集まり、医師と看護師は全員席を外した。
「こうやって見てると……普通に眠ってるようにしか見えないな」
「そうね、本当に……」
瑞生の両親は両側から彼女の手を片方ずつ握り、そんなことを呟いている。
「そうだ……命くんと結くんは、流石に泊まる訳にはいかないだろう。今のうちに、話しかけてあげてくれないかな」
言われるがまま、命と結は瑞生の隣に行き、それぞれ場所を交代する。
命は瑞生の左手を握り、結は右手を握りしめる。
「瑞生ちゃん……」
「瑞生……」
名前を呼んでみたものの、何を話せばいいのか全く思い付かなかった。
だって、瑞生は今眠っていて、握った手はこんなにも温かくて。
彼女が目を覚まさないなんて信じられないのだから、別れの言葉など言えるはずもない。
それでも反応を何も返してくれない彼女に、一体何を話せばいいのだろう。
「――そう言えば、今日学校でね……」
結が途方に暮れていたら、命は訥々とそんなことを話し始めた。
いつも通りの、なんてことのない日常の話。
ああそうか、そうすれば良かったのかと、結もそれに相槌を打って喋り始める。
そうやって話し始めたら、いくらでも話せた。瑞生の反応が無いだけで、いつも通りの会話だ。
気が付いたら親たちは気を遣ったのか部屋から出て行っていて、本当にいつも通りの空間が出来上がる。
瑞生の病室に遊びに来て、時間の許す限り他愛のないことをして過ごす。そんな、ありふれた日常の風景。
「……命?」
しかし、ぽつぽつと喋っていた命が急に黙り込んだ。
何事かと思って声を上げて彼を見れば――ぽろぽろと、涙を流している。
「ごめん……ごめんね、瑞生ちゃん。結局、僕たちは瑞生ちゃんに、何もしてあげられない……っ」
命も結局、無理をしていたのだ。いつも通りに、変わらずに振舞っていながら、しかしもう元には戻らないことを理解している。
それでも普段通りにしようとしたのは――
「泣くなよ、命。瑞生だってそう思ってるよ」
瑞生を悲しませたくない。ただそれだけだ。
彼女に今意識は無い。目を閉じ、口を閉じ、呼び掛けに答えることはない。
でも、彼女はここに居るのだ。だから二人は、瑞生のために話をし、手を握り、笑顔を浮かべる。
たとえ涙が頬を伝おうとも、その頬を懸命に引き上げる。
だが、もし、叶うのなら。
「目を、開けてくれ――」
零れ落ちた言葉は自分の堰をぶった切り、決壊した感情は涙と言葉を体外に放出しようと暴れ回った。
「目を開けてくれ。声を聞かせてくれ。目を見て、話を聞いて、もう一回笑ってくれよ。せめて、一回だけでいい……最後の別れも言えないまま、このまま死ぬなんて……そんなの、寂しすぎるだろ……」
返事は無い。
結がこれだけ話しかけているのに、命がぼろぼろと涙を流しているのに、こんなにも手を強く握りしめているのに。
瑞生は目を瞑ったまま、穏やかな顔で眠り続ける。
「瑞生……瑞生……」
「瑞生ちゃん……」
壊れた機械のように、弱々しくその名を、何度も口にする。
そうして名前を呼べば呼ぶほど、どうしようもない現実が二人の心に刃を突き立てる。
瑞生はもう、目を覚まさない。
結局、二人にできることは何もないと。
そう、思い知らされた。
だからそれは――二人の力ではなく、純粋な奇跡だったのだと思う。
「――命、くん。結くん……」
あり得ない声を聞いた。
意識が無いはずだ。目を開けることすらできないはずだ――それなのに。
余りにも聞き慣れ過ぎた、しかし初めて聞いた時からずっと変わらず心地よい、そよ風のような、柔らかくて優しい声。
恐る恐る目線を上げていくと――
「命くん……結くん」
ゆっくりと目を開き、二人の名前を呼ぶ瑞生の姿がそこにあった。
「み――」
「瑞生ちゃん!?」
「瑞生!? 聞こえるのか!?」
命も結も、我を忘れて大声を上げる。
病室の外がにわかに騒がしくなり、扉が開かれ三人の親たちが入ってくる。
「二人とも、どうかした――」
「おじさん、瑞生が!」
