第三章14 橘瑞生④
更に月日は流れ、小学校五年生の春。
あの日から、命と結は本当に毎日病院を訪れていた。
「いらっしゃい、命くん、結くん」
その出迎えの挨拶を聞くのも、もう何度目になるだろうか。
「それで? 二人とも、後ろに何を隠してるのかな?」
ベッドから少し離れて立ち止まっている命と結に、瑞生は覗き込むような姿勢でそう訊ねる。
「うん、実はね……」
命はそう言うと、結と目を合わせてニヤッと笑う。
「瑞生、誕生日おめでとう」
「おめでとう!」
結も命も、祝いの言葉を告げながら背中に隠したプレゼントを差し出す。
「ふふっ、毎年ありがとう」
実はこのイベントももう四回目、瑞生としても大した驚きはないだろう。しかし、それでも彼女は毎回嬉しそうに笑ってくれるので、結たちとしても張り合いがあるというものだ。
「今年は何をくれたのかな? んー……じゃあ、結くんから!」
少し悩んだ後、瑞生はまず結のプレゼントから開封を始めた。
と言っても、今回の結のプレゼントは掌に収まる程小さい。程無くして、瑞生は小さな箱から中身を取り出した。
「わぁ、きれい……それに可愛い。ありがと、結くん! 着けてみていい?」
「――うん」
瑞生の手の中に転がったのは、白い花のモチーフがあしらわれた髪留め。簡単に言えばヘアピンだ。誕生日のプレゼントにしてはささやか過ぎる気もするが、頑張って手に入れた品ではある。
何しろ、そのためにわざわざ入ったことのない小物屋を物色したほどだ。小学校高学年の男子が一人で入るには中々勇気が必要だったし、結のお小遣いを考えればそれなりに値の張るものも選んでいる。
「にしても、さすが結くん。最近絵を描くとき髪が邪魔で、ちょうど欲しかったんだ」
「そっか、それはよかった」
ヘアピンを付けようと髪を整えたりしながら、瑞生がそう声を掛ける。
何でもない顔をして答える結だが、それは結がこのプレゼントを選んだ理由そのものだった。
人形遊びをする歳でもなくなり、しかしできることが限られている瑞生は、最近ではよく絵を描くようになった。元々絵を描くのは好きだったが更に拍車がかかり、とても小学生とは思えないような見事な絵を描くこともある。
命と結もそれに付き合って、三人で絵を描くこともよくあった。ちなみに結はぶっちぎりで下手くそである。
だが、それでも結はその時間が好きだった。何故なら真剣に絵を描く瑞生の横顔は、昔と変わらず――いや、以前にも増して楽しそうで、そして綺麗だったから。
「どう? 似合ってる?」
「――!」
耳の上辺りにちょこんと着けられたそれは、瑞生にとてもよく似合っていた。
よく見えるように小首を傾げる彼女に見惚れ、結は咄嗟に言葉を返すことができなかったほどだ。
「うん、とっても似合ってるよ」
「ありがと。でも、結くんに訊いたんだけどなー」
命が何のてらいも無くそう褒めると瑞生も嬉しそうに返しつつ、結の方をチラッと横目で見てくる。
「……うん。よく、似合ってる」
――我ながら、いいものを選んだと思う。本当によく似合っている、というのもそうだが。
瑞生は最近髪を伸ばしていて、絵を描くのに邪魔だからという理由で切ってしまったら勿体ないと思うくらい、その長い髪も彼女に似合っていた。
「えへへ……ありがと!」
結の答に満足した瑞生は、そう言っていつもの笑顔を見せる。それだけで、プレゼントを渡して良かったと思える。むしろお釣りが多すぎるくらいだ。
「さて、じゃあ次は命くんのだね。これの後だから、ハードル高いよ?」
そうして結のプレゼントについては一段落。
瑞生はヘアピンを触り楽しそうにそう言いながら、今度は命のプレゼントを開けに掛かる。
結のものと違い、箱は少し大きめだ。たぶん、結の頭ならすっぽり入るくらい。
「これ――」
「いやあ、気に入ってもらえるといいんだけど」
瑞生が箱から取り出したのは、帽子だった。
よく映画で見るような、女優さんだとか、お嬢様だとか、そういうお淑やかな女性が身に着けていそうな。つばが広い、真っ白な帽子だ。
