第一章4 右手で触れられた参加者は、消える
黒板に書かれた三つのルール、その最後の一つがこれから実行される。
今しがた目の前で行われた悪趣味なデモンストレーションが、そのルールが不愉快な嘘であるとか、質の悪い冗談であるとか、そういった淡い期待を完膚なきまでに否定していた。
「そろそろ落ち着いたかしら? ではヤマダくん、最後の仕上げよ」
女神は優しく、そっとアツシの背中に手を触れた。
すると、それまで彼を縛っていた何かが解け、アツシは少しバランスを崩してよろめいた。
態勢を立て直した少年は不満げに女神を睨み付ける。
――まだ足りない。
その目はそう物語っていた。
「生憎とそこまで時間をかけている暇はないの。それに、あなたが復讐したい相手はまだごまんといるのだから、テンポよく行くべきじゃないかしら」
アツシの意を察して、女神は彼を宥めすかす。
その意見に一理あると認めたのか、彼は一つ長く息を吐くと、教室全体を見渡した。
「まあその通りだ。言っとくが、復讐対象は手を出してきた奴だけじゃないからな。俺を見て笑っていた奴はもちろん、見て見ぬフリをした奴も同罪だ。被害者は俺一人で、お前らは全員加害者だ。一人残らずぶっ潰してやるからそう思え」
その宣戦布告に、周囲の反応は様々だ。
ぎくりと身を竦める者、申し訳なさそうに俯く者、自分は関係ないとそっぽを向く者。
中には、逆上して罵声を放つ者が数名混じっていた。
ミコトが見る限り素行が悪そうな連中が揃っており、おそらくはアツシをいじめていた張本人たち。
飛び交う罵詈雑言の中、アツシは近くにあった教卓に左手を触れると、盛大に音を鳴らしてそれを潰して見せた。
破砕音と紙屑のようにぺしゃんこになった金属の残骸が、その破壊力を雄弁に物語る。
もとより自分より弱い相手にしか手を出さない卑怯者たちだ。それだけで、彼らは逆襲の恐怖に口を閉ざした。
再び訪れた沈黙の中、アツシは酷薄に微笑を浮かべると、教師の方に向き直った。
ゆっくりとターゲットに歩み寄り、右手を高らかに構えて。
その最悪の凶器と化した右手を振り下ろそうとしたとき――
「だめだよ」
彼の挙動を止めたのは、沈黙の中ぽつりとこぼされた、小さな一言だった。
全員がその音の出処を探し求め振り返り――
視線の集まった先で、アカリがアツシを真っ直ぐに見据えていた。
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「ハナちゃん……」
ミコトは声の主の呼び名を呟き、彼女を驚きと共に見つめる。
そんな視線にアカリは気付かず、アツシをしっかりと見据えている。
「なんだ、ていうか誰だよお前」
自分の怒りの行動を邪魔され、アツシはそのまま邪魔者に怒りの矛先をぶつける。
ミコトは恐怖と感嘆を抱きながらその様子を見守った。
――彼女は、なんて勇敢なのだろう。
この状況でアツシに声をかけ、彼の怒りを真正面から受けて立ち、それでも目を逸らすことはしないのだ。
「はじめましてヤマダアツシくん。ハナサキアカリといいます」
答えを求めているわけではないであろう後者の質問の方に、アカリはぺこりとお辞儀を一つ落とし律儀に答えた。
「知らねえよ。で、何がだめなんだ」
そんな彼女の馬鹿正直な返答に先ほどまでの気勢を削がれたのか、アツシは話を聞く構えを見せる。
しかし、彼の声から怒りの色が消えたわけではなく、いつその勢いを取り戻すかはわからない。
「うん。だってその右手で触ったら、先生は消えちゃうんでしょう?」
「だったら何だって言うんだ。こいつが消えたってお前には関係ないだろ」
アカリの改めての状況確認に、早くもアツシの怒りが引き返し始めた。程無く帰還を果たし、彼の口を通って暴れまわることが予想された。
その気配だけで、その後の惨劇の可能性にミコトは身を震わせる。
「関係あるよ、私たちの先生だもん。それに、それだけじゃなくて――」
アツシの言に真っ向から当然の答えを返し、アカリは言葉を続ける。その声に、迷いは感じられない。
だがミコトは気が付いた。
言葉を紡ぐ彼女の手は、自分のスカートの裾を固く握りしめ――微かに震えていた。
――ああ、彼女は今、戦っているんだ。
怖いはずだ。恐ろしいはずだ。目の前で知っている人間がめちゃくちゃにされたすぐ後だ。
そして、その犯人と面と向かって会話をしているのだ。
彼女は普通の女子高生で、元気で明るくて、優しくて。
今朝までミコトと普通に会話をして、普通に日常を送っていたはずだ。
特別な力を持つわけでもなければ、不可思議な強さを持つわけでもない。
それでも彼女は、小さな勇気と、自分の言葉だけで、この状況を変えようと戦っているのだ。
その強さがとても尊くて、眩しくて、ミコトは思わず目を逸らしそうになった。
だが、自分のわずかな気概をかき集めてそれを堪えた。
