第一章2 始まりのチャイム
早起きは三文の徳――という。ざっくり言えば『早起きをするといいことがあるよ』。
だとすれば、今日という日に早起きした命はその言葉にこう付け加えざるを得ない。
『でも、悪いことがないとは言ってない』と。
もっとも、周囲の談に則るのであれば「別に早起きではない」ので、それは命の八つ当たりかもしれなかった。
だが、その八つ当たりを始めるのはもう少し後になってからだ。
当の本人はこの先に待ち受ける運命を未だ知らず、友人との歓談のひと時を送っていた。
「いかに命くんと言えど、ここは譲れないよ……!」
「いいや、花ちゃんは奴の真の実力を知らないだけだ……!」
視線で火花を散らし、お互い一歩も退かない様を歓談というのであれば、である。
「きんぴらは甘い方がおいしいんだってば! あの優しい味わいが命くんにはわからないの?」
「いいや、ピリ辛の方が絶対おいしいって! ホント唐辛子の秘められた力を知ってほしいわ!」
「だからー」とぷりぷり怒りながら口火を切ったのは灯里の方だった。
「今日はいい日だ」と口にした灯里が理由を訊かれ、しかし一番の理由を明かすわけには行かず、「朝ごはんがきんぴらだった」と答えたところから始まったその会話は、いつのまにか『きんぴらの味論争』に発展していた。
灯里に負けじと命も反論を展開するのだが、展開するほどの論理的思考が二人揃って欠如しているのは、結が二人に送る生暖かい視線が物語っていた。
「ていうか辛さがないと物足りないでしょ、実際!」
「そんなことないし辛くしちゃったらせっかくの味がわかんなくなっちゃうじゃん!」
「いやいや、辛さも含めての味でしょう! わかんないかなあ!」
「イヤ! だって辛いと唇と舌とおしり痛くなるもん!」
「もはやそれ反論じゃないよね!?」
というか、女の子が往来のど真ん中でおしりとか叫ぶのは良くないんじゃなかろうか。
そんな心配を他所にヒートアップする灯里は、ぐりんと一歩後ろを歩く人物を振り返った。その行動の意図を察した命も、それに乗っかって後ろを向く。
「信藤くんはどう思う!?」
「結くんはどう思う!?」
結は巻き込まれまいと沈黙を守っていたようだが、そうは問屋が卸さないというものだ。
二人のあまりの勢いに若干たじろいだものの、結は瞑目してため息をひとつ落としてから、
「悪いが命、俺は甘い派だ。すりごまがあればなおよし」
「なぁーーー!」
わざとらしくニヤリと笑い、芝居がかった口調で幼馴染に無慈悲な答えを告げるのであった。
まさかの裏切りに、命は悲しみと怒りがないまぜになった言葉にならない悲鳴を上げた。
「だよねだよね、信藤くんわかってる!」
「ていうかまあ、ただの好みの問題だから。辛いのの何がいいのかはさっぱりわからんけど、そういう人もいるでしょうよ」
上機嫌な灯里に、命はがっくりと肩を落とす。
それを見た結はフォローと見せかけて、巧妙に更なる追い打ちをかけてくる。命のライフはもうゼロだ。
「結くんは相変わらず容赦がないなあ……いいよいいよ、別にわかってもらえなくてもさ……」
いじけだす命に灯里は宥めるモードに入り、肩を叩き「まあまあ」と声をかけると優しく微笑む。
「元気出しなよー。今日私のお弁当のきんぴらあげるからさ!」
「うう、ありがとう……唐辛子は?」
「入ってない。甘口の美味しさに目覚めたまえ!」
命を宥めすかしてさりげなくお昼の約束を取り付けた灯里は内心ガッツポーズを取り、嬉しそうに声を上げて笑うのだった。
***************
くだらなくも微笑ましいそんな会話をしているうちに、三人は二年A組の教室に到着していた。