実際、それは瑞生によく似合うだろうと容易に想像がついた。
だが――
「なんで、帽子なの……?」
思わず、瑞生は問いかける。
瑞生はもう、外出ができないのだ――病気が治らない限り。
そして、病気が治るには心臓移植を受けるしかなく、それには時間が掛かる。命も去年そう聞いたはずだ。
「言ったでしょ、瑞生ちゃんは絶対に大丈夫。また外で遊ぼうって」
「ね?」と声を掛ける命は余りにも真っ直ぐで、結はただただ驚く。
結はどこかで、彼女が助からないかもしれないと考えていたのだ。しかし、命は微塵もそう思っていない。それが、プレゼントという形で二人の差となって表れていた。
病気は絶対に治ると、その後の彼女のことを考える命と。
病気が治らなかったとしても、今を楽しく生きてほしいと考える結と。
――一体、どちらが正しかったんだろうか。
「……うん。ありがとうね、命くん」
やがて、瑞生はそう言って帽子を丁寧に箱にしまった。
「あ……」
結の髪留めと同じく、すぐに被ってみてもらえると思っていたのだろう。思わず声が漏れる命に、瑞生は穏やかに笑いかける。
「これは、外に出たときの楽しみに取っておくよ」
「あ……うん。僕も楽しみにしてるね」
その笑顔のまま、瑞生は命に優しくそう話した。命もそれを聞いて、穏やかな微笑みを返す。
しかし結には、瑞生の笑顔が、なんだかいつもと違って見えたのだった。
***************
その日もいつもと同じように、下らないことを喋ったり、絵を描いたりしながら過ごした。
「そろそろ帰らないとだね」
瑞生が時計を見て、そう二人に告げた。
「うん。命、そろそろ帰ろうか」
瑞生がそう言うのがいつもより若干早い気がしたが、結はすぐにそう言って片付けを始めた。
なんとなく、そうした方がいいような気がしたのだ。
「あ、うん。ちょっと待って」
結に言われて、命も慌てて帰り支度を始める。
それから数分で準備が完了し、二人は病室のドアへと向かった。
「じゃあね、瑞生ちゃん」
「また明日」
ドアに手を掛けながら、振り返って二人は挨拶を投げる。
「うん、また明日」
瑞生もそう返事をして、笑顔で二人を見送る。
手を振ってドアを出た二人は、病院の廊下を黙って帰り始めた。
「……命」
しかし、結にはどうしても引っ掛かることがあった。だから、しばらく歩いたところで不意にそう声を上げる。
「どうしたの?」
問い返す命に一瞬逡巡した後、
「あー……ごめん、忘れ物した。先帰ってて」
そう、嘘を吐いた。
「あれ、珍しいね。なら一緒に戻りましょうか」
「いや、どうせこの後寄り道するつもりだったから。先行って」
「そっか、わかった……」
こういうとき当たり前のようについて来るのが命なので、結は更にそう言って命を帰らせる。
やり取りが一度で済んだことにほっとしつつ、結は早足に病室に戻る。
そして瑞生の病室の前に来たところで、少し躊躇った後扉をノックした。
「――瑞生? 結だけど……」
しかし、いつもならすぐに来るはずの返事が来ない。
「瑞生? 入るよ?」
もしかしたら部屋を出ているのかもしれない。トイレくらいは一人で行ける。それに、疲れて眠っているという可能性だってあるだろう。
しかし、どうしようもなく不安に駆られて、結は返事を待たずに宣言だけして扉を開く。
「――瑞生?」
瑞生は、部屋の中に居た。
ベッドの上に腰掛けて――顔を手で覆い震えている。
「瑞生!」
思わず大声を出し、結は瑞生に駆け寄る。
よもや、また急変したのではないか。その不安が結の中を駆け巡り、どうしようもなく心臓を打ち鳴らす。
「結、くん?」
しかし、瑞生は手を少し動かすと返事をした。
とりあえず意識はある――と安堵したのも束の間。
その顔はくしゃくしゃに歪んでいて、涙に濡れそぼっていた。
「瑞生、大丈夫!? すぐに先生を――」
「ちが、違うの。体は、大丈夫だから……」
