第一章1 それぞれの朝
信藤結にとって、その日はいつもと何も変わらない朝だった。
いつも通りの時間に母親に起こされ、朝の情報番組を見ながら朝食を食べる。歯を磨いて顔を洗い、髭を剃った後に部屋に戻り、制服に着替える。
決まりきった朝の身支度を終えると、学校指定のショルダーバッグを肩に引っ掛けて玄関へ向かう。
「今日は夕方から雨らしいよ。傘持って行きな」
出がけに母親がそんなことを言う。
朝の情報源は朝食時垂れ流されているテレビ一択であり、それはつまり結も雨については知っているということに他ならない。
だが、得てして母親とはそういう生き物だ。
「折り畳み。行ってきます」
バッグを叩いてその在り処を示すという無味乾燥な返答と形だけの挨拶を投げ、行ってらっしゃいの声を背に受けながら結は家を出た。
空を見上げれば、まだまだ雨の気配は感じない朝の日射しが降り注ぎ、身体を温めるのを感じた。
――ああ、今日も一日が始まる。何の変哲もない、時々楽しかったり嫌なことがあったりする程度の日常が。
別に不満はない。普通に健康で高校に通えて、孤立したりいじめを受けたりすることもなく、平穏に過ごしている。
成績だって上位に食い込むし運動もそこまで苦手ではない。
友達はそこそこいるし親友と呼べる人間もいる。
普通に考えて順風満帆な青春を送れている。
何より、生きているだけでもそれが素晴らしいことだと結は知っていた。
だが、ふとした瞬間に思う。何か、自分の人生を変えてくれる出来事は起きないだろうか、と。
「って、中二か。もう高二だって」
そんなことを思う度、決まって一人苦笑してしまうのだった。もちろん、周りに人がいないのを確認してからだが。
贅沢な悩みだ。当たり前の日常が一番幸せなんだ。
結局そんな一般的な結論に辿り着き、今日もちょっとだけいいことがあればいいなと、一日に思いを馳せるのだった。
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柏手命にとって、その日はいつもよりちょっとだけ優雅な朝だった。
いつもであれば、理想の起床時間をきっちり四十五分遅れて目覚めると、放任主義な両親を横目に超特急で身だしなみを整え、自転車に飛び乗るところだ。
しかし今日に限っては、奇跡的に日常より四十五分も早く目が覚めた。それはつまり普通に起きただけなのだが。
「あらおはよう。朝ご飯食べる?」
「おはよう。うん、食べます」
いつも朝食を抜かすからと言って決して食が細いわけではなく、むしろよく食べる方である命としては、この返事をできることがけっこう嬉しかったりする。
そして、命が食べるかどうかに関わらず捌ける朝食メニューを考えている母親にも感謝だ。
「珍しいねえ、今日なんかあったっけ?」
母親の何の気なしの問いかけに、命自身も頭を捻る。何かあったかなあ、今日。
「いやあ、なんだか早く目が覚めてしまって」
結局そう答を出し、せっかくの朝食を堪能する方向へシフト。焼きたてのトーストに齧り付く。
じゅわっと口の中で広がるバターの味に、思わず顔が綻ぶ。
「いやあ、やっぱりトーストはバターでいただくのが正義だなあ」
「何言ってんだか。ほら、あんまりゆっくり食べてるとせっかくの早起きが意味なくなるよ。ていうか別に早起きではないからね。普通の時間に起きただけだからね」
トーストについての持論を展開しようとした矢先、母親が的確なツッコミとアドバイスを入れてきた。
確かにいつもよりは早いが、あくまで普通の時間に起きただけなのである。残念ながらトーストとバターの親和性を語る余裕はない。
むしろ、いつもの起床時間で遅刻を免れているのが奇跡と言っていい。
というわけで、朝食を綺麗に平らげるといそいそと準備を始める。
結果としていつもよりも十五分早く支度が完了した。これならいつもみたいに全速力で自転車を漕ぐ必要はなさそうだ。
「いってらっしゃーい」
――この挨拶をこんなに余裕を持って聞いたのは久しぶりだなあ。
いってきますと応えつつ、しょうもない感慨に耽りながら家を出て、今日はいいことがありそうだなと思いながら自転車を走らせる。
すると、前方に見覚えのある姿を見つけた。
高校二年生としては少し低め、そしてその身長をしても軽めの体重しかない細身の身体は、命と同じ制服に包まれている。
「結くん、おはよう」
命がそう声をかけると、相手はこちらを振り返り足を止める。
短い黒髪を特に揺らすこともなく振り向いた彼の顔は、パッと見で表情が読み辛いと巷で評判である。
だが命には、自分を見ると少し驚いた後、優しげに和らいだのが見て取れた。
なにしろもう十年以上の付き合いになるので、彼の表情を読み解くことには自信があった。
「ああおはよう。どうしたの、珍しく早いじゃん。今日なんかあったっけ?」
「いやあ、なんだか早く目が覚めてしまって」
挨拶を返す結は、からかいと驚きが半々くらいの様子だ。
命は自転車を降りて結に並び、朝食時のやり取りの焼き直しに思わず笑いながら再演する。
「いや、違うな。これ世間一般で言えば早くないわ」
「返す言葉もございません!」
ふと冷静に考えて自分の言を撤回し、的確なツッコミを入れてくれた結。
本日二回目となるそれを受け、命は自分の考えなしの発言に恥じ入った。
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花咲灯里にとって、その日はとてもいい朝だった。
まず、朝食に大好物のきんぴらごぼうが出た。
それからテレビの占いで一位だった。
