プロローグ 始まりの消失
静まり返った教室。クラスの全員が集まっているというのに、不規則な二つの荒い息遣いのみがやけにうるさく聞こえてくる。
他の誰もが声の出し方を忘れてしまったばかりでなく、身動き一つ、呼吸の仕方すら記憶の彼方に置き忘れてきたかのような静寂。
場にいる全員の視線が、教室の最前部に向けられていた。
その中心にいるのは、息を切らし震える少年と、椅子に縛り付けられた上に猿轡を噛まされ、涙と鼻水を垂れ流して喘ぐ教師。そして――
「ほらほら、どうしたの?」
純白の衣に身を包み、豊かな金髪を躍らせて少年に話しかける女性である。
しかしそんな場違いな格好よりもなお目を引くのは、頭上に浮かぶ光の輪と、両肩の辺りから突き出した白い翼だった。
物語に登場する女神そのものの出で立ちの彼女は、徹底して愉しそうに言葉を紡ぐ。
「その人が憎いんでしょう? 顔も見たくないんでしょう? 自分の目の前から消え去ってくれれば、どんなにせいせいするでしょうね?」
彼女は艶やかな、しかし人間ではあり得ない残虐さを秘めた笑顔で少年を誘惑する。
それは神の導きか、はたまた悪魔の囁きか。
ぞくりと走る背中の悪寒に、少年の顔を汗が伝う。
「触れるだけで、それが叶うとしたら? あなたのその右手で。友達に挨拶をするかのように。愛しい人を慈しむように」
――ポン、と。
耳元で囁かれたその擬音は、少年の鼓膜を通じ、脳を駆け抜け、心に潜り込み、わざとらしいほど軽やかに響く。
「触れる、ただそれだけ。あなたは何も悪くない。ただ彼が目の前から消えてしまうだけ。彼は死ぬわけでもなければ傷つくことも苦しむこともない」
その言葉に背を押されるように、手を引かれるように、少年はゆらりと一歩踏み出す。
そのゆっくりとした歩みに、教師は目を見開いて身を震わせた。
「――そう。右手を上げて。あとはそれを振り下ろすだけ」
母親に言いつけられた従順な子供のように、少年は行動する。
その緩慢な動きがより一層教師の恐怖心を刺激し、彼は拘束を逃れようと暴れだす。
しかし、その身体が解放されることはなかった。
二人は、もう手を伸ばせば届く距離だ。右手を高々と掲げるその姿は、教師の目には鎌を構えた死神の如く映る。
「さあ。触れて。その右手で――」
その言葉を待ち望んでいたかのように、少年の手は振り下ろされた。
その右手がどんどん教師の身体に近付き、やがて彼の肩に手が触れる、その瞬間―――
教師の姿は、もうどこにもなかった。