覗きこんで問いかけつつ本当に駆け出そうとする結を、瑞生は慌てて袖を引いて止めた。
「じゃあ……」
体調は問題ない。なら――結の感覚は当たっていた、ということだ。
命のプレゼントをもらってから、なんだか瑞生の表情が陰っているように見えてならなかったのだ。
「――結くんは、さ」
泣き崩れた顔を見られたくないのだろう、瑞生はまた顔を覆い隠すとそのままくぐもった声を上げる。
「治ると思う? ……私の病気」
「――っ」
その問いかけは余りにも重たく、返す言葉は押し潰され、欠片も浮かんでこない。
だが、黙り込む結を、瑞生は顔を伏せたまま待っている。それなら、答えない訳にはいかない。
必死で自分の腹の底を駆け回り、なんとか伝えられる文章を形作っていく。
「……わからない」
そして絞り出した一言目は、偽らない正直な言葉だった。
『絶対に大丈夫』なんて無責任なことは結には到底言えそうになかったし、命のようにそれを真実だと信じ込むことは尚のこと不可能だった。
「でも、治ればいいなと思ってるし、心の底から願ってる。それは、俺も命も同じだよ」
続けて紡がれた結の言葉を、瑞生はただ黙って聞いていた。二人の間に、何とも言えない沈黙が落ちる。
「結くん……ここ、座って」
不意に瑞生が声を上げ、ポンポンとベッドの端の方を叩いて示す。言われるがまま結がベッドに腰掛けると、横に置いた左手が弱々しく握られた。
「ごめん、ここ、ちょっと貸して」
「……うん」
「こっち向いちゃダメだよ」
「……うん」
そのまま言葉を交わすと、瑞生が一度大きく深呼吸をするのが聞こえた。
「――怖いの」
やがて聞こえてきた言葉は、それでも尚震えていて。
「痛いのが怖い。苦しいのが怖い。死んじゃうのが怖い。本当は、全部、全部怖いの」
「……うん」
震える声のまま、感情が溢れるままに瑞生は喋り出す。
結は黙ってじっとしたまま、手を握られたまま、ただ相槌を打つだけ。
「治らないんじゃないかって。このまま、死んじゃうんじゃないかって。一人になると、ずっとそんな事ばかり考えちゃう。治った後のこと、まだ上手く想像できないの」
「……うん」
握られた手は、熱を帯びている。その熱が、瑞生の感情の高ぶりを結に伝える。
「でも、命くんはずっと信じてくれてるから。命くんの前で、そんな弱音は吐けない」
「……うん」
言葉の合間に、すすり泣く声が聞こえる。そう言えば、結はこれまで瑞生の泣き声を聞いたことが無かった。
「こんな私を見られたくない。命くんの前では、ずっと明るい瑞生でいたい」
「……うん」
結は真っ直ぐ前を見る。そこには何もなく、ただ差し込む夕日に真っ赤に染められた壁があるだけだ。
「だから、命くんと居るのが、最近辛いの。ずっと、無理をしてる気がして。嘘を吐いてる気がして」
「……うん」
窓から流れてくる風が、瑞生の匂いを結の元まで運んでくる。それはいつもと変わらないはずなのに、どこか悲しい匂いに感じられる。
「命くんは、こんなに私のことを信じてくれてるのに。私は――こんなに、命くんのことが、好きなのに」
「――……うん」
そのやり取りで、瑞生はまた黙り込んでしまった。感情を吐き出し、弱音をぶちまけ、そして力なく結の手を握っている。
部屋を埋め尽くすのは、悲嘆な雰囲気と、瑞生のすすり泣く声だけ。
結には、やっぱり掛けるべき言葉が見つからなかった。どんな励ましの言葉も、おそらく瑞生を救えない。
だから結は、左手を握る瑞生の手に、そっと右手を重ねて。
「瑞生の気が済むまで、ここに居るよ」
ただ、その意志だけを伝えた。
今の結にできるのは、それだけだったから。
瑞生の手が一瞬、怯むように弱まった後、しかし強く結の手を握る。
「……ありがとう」
瑞生は一言だけ、小さな声でそう言った。
結はそのまま、瑞生の微かな音と動きに、ひたすら黙って寄り添った。
**************
そんなことがあったが、それからの日々は以前と全然変わらなかった。