さらにさらに、家を出る時、玄関先の花が咲いていることに気が付いた。
そして極めつけに――登校中には滅多に遭遇できない、片思い中の男の子を見つけたのだ。
何しろ彼は寝坊・遅刻の常習犯で、自転車をかっ飛ばして学校に駆け込んでくるのを教室から眺めるのが、灯里の日課になっているほどだ。
「命くん、おはよー!」
「あ、花ちゃん。おはよう」
後ろから声を発し、セミロングの茶髪をふわふわ揺らして駆け寄る灯里に、彼――命は振り向いて笑顔で答える。
イケメンとまではいかないが整った顔立ち。体は細いが背は高く、いつもなら登校時にくしゃくしゃになっている猫っ毛が、今日はバッチリ決まっていた。
何よりも、その優しさが溢れ出さんばかりの笑顔に射抜かれた灯里は、思わず見惚れそうになるが――
「信藤くんも、おはよう」
「挨拶はちゃんとしなさいよ」と育てられてきた灯里は、思わず一度目の挨拶で抜けてしまった結にも挨拶を敢行する。
二人で歩いているクラスメートの片方だけ名指しで挨拶をするとか失礼にも程がある気がするが、好きな男の子がいたら思わず周りに目をやるのを忘れてしまうのも仕方ないと理解していただきたいところだ。
「ん、おはよう」
多少わかりづらいが、機嫌を損ねた風でもなく挨拶を返してくれた結に、内心ほっとする灯里。
高校生の恋愛において、友人の評価はかなり重要だよ、というのはクラスメートの女子の談である。
もっとも、結の方はその辺りをなんとなく察しているため大して気にしていないのだが、そんなことは灯里にも命にもわからないことだった。
「ていうか、命くん珍しく早いね! 今日なんかあったっけ?」
「いやあ、なんだか早……くはないけども、珍しくちゃんと目が覚めたんですよ」
本日三度目となる問いに、多少学んだ命のへどもどな回答が返った。
そのやり取りを見ていた結からフフン、と鼻息が聞こえてきて、どうやら笑ったらしいと灯里は気が付いた。
「おや、今信藤くん笑った? どうかした?」
笑ったのを見て取られるとは思っていなかったのだろう、結はちょっと驚いているようだった。
基本天然ゆるふわガールというのが周囲の灯里に対する印象らしいが、それには日々しっかりと不満を申し立てている。
「いや、さっき俺も全く同じこと聞いたから」
「やっぱり珍しいよね! 気になるよね! 雪降るんじゃないかなあとか思うよね!」
結の返答に、命に対する意見が一致したのが嬉しくて激しくテンションを上げる灯里。
しかしその言が当の命本人に結構刺さっていることに気付いていない。
「いやまあ、実は朝お母さんにも言われたから三回目だし、いやあ、耳が痛いですわあ……」
「ほんと申し訳ない」と小さくなる命だが、別に学校に遅刻しようが結や灯里に謝ったところで仕方がない。
もっとも、学校以外でも遅刻を繰り返すことを思えば、二人にも待たされた思い出はあっさりと思い浮かぶので、謝罪を受けるだけの理由はあった。
それにしても、
――悪気もないし反省もしてるのが命らしいよなあ。
と、二人は言葉を交わさずとも同じ感想を抱いて、小さく笑った。
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山田敦にとって、その日は全てが引っくり返る朝だった。
何しろ、これから学校に向かおうというのだから。
彼は、引き籠りだった。理由は至ってシンプルで、学校でいじめを受けたからだ。
至ってシンプルで、覆しようのない事実だ。
彼へのいじめは、高校に入るとすぐに開始された――というのは、「今回の」という補足を入れねばなるまい。
何しろ小学校、中学校を含めれば彼のいじめられ歴は年齢に肩を並べつつある。
小学校から中学校へは引っ越しを、中学校から高校へは電車通学を用いて人間関係を刷新してきた。
だが、まるで目印でも付いているかのように、決まって悪意は彼に牙を剥くのだった。
いや、実際に目印があるのだろう。
コイツは虐げられても声を上げられず、抵抗もできず、ただ泣き寝入りするだけの弱者だと。
染み着いたその惨めな臭いを、嗅ぎ取る嗅覚を持った獣のような奴らがいるのだ。
そうして三回目の悲劇に突入した敦は、それでも一年近くは耐えていた。
しかしある日ついに限界を迎え、本当に泣き寝入りする羽目になったのだった。
そう、どこに行っても同じだ。きっとこの先、転校しようが大学生になろうが大人になろうが、自分は獲物に、餌食にされ続けるのだ。
そして――助けを求めても、手を差し伸べてくれる人は誰もいない。それは、今回のことではっきりとわかった。
そう結論付け、敦は外との繋がりを断った。むしろここまでよく頑張ってきたと褒めてほしいくらいだ。
そうして外界との接触を断ってしまえば、生きることのなんと楽なことか。
両親もいじめの事実は知っていたから、家の中では温かく見守ってもらえた。
悲しみはあった。
数は少ないが友達もいた。それがあったから中学校までは乗り越えられた。彼らに会えないのは寂しいと思わないでもない。
申し訳ないと思う気持ちもあった。
このままでは、いずれ両親の資産を食いつぶすだろうし、その恩を返すことが不可能であることもわかっている。
怒りもあった。
なぜ、自分がこんな目に遭わなければいけないのか。本当に引き籠るべきは、打ちのめされるべきは、害を撒き散らすあいつらのはずなのに、と。
しかし、それらのどんな気持ちよりも、現状の楽さが勝った。
人生に疲れ切った彼に、それ以外の選択肢を選ぶ気力は残っていなかった。
――そう、その日の朝までは。
「ねえ――あいつらに、復讐する気はない?」
彼女は、突然舞い降りた。