第三章13 橘瑞生③
それから更に一年後、小学校三年生の冬。
「あ、いらっしゃい。命くん、結くん」
いつも通り二人を出迎える瑞生は、病院のベッドに腰掛けていた。
あの後瑞生の体調は更に悪化し、そのまま再び入院することになった。以降退院することなく、一年経った今も瑞生は入院生活を送っている。
さて、いつも通りとは言いつつ、今日は命と結の方がなんだかそわそわしていた。
理由は単純、今日という日が二月十四日だからだ。
そう、バレンタインである。いつも通り遊びに来た様子を取り繕いながらも、小学生男子としてドキドキが隠せないところ。
「二人とも、はいこれ」
そんな思いを知ってか知らずか、瑞生は枕元からあっさりと紙袋を2つ取り出した。
「これは?」
分かっていてもそう聞くのがなんというか男の子の意地で、例に漏れず結がそう訊ねる。
「チョコだよ。今日バレンタインデーでしょ」
瑞生は何でもなさそうに言いながら、二人に紙袋を手渡す。
「ああ、そう言えば」
「ありがとう、瑞生ちゃん」
素直じゃない結と素直な命の反応を見て、瑞生はクスリと笑みを漏らす。
「ごめんね、分かってると思うけど手作りじゃないし、私が買ってきたわけでもないの。でも、ちゃんと気持ちはこもってるから」
「分かってるよ、ありがとう」
その微笑みをちょっと陰らせながらそう言う瑞生に、結は安心させるように答える。
瑞生の事情を考えれば当たり前のことだし、毎年そうなのだから今さら言われるまでも無いのだが。
それでも毎年謝る彼女はやっぱり優しくて、彼女が二人を大事に思ってくれているのはちゃんと分かっている。それにもちろん、結も命も彼女のことを大事に思っている。
「あ、後ね……命くんには、これも」
「え?」
ところが、今年はいつもと様子が違った。
心なしか顔を赤らめて差し出された三つ目の紙袋を、命は目を丸くして受け取った。
「ありがとう……開けてみていい?」
そう訊ねる命に、瑞生は黙ってこくりと頷く。
中をガサゴソと探った命が取り出したのは、毛糸で出来た手袋だった。
「命くん、いつも手、冷たそうだから……」
「わあ……もしかしてこれ、瑞生ちゃんが?」
小さな声で呟く瑞生に命が嬉しそうに問いかけると、彼女は今度こそ確実に顔を赤くしてこくりと再び頷いた。
つまり、手編みの手袋のプレゼント。早速着けてみている命を、結は羨ましげな視線で見ていた。
――手袋、してなきゃよかった。
そんな事を思ってみて、果たして結が手袋をしていなかったら、瑞生は結にも手袋を作ってくれたのだろうかとも思う。
この頃になると結にも恋愛感情はなんとなく分かるようになってきていて、瑞生が命にそれを抱いているであろうことは、なんとなく察していた。
もっとも、当の命がまだその辺よく分かっていなさそうなのが、結の気持ちをモヤモヤさせていたりもするのだが。
「暖かい。ありがとう瑞生ちゃん、大事に使うね」
そのくせ、そんな風に言って優しく笑うのだからズルい。
赤い顔のまま嬉しそうな笑顔を見せる瑞生を見て、敵わないなあ、なんて結は思った。
*************
更に月日は流れ、小学校四年生の夏休みのことである。
「二人とも、明日は水着持ってきて。学校で使ってるようなのじゃなくて、ちゃんと遊びに行く用のやつね」
こういうのは雰囲気が大事なんだから、と言う瑞生に従って、その日は水着持参で病院を訪れたのだった。
瑞生は相変わらず病院生活だし、急に外に出られるわけでもないのに、一体どういうつもりなのだろうか。
「二人ともちゃんと持ってきた? ……うん、よろしい! じゃ、行こっか」
嬉しそうな顔で確認を取ると、瑞生は二人を引き連れてずんずん歩いていく。
「なっちゃん!」
「あら、瑞生ちゃん。プール入るのね?」
瑞生が声をかけたのは、彼女の面倒を見ている看護婦さんだった。
場所は病院の中庭、そこにはたくさんの子供たちが居て、
「……ビニールプール?」
「そう!」
結が声を上げると、瑞生は嬉しそうに頷いた。
中庭にはビニールプールがいくつかあって、その中で子供たちが水遊びをしていた。
「今年は暑いから、先生たちが用意してくれたんだって。三人で入ろうよ」
「あ、ちょうど大きいのがそろそろ空くと思うよ。とりあえず着替えてきたら?」