命も結も毎日病院を訪ねたし、瑞生は変わらず明るく振舞い続けた。
そんな日々がもしかしてずっと続くのではないか、なんて結は時々思った。あるいは、それは願望に過ぎなかったのかもしれないけれど。
しかし、終わりは唐突にやってきた。
――なんと、いい方向に。
それは奇しくも、小学校六年生の春――瑞生の十二歳の誕生日の前日だった。
「いらっしゃい、命くん、結くん!」
いつも通りの出迎えの言葉に、結はびっくりした。
瑞生の言葉はいつも通り。しかし、今までにないほど明るい声音だったからだ。
「何か、いいことがあった?」
「うん! 実はね……決まったの。心臓移植!」
瑞生に心臓を提供してくれる、ドナーが見つかったという。
「ほ、本当に!?」
結は思わず大きな声を上げる。移植希望を出してから、およそ二年。あれから少し勉強した結は、それがかなり早い方だと分かった。
「うん。お昼頃に、先生から言われたの。明日のお昼頃には心臓が届いて、すぐに手術になるって」
瑞生は、久しぶりに心の底から嬉しそうな声を上げ、二人にそう説明してくれた。
「よかった、瑞生ちゃん!」
「よかった……本当に」
瑞生に駆け寄り思わず手を取りながら、命が喜びを言葉にする。
結はと言えば、情けないことに腰が抜けたようになり、近くにある椅子に座りこんでしまった。
「一日早いけど、神様からすごい誕生日プレゼント貰っちゃったね――なんて、ちょっと不謹慎かな……ドナーの人は亡くなったんだもんね……」
瑞生は嬉しそうに声を上げ、しかしふとそこに気付いて自制するように声を落とす。
「その気持ちだけ持ってればいいと思うよ。本当に、よかった」
「うん。ドナーの人だって、喜んでくれた方が嬉しいと思う」
そんな瑞生をフォローするように、結も命も言葉を紡ぐ。
「そっか、そうだよね……。ありがとう。手術前に、二人にちゃんと報告できてよかった」
瑞生は一つ頷くと、そう言って満面の笑みを見せた。それは今まで見たどんな笑顔よりもいい笑顔で、命も結もつられて笑顔になる。
「ま、毎日来てるから当たり前だけどね。明日は学校休んで病院に来るよ」
「そうだねぇ。一日くらい平気だし、そうしましょう!」
ここまでずっと寄り添って来たのだ。この手術には、絶対に立ち会いたかった。
待合室で待っていたって、手術の結果は変わらないだろう。だが、それでもそうしたいと、二人は心の底から思った。
「ありがとう。やっぱりちょっと怖いし、二人が居てくれたらすごく嬉しい」
瑞生もそれを望んでくれていて、二人の決意は完全に固まった。流石に学校の先生も、事情を話せば怒りはしないだろう。
「それで、今日はこれからいろいろ準備とかあって。実は、二人に報告するために待ってもらったんだ」
そして、瑞生は申し訳なさそうにそう言った。
心臓移植という大手術の前なのだ、当然いろいろと大変なのだろう。
「わかった。じゃあ今日は帰るよ」
「うん、ごめんね」
結がそう言って席を立つと、瑞生はそう返事を寄越す。
「じゃあ、また明日ね」
「うん。また明日」
命も席を立ち、お互いに手を振って病室を後にした。
「命、この後暇だよね」
そして、少し歩いたところで結が声を上げる。
「うん。たぶん、同じこと考えてるよ」
命もそれに答えながら、嬉しそうに微笑む。
「うん。誕生日プレゼント、買いに行こう。……外に出た時に使える何か。二人でお金出せば、ちょっといい物も買えるし」
実はもう他の物を買っていたのだが、それよりも相応しい物をあげたくなったのだ。小遣いをはたく価値は十二分にある。
「うん、行きましょう!」
命も明るくそう答え、二人は病院を後にした。
――神様って本当に居たんだ。
結は、そんなことを考えていた。こんな絶妙なタイミングで、こんなにも早く心臓移植が決まるなんて。そう考えても仕方がない。
いや、実際、神は居たのかもしれない。
――希望をチラつかせてそれを無残に叩き潰す、最悪の神が。