「瑞生ちゃんが目を!」
「な――瑞生!?」
怪訝な顔をしている瑞生の父親の問を遮り、二人は叫ぶ。
そして、彼も確かに見たのだろう。愛しい娘が、帰ってこないと思っていた娘が、目を開いているのを。
「す、すぐに先生を呼んできます!」
一番扉に近い位置に居た命の母親が、そう叫んで部屋を出て行った。
「命くん、結くん」
「うん、ここにいるよ、瑞生……!」
「瑞生ちゃん!」
騒がしい室内にあって、しかも呼吸器のせいでくぐもっているにも関わらず、瑞生の声は二人にはっきりと聞き取れた。
手を握り、その呼び声に懸命に答える。
「ごめん、ね。私、もう助からないみたい……話は、ずっと聞こえてたの」
「そんなことない、こうして意識が戻ったんだ。助かるよ」
弱々しい声で、弱気なことを言う瑞生を、励ますように結は話しかける。
「ううん、自分の、ことだもん……分かるよ。たぶん、今、こうして話せるのは……神様がくれた、最後のプレゼント」
だが、瑞生はそれを否定する。
その声が、言葉が、二人の手を握り返すその手の、どうしようもない弱さが。
それが事実なのだと、何故か二人をそう納得させてしまった。いや、もしかしたら、二人にももう分かっていたのかもしれない。
「命くん、ごめんね……帽子、被らなくて。いっしょに外に行くって、約束、してたのに」
だから二人は、その言葉を聞き取ることに全力を傾ける。瑞生の、最後の言葉。それを、一言一句聞き漏らさないように。
「いい、いいよ、そんなこと」
命は首をぶんぶんと横に振り、彼女の手を強く握りしめる。
「ううん、他にも、いっぱい。……いっぱい、約束してたのに。全部、守れないや」
外に出かけること。帽子を被ること。サンダルを履くこと。
他にも、いろいろと約束していた。命は、彼女が治ると信じて、そして彼女を励ますために、そういう約束をいくつもしてきたのだ。
「でも、最後にもう一つだけ、約束、して……?」
だから――瑞生から約束を求めるのは、これが初めてだった。
声も出せずに何度も首を縦に振る、そんな命を見て彼女は微笑む。
そして、「命くん、」と、名前を呼んで。
「――その名前の通り、何よりも命を大切にする人でいてね」
そう、願いを口にした。
その言葉には、どれだけの意味が込められていたのだろう。
命。自分の命。他人の命。自分の大切な誰かの命。自分の知らない誰かの命。
その真意は、瑞生本人にしか分からない。
ただ、彼女の人生の全てを懸けた願いが込められていたことは、命にも、結にも、痛いほど伝わった。
「わかった、約束する……約束するよ。だからっ……」
震える声で、溢れる涙を拭いもせず、ただ瑞生の手を握りしめて命は答える。
しかし、「だから」の先は言えなかった。生きてほしいなんて、そんな無責任で、言ってもどうしようもないことは。
「よかった……私……好きだったの。命くんの……名前」
瑞生は、命の答を聞くと、そう言った。
「名前」と言うまでの間は、きっと苦しいからじゃない。
結だけが分かるその間の意味は、どこまでも優しく、そしてどこまでも哀しかった。
「えへへ……ありがとう。二人とも、ずっと、手、握っててくれたよね」
そして瑞生は、あらん限りの力を振り絞って、そう言いながら手に力を込める。
彼女の言葉はどんどんと弱くなっていくが、手だけは懸命に、僅かに強く握られた。
「あのときと、いっしょだね……」
彼女の右手は命の手の中に、左手は結の手の中にある。
それはあの夜、いつかのクリスマスの日と同じ手で。
か細い声で語る彼女は、あの日と同じ笑顔を浮かべ――
「二人とも、ありがとう。私……すっごく……」
楽しかったよ。
最後のその言葉は、音にならなかった。
だが、じっと顔を見つめていた二人には、確かに彼女がそう言ったのが分かった。
そして――抜け落ちた言葉を追いかけるように、目を閉じ、手から力を失くし――
橘瑞生は、二度と覚めない眠りへと落ちていった。