なるほど、病院ではこんなこともやるのかと瑞生の説明を聞きつつ、看護婦のなっちゃんこと夏子さんがピッと指を差した先を見る。
近くの空き部屋を、男子用と女子用の着替え部屋として二つ確保しているようだ。
「はーい。じゃあ、後でね」
瑞生がそう告げて女子用の部屋に入っていったので、命と結も男子用の部屋に入って着替えにかかる。
「いやあ、久しぶりだなあ、ビニールプール」
「そうなんだ。俺はむしろ記憶にある限り初めてなんだけど」
「え、そうなの!? 僕はよく家で入ってたけど」
「あー、命んちはそういうの好きそうだね」
そんな会話をしつつ着替えが完了して中庭に戻ると、瑞生はまだ来ていなかった。まあ、男子よりも時間が掛かるのは当たり前だ。
「おお、来たかい少年たち。どうする? 先に入ってる?」
と、夏子が命たちを見つけてそう声を掛けてきた。
「いや、瑞生を待ちますよ。な、命」
「うん、そうですね」
何しろ今日は瑞生に誘われてきたのだし。
「そっかそっか。あ、言っとくけど飛び込みは禁止よ?」
「こんなのに飛び込んだら怪我しますよ……」
言わずもがなのことを言う夏子に苦笑いで結は答える。病院の厚意で用意されたプールで怪我とか、いろいろとたまったもんじゃないだろう。
「お待たせ」
そんなやり取りをしていたところで、後ろから聞き慣れた声がかかった。
振り返ると、水着に着替えた瑞生がそこに立っていて。
「……どう、かな」
恥ずかしそうに、でもちょっと手を広げてそう訊く瑞生に、二人とも視線を送る。
予想に反してビキニタイプの水着は派手過ぎない程度にフリルが付いていて、白い生地に薄い青の水玉が可愛らしい。
病院暮らしのため色白すぎる肌が水着とアンバランスで、結は妙にドキッとしてしまう。
小学四年生にもなると彼女の身体もだいぶ女の子らしくなってきていて、結は気恥ずかしさからすぐに視線を逸らしてしまった。
「可愛い水着だね! 似合ってる!」
そんな結を他所に真正面から褒めちぎる命に、瑞生は嬉しそうにはにかんだ。
「えへへ、ありがと。結くんはどう思う?」
それでちょっと自信を得たのか、瑞生は結の方を覗き込んで改めて訊ねる。
「……うん、似合ってるよ」
微妙に視線を彷徨わせながら結がそう答えると、瑞生は満足そうに笑って頷いた。
「よーし、じゃあ入ろう入ろう!」
瑞生は命たちの横を通り抜けてプールに一番乗りすると、足先をちょっと水につける。そのままゆっくりと足を踏み入れると、プールに身体を沈めていった。
「ほら、二人ともおいでよ! 気持ちいいよ!」
言われて、命も結もプールに入っていく。
水温が思ったより高めで、感覚的には冷めたお風呂くらい。あまり冷たいと身体に負担が掛かるだろうから、病院側がこれくらいの水温に調節しているのかもしれない。
とは言え外気温よりは低いから、確かに気持ちがよかった。それに、三人で腰まで浸かっていられるのだから、ビニールプールとしては大きめだ。
快適なその空間を堪能していると、
「えい!」
と、急に顔に水が掛かった。瑞生が手で皿を作り、結に水を掛けたのだった。
そこからは、まあお約束の展開である。全員でバシャバシャと水を掛け合い、これぞ水遊び、という感じ。
「ふふーん。少年少女よ、こんな物もあるぞ!」
後ろから声が掛かって振り返れば、またぞろ顔面に水を受ける。
頭を振って改めてそっちを見ると、夏子さんが水鉄砲を構えていた。
「はい、後はどうぞご自由に」
三つ用意された水鉄砲を各々に手渡すと、夏子はそう言って離れて行った。
もちろんその後、三人はお互いに水を掛けあって大いにはしゃいだ。
「ふふ、なんか、夏って感じ。楽しいね」
一通りそれを楽しんた後で、三人でゆったり水に浸かって寛いでいると、瑞生がしみじみとそう言った。
「うん。大きいプールも楽しいけど、たまにはこういうのもいいね」
ゆったりと過ごすこの時間は、結にとっても心地よかった。それに何より、瑞生が楽しそうにしているのは嬉しい。
「そうだねえ。毎年やってくれたらいいのに」
「ま、来年はもしかしたら入れなくなってるかもね。命がどんどんデカくなるから」
同意を示す命に、結はそう言って皮肉を垂れる。もともと命の方が結よりも背が高ったが、この一年でかなりその差が広がっていた。男の子としては、やっぱり何となく悔しいところだ。