クラスメートから口々に告げられる挨拶に、めいめい返事をしながら自分の席に向かう。
それまでは、一見すると平和な日常の風景がそこにはあった。しかし、悲劇の幕開けはすぐそこまで迫っている。そのことを知るのは、一握りの人間と――
八時二十五分。始業のチャイムの五分前、予鈴が鳴り響き、一日の始まりを知らせる時間。
それは、突然の出来事だった。
予鈴が鳴り響くと同時に、それまで柔らかな日射しが差し込んでいた教室から、光が突然に行方をくらませた。
目を開いていても何も見えず、自分の居場所すらわからなくなるような、真の暗闇。
都会に暮らす若者が体験するはずのないそれは、一瞬にして混乱を巻き起こした。
「何これ、停電?」
「すげえ、なんも見えねー!」
「やだ、怖い怖い」
「ちょっと、今お尻触ったの誰!?」
「悪い、今誰かの足踏んだわ」
不安に駆られる声がさざ波のように広がり、瞬く間に喧噪となる。
ぶつかったり踏んだりしているのだろうか、時折短い悲鳴が上がっている。
しかし一向に闇は晴れる気配がなく、チャイムの音が喧噪を叱りつけるように鳴り続けていた。
――おかしい。
ミコトはそう直感した。この事態がおかしいというのはもちろんだが、
「みんな落ち着けー! たぶん停電だろ。待ってればすぐ電気点くはずだって」
誰かの発したそれを、本能的に違うと感じ取っていた。
何故そう感じたのかは、斜め前の席の人物の呟きが正しく言語化してくれた。
「いや、今は朝なんだから電気消えてもこんな暗くなるはずない……」
静かに不安を纏った声でそう発したのはユウだ。
聞こえる範囲にいた数名がその事実に気付き、不可解な現状に怯えて身を竦める。
ただ、その様子はやはり暗闇に紛れて周囲からは見えない。
しかし突然やってきた暗闇は、やってきた時と同じく突然消えた。
予鈴の最後の一打ちがその余韻を終えるのと同時に、世界に光が舞い戻ってくる。
急激な明るさの変化に全員が目を瞬き、自分の眼が周囲の明るさに馴染むまでの時間を薄目でやり過ごす。
「なんだったんだ……」
その疑問の答えは、教室の最前部に現れていた。
「みなさん、おはようございます」
美しく妖艶で、しかしどこか人間味を欠いた声が全員にそう告げた。
そして声の主に目線を向けた全員が全員、ぽかんと口を開けて闖入者を凝視し、沈黙が訪れる。
そこにいたのは、豊かな金髪を揺らし、たおやかな肢体を1枚の純白の衣に包んだ女性。
人間離れした美しい顔立ちに愉しげな微笑を浮かべ、細めた目で教室を見渡していた。
だが何よりも目を惹くのは――両肩から延びる柔らかな白い翼と、頭上に輝く金色の光の輪だ。その姿はまさに、
「――私は、女神です」
――一柱の女神だった。
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しばし、沈黙が教室を席巻した。
その最前部、視線を一身に集めるのは自称女神。注視されるのが気持ちいいとでも言いたげな、愉しそうな顔を浮かべている。
ただ、突然出現したのは彼女だけではないようだ。
すぐ隣に、彼女の肩くらいまでの高さの『何か』がある。『何か』の正体が判然としないのは、それがすっぽりと白い布に覆われているからだ。
大半の生徒たちは女神の方に気を取られているが、ミコトはたまたまそちらの方を見て取った。
その正体に考えを巡らせてみるが、特に何も浮かばないうちに状況は進行した。
「いや、女神とかマジ何それ。ウケる」
沈黙を破ったのは、誰かの発したそんな一言だった。
一度声が上がればそれは波紋のように広がり、教室は徐々に騒がしさを取り戻す。
「自分で女神ですとか言っちゃうのやべえ」