ここで目を逸らしたら、これから彼女と面と向かえる自信がない。
顔を引き上げ耳を澄まし気を張り詰め、彼女の次の言葉を待つ。
「――それって、ヤマダくんが人殺しになっちゃうってことだよ?」
何の捻りもなく選ばれた『人殺し』というあけすけな言葉が、アツシに小さくない動揺を生んだようだった。
それとも、動揺を誘ったのは言葉ではなく、彼女の真っ直ぐな視線と感情だろうか。
彼は自分の右手をじっと見つめ、やがて怯えるように次第に息を荒くする。
その胸中はミコトには測り知れなかったが、少なくとも、先ほどまでの怒りの一色だけではなくなっているはずだ。
「俺は……」
肩で息をしながら、絞り出すように呟くその姿には、確実な迷いが見えた。
もしかしたら、彼を思い留まらせることができるかもしれない。
その希望が見え始めたところで、別の女性の声が響いた。
「もう、せっかくいいところだったのに」
女神が放ったその声は、ようやく見えた小さな希望を断ち切ろうとしていた。
声を発した次の瞬間には、あらゆる物理法則を無視してアカリの前に立ちはだかっている。
「邪魔しないで頂戴。少し黙っていてもらうわね」
終止愉しそうな様子を崩さなかった女神の声音に、初めて苛立ちの感情が浮かんだようだった。
言葉と同時に掌をアカリに向け、触れた瞬間にアカリが固定される。
先ほどのアツシ同様、体は動かず声も出せないようだった。
「お、おい……どうしたんだ……?」
しばらく黙っていたタナカが、自分を擁護してくれるであろう人物の声が聞こえなくなったことで狼狽の声を上げる。
彼からしてみれば、なるほどアカリの声は絶望的な状況に舞い降りた、それこそ女神のように思えたに違いない。
どれほどみっともなかろうと、それに縋り付きたくなる気持ちを誰が笑うことができよう。
しかし実物の女神は哀れなその声に、先ほどの怒りの一端をそのまま向ける。
彼女が煩わしそうに手を振ると、彼の口を再び猿轡が蹂躙した。
「あらいけない。何の反応も無くてはつまらないわね」
思い直したのか、声と気持ちを元の愉しげな様子に戻してから、女神は再び手を振る。
それに従って、今度はタナカの目隠しが消失した。
静まり返った教室。クラスの全員が集まっているというのに、不規則な二つの荒い息遣いのみがやけにうるさく聞こえてくる。
他の誰もが声の出し方を忘れてしまったばかりでなく、身動き一つ、呼吸の仕方すら記憶の彼方に置き忘れてきたかのような静寂。
場にいる全員の視線が、教室の最前部に向けられていた。
その中心にいるのは、息を切らし震える少年と、椅子に縛り付けられた上に猿轡を噛まされ、涙と鼻水を垂れ流して喘ぐ教師。そして――
「ほらほら、どうしたの?」
この状況を作り出した女神である。彼女は、徹底して愉しそうに言葉を紡ぐ。
――なんで、そんなに愉しそうなんだ。
「その人が憎いんでしょう? 顔も見たくないんでしょう? 自分の目の前から消え去ってくれれば、どんなにせいせいするでしょうね?」
彼女は艶やかな、しかし人間ではあり得ない残虐さを秘めた笑顔で少年を誘惑する。
それは神の導きか、はたまた悪魔の囁きか。
ぞくりと走る背中の悪寒に、少年の顔を汗が伝う。
――ハナちゃんは今、どうなっているのだろうか。無事だろうか。
「触れるだけで、それが叶うとしたら? あなたのその右手で。友達に挨拶をするかのように。愛しい人を慈しむように」
――ポン、と。
耳元で囁かれたその擬音は、少年の鼓膜を通じ、脳を駆け抜け、心に潜り込み、わざとらしいほど軽やかに響く。
――彼女は戦っていた。なら、自分も戦わなければいけないはずだ。
「触れる、ただそれだけ。あなたは何も悪くない。ただ彼が目の前から消えてしまうだけ。彼は死ぬわけでもなければ傷つくことも苦しむこともない」
その言葉に背を押されるように、手を引かれるように、少年はゆらりと一歩踏み出す。
そのゆっくりとした歩みに、教師は目を見開いて身を震わせた。
――だって、僕には戦うべき理由がある。
「―――そう。右手を上げて。あとはそれを振り下ろすだけ」
母親に言いつけられた従順な子供のように、少年は行動する。
その緩慢な動きがより一層教師の恐怖心を刺激し、彼は拘束を逃れようと暴れだす。
しかし、その身体が解放されることはなかった。
二人は、もう手を伸ばせば届く距離だ。右手を高々と掲げるその姿は、教師の目には鎌を構えた死神の如く映る。
――約束、したんだ。
「さあ。触れて。その右手で――」
その言葉を待ち望んでいたかのように、少年の手は振り下ろされた。
その右手がどんどん教師の身体に近付き、やがて彼の肩に手が触れる、その瞬間―――
『――その名前の通り、何よりも命を大切にする人でいてね』
かつて言われた、その言葉。
それがミコトの心の中に響いたとき――
教師の姿は、もうどこにもなかった。