「確かに。命くん、背、伸びたよねぇ」
瑞生もそう言って、改めて命の身体をまじまじと眺める。
「いやあ、そうですね」
命はちょっと照れくさそうにそう言って笑う。
「俺も早く伸びないかな……」
「いつかは伸びるよ。ねぇ瑞生ちゃん」
ぼそっと呟いた俺をフォローするように、命が耳ざとくそう言葉を返し瑞生に話を振る。
正直そのフォローは結にとってけっこう辛いので止めてほしいのだが。
「……」
しかし、瑞生からは何も反応が返ってこない。
「いや、何か言ってよ瑞生……瑞生?」
最初は冗談かと思って瑞生に声を掛けた結だったが、すぐに異変に気が付いた。
「瑞生!」
「瑞生ちゃん!?」
見れば、瑞生は荒い息をして目を瞑り、顔は青白くなっていた。
「夏子さん! 瑞生が!」
姿を求めて視線と声を走らせたときには、もうすでに夏子はすぐそこまで駆け寄ってきていた。結たちの叫びを聞いて飛んできたのだろう。
「瑞生ちゃん? 大丈夫?」
語りかけながら瑞生の様子を見て、夏子はすぐさまPHSを取り出す。
「急変です。ええ、瑞生ちゃんが。お願いします」
短く通話を終えると、女性とは思えない迅速で力強い動きで瑞生を抱き上げ、バスタオルをひいた地面に横たえる。
「夏子さん、瑞生ちゃんは……」
「大丈夫よ。すぐに先生が来るから」
不安を口にする命に、夏子は短くそう答える。
そしてその発言通り、すぐに担架と瑞生の担当医が現れて瑞生を連れて行った。
「二人とも、とりあえず着替えてきた方がいい。オペ室の前に待合室があるから、そこで待っててあげて」
取り残され呆然としている命と結に、近くに居た別の看護師がそう話しかけてきた。
二人は言われるがまま着替えを済ませると、待合室に行ってただひたすらに待つしかなかった。
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「命くん、結くん」
しばらく待っていたら、不意に二人を呼ぶ声が聞こえた。
顔を上げるとそこには瑞生の母親が居て、病院から連絡をもらって駆け付けたという。
「ありがとう、二人が夏子さんに知らせてくれたんだってね」
「いえ……もっと早く気付いてれば……」
彼女は二人にそう感謝を告げるが、素直にそれを受け取る気にはなれなかった。
結としては、何もできなかったという悔しさしかない。小学生の分際で、何ができた訳でもないと言うのに。
「あ、橘さん」
「ああ、夏子さん。連絡ありがとうございました。それで、瑞生は?」
と、様子を見に来た夏子が瑞生の母親を見つけ、二人は話をしながら場所を移した。
残された命と結は、黙って『手術中』のランプを睨みつけている。
「結くん……瑞生ちゃん、大丈夫かなあ……」
「……大丈夫だよ」
不意に不安を口にする命に、結は根拠もなくそう言い張る。
それは、自分に言い聞かせているだけの言葉だった。
それからは、また無言の時間が続く。
やがて瑞生の母親と夏子が戻ってきて、尚もじりじりと時間が過ぎていく。
「――!」
そうしてどれくらいの時間待っていたのかさえ曖昧になった頃、ようやくオペ室のドアが開かれた。
「先生、瑞生は……」
「大丈夫です、一命は取り留めました」
問いかける瑞生の母の言葉に、医師はそう答えた。
それを聞いて、全員が安堵の息を漏らす。
その横を、瑞生を乗せたストレッチャーが通過していく。
「瑞生ちゃん……」
眠る瑞生の横顔を見送りながら、命が意味も無くそう呟く。
「――二人とも、見守ってくれてありがとう。瑞生、今日はもう眠ったままみたいだから、また今度来てくれる?」
医師と話を終えた瑞生の母がそう言うので外を見ると、もう日がほとんど落ちていた。
「……分かりました。また明日お見舞いに来ます」
結はそう言うと、後ろ髪を引かれている命を引っ張った。
正直に言えば、結だって帰りたくはない。瑞生が目を覚ましたときに隣に居たいし、目が覚めるまで見守っていたい。
だが、二人はやっぱり何ができる訳でもない子供なのだ。居残ったって迷惑でしかないだろう。
何もできない悔しさを噛み締めながら、二人は帰路に着いたのだった。