「つーかエッロ、コスプレ? よくやるわー」
「ていうか普通に不審者でしょ、通報通報ー」
「悪戯もここまで来ればいっそ清々しいな。手込みすぎだよ」
落ち着きを取り戻した周囲の軽いリアクションに、取り残されたのはミコトを含む数名だ。
先ほどのユウの呟きで気付いた、説明のつかない現象。その捉えどころのない恐怖が彼らの身を固めた。
ミコトは言葉を発するのを躊躇い、目線で周囲と不安を交換する。
「私の美しさに昂ってしまうのはわかるけれど、少し静かにしてもらえるかしら?」
声を張っているわけでもないのにやけに頭に響く声で、女神は騒ぐ生徒に傲慢な言葉を発する。
だが、その程度の制止で鎮まるほど、現代の高校生は素直に育っていない。
「は? 何様なのコイツ?」
という声をきっかけに、次々に怒りや嘲笑の声が飛び交う。
それを一身に受ける自称女神はしかし、愉しそうな顔を欠片も崩さない。
「もういいよ、私先生呼びに行ってくる」
喧噪の中そう宣言した女子が足早に教室の後方に向かう。
そう、ここは学校だ。困ったことがあれば教師を、大人を頼ればいい。
彼女の正しい行動に、ミコトは感謝と希望を抱いて見守った。
扉のもとに辿り着いた彼女は扉に手を掛け力を籠めると、
「……あれ?」
一言、間の抜けた声を上げた。
その顔には驚きが浮かび、焦りへと徐々に色を変えると、遂には恐怖となって固定された。
――まさか、という懸念は彼女の次の言葉によって肯定される。
「あか、開かない……」
扉と歯の根をガタガタと鳴らし何度も開けようと試みるが、扉は頑としてその身を滑らせようとはしなかった。
「おいおい何言ってんだよ、鍵はこっち側なんだから開ければいいだけだろ?」
扉の直近の席の男子が笑いながら近付き、鍵のつまみに手を掛ける。
しかし、次の瞬間その笑みはカッチリと凍りつき、次いで青めの真顔になる。
「あ? いやこれ、鍵掛かってないじゃん」
自分の記憶違いかと、鍵のつまみを上下させその都度扉に力を籠めるが、何度繰り返しても扉は力に屈しなかった。
その様子にクラス全員が気付き、前方でも扉の最も近くにいた男子が彼の行動をトレースする。もっとも、結果まで正確にトレースしてしまう羽目になるのだが。
「だ、誰かが向こうから押さえてんのか……?」
それは希望的観測だ、というのは発言した本人も含めて全員がわかっていた。
しかし、できることを全て試すまでは絶望するべきではない。
まず、誰かが気付く。教室と外との接点はもう一つあると。
そのもう一つの接点、つまり窓も扉と同様の試みの末、やはり開かないと結論付けられてしまう。
次に試されるのは、力尽くの脱出――即ち接点の破壊による開放だ。
しかし、蹴り飛ばし、体当たりし、椅子を投げ、机を投げても、扉も窓も傷一つ付かなかった。
これまで日々を過ごしてきた空間が、自分たちを閉じ込める檻に姿を変えたという事実を突きつけられる。
「で、もちろんケータイは通じない、と……。漫画ならここまでがパターンではあるけれども……どうせ体験するならラブコメとかの方がよかったなあ」
曲がり角でパンを咥えた女の子とぶつかる的な。
ミコトの間の抜けたその発言は、動揺を自制するための虚勢だ。聞いている周りの人間も、笑ってくれる心のゆとりは持ち合わせていないようだ。
「静かになったようで何よりね。では、私の話を聞いて頂戴」
時間と絶望が創り出した静寂を、女神は満足そうに受け入れて語り始めた。
この異常な状況を創り出した張本人であろう彼女の発言を、遮る勇気のある人間はいない。
果たして、女神は宣言した。
「みなさんには、これから鬼ごっこをしてもらいます」