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しかし、翌日瑞生に会うことはできなかった。容体が安定するまで面会謝絶となってしまったのである。
もやもやした気持ちを抱えながら日々を過ごし、ようやく瑞生に会うことができたのは、彼女が倒れた日から二週間が過ぎた後だった。
「いらっしゃい、命くん、結くん」
瑞生は病室を移され、そこは個室になっていた。
いつもと違う場所で、しかしいつも通りに二人を出迎えて微笑む瑞生は、以前より随分やつれて見えた。
「久しぶり、瑞生ちゃん。身体は大丈夫なの?」
「うん、一応ね。でも……コレ、見て」
訊ねる命に答える瑞生は、そう言って掛けていた布団を外した。
「え……」
「何、それ……」
そこから現れたのは、瑞生のパジャマの裾からはみ出ている、赤色の物体だった。
いや、赤いのは中にある液体で、それ自体は透明の容器のようだ。見えている範囲で言えば、二本のパイプの先が丸くなって繋がっている、という形。
そしてその二本のパイプは、瑞生の服の中へとしまい込まれているが――その先端は、果たしてどこにあるのか。
初めて見る謎の物体に、命と結は声を上げ――どうしようもない不安を覚える。
「補助人工心臓、って言うんだって。可愛くないからあんまり見てほしくはないんだけど……見える? これ、中は全部私の血」
瑞生の説明は、二人の頭の中を滑って行った。受け止めきれない、というのはこういうことだろうか。
三人の間に、微妙な空気と沈黙が流れる。
「……あのね。私の身体のこと、二人にはちゃんと話しておこうと思って。聞いてくれる?」
やがて、瑞生は沈黙を破ってそう言った。
「もちろん」
結がそう答えると、瑞生はゆっくりと語り始めた。
彼女はもう、病院から外に出かけられないということ。
彼女に取り付けられたその装置が無いと、生きていけないということ。
そして――たとえそれを着けていても、そのままではいつかは死んでしまうということ。
結は彼女に初めて会った時に彼女の事情をある程度聞いていて、それなりに分かっているつもりだった。
しかし、当時の結はやっぱりまだ幼くて、なんにも理解できちゃいなかったのだった。
彼女が、如何に過酷な人生を歩まなければならないのかを。
そして――その彼女が普通に暮らすためには、心臓移植に頼るしかないそうだ。
「心臓移植……」
その言葉の意味も、もう分かる年齢である。
そして、それがとても難しいことだということも。
「一応、臓器移植ネットワークにはもう登録してあるの。でも、子供の心臓移植はまだまだ少なくて、ドナーが見つかるのはいつになるか分からないんだって」
ドナーが見つかるか。それはもう、運としか言えない。
もちろん、待っていればいつかは見つかる。順番が回ってくる。しかし、
「それまで、生きていられる保証はないって」
――そういうことだ。
彼女の病気がどんなものか、詳しいことは命も結も分からない。おそらく、瑞生ですら正確なところは把握していないだろう。
しかし、いつ今回のようにまた倒れても、全く不思議ではないのだ。それは、彼女に重くぶら下がっている厳めしい器具が物語っている。
「そんな……」
「だからね、これからは、一日一日を大切に生きていきたいな、って思ってるの」
言葉を見つけられない、しかし何か言わずにはいられない命の声を遮るように、瑞生はそんな言葉を発する。
「そんな言い方……っ」
その言葉は、まるで死を受け入れようとしているようで、結は思わず大きな声を出してしまう。
「だからお願い。これからも、前みたいに私と遊んで? ……プールにはもう、入れないけど」
余りにも悲しい内容を、余りにも穏やかな表情で語る彼女に、結はもう声を掛けることができなかった。
何を言っても、彼女の助けにはならない。そう思ってしまった。
「わかった、毎日遊びに来るよ。でも……」
しかし、命は違った。
彼は彼女の願いを受け入れた上で、
「瑞生ちゃんは、絶対に大丈夫。ドナーが見つかって、病気が治ったら、また三人で、外で遊べるよ」
何の根拠も無い、しかしそうと信じて疑わない強く真っ直ぐな声で、瑞生が生きることを望んだ。
「……敵わないなぁ、命くんには」
それまでただ穏やかだった彼女の表情は、少し困ったように崩れ――しかし、そう言って確かに笑ったのだった。




