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ことの始まり

こんな景色だっただろうか

肩にかかる髪を煩そうに振り払い

京子は手をかざして秋の陽射しを避けながら

波止場に立って周囲を見渡した


小さな漁船が船着き場に留め置かれ

赤銅色の肌に深々とシワを刻んだ漁師が数人

黙々と網の修繕をしている

見慣れぬ車から降り立った京子にちらりと視線を向けたものの

すぐに元の作業に戻った


そうだ

この波止場だった

母に抱き抱えられながら飛び込んだ海は

確かにここだった

突堤の先にある小さな灯台

落ちていく瞬間に見た、あの灯台だ

暗い海の冷たさに感覚も痺れ

波にのまれる恐怖すら感じず

もがくのを止めた時に見た、あの灯台がまだ建っている

京子はいつか泣いていた

大声を上げて泣いていた

漁師たちが訝しげに見ているのに気づいたが

涙を止められず座り込んで泣き続けた


お母ちゃん

お母ちゃん


一人の漁師がおずおずと近づいてくる


「あんた、どうしたね、どうかしたのかね」


泣き崩れる若い娘に触れていいものかどうか、戸惑いながら掛ける声にはしかし

暖かみが感じられ、京子はなおいっそう泣けて仕方なかった

泣いて、泣いて、泣き尽くした

ずっとそばで見守ってくれていた漁師のそばにはいつか他の漁師も加わり

どうしたものかわからずただじっと泣き続ける京子を見つめていた


「おじさん、警察はどこですか」

立ち上がり、思ったよりしっかりした声が出た自分に励まされ

京子は最初に寄り添ってくれた漁師に尋ねた

「警察?警察はこの先にあるが…」

漁師は船着き場を背にして右側を示した

「あんたさんが行くのかね」

「はい 私が行くんです 行かなきゃいけないんです」

漁師はかたわらの仲間と目を見交わして戸惑うばかりだ

「私、人を…母を殺したんです だから行かなきゃ」

ひっと息を飲む漁師たちに一礼して

京子は車に戻るため歩き出した

一歩一歩、過去へと時間が遡っていく

……………………………………………………………………………


絵に描いたような不幸な家庭だった。

佐伯 京子は中国地方にある小都市で生まれた。

父、道夫

母、信子

二人とも若くして親になり、親の自覚をする前に大人にすらなっていなかった。

どんな仕事も長続きしない父、赤ん坊が泣くとおろおろと一緒に泣くしかない母。

互いを責め合い、なじり、罵り、そして暴力。

劣悪な家庭であっても、しかし京子にはそこが家庭であり、唯一の拠り所であった。

父が日雇い仕事で登った屋根から落ちてあっけなく死ぬまでは、やはりひとつの家庭であったのだ。


それからの転落の速さは、どうしようもないもので、母は厚化粧に派手な服に身を包み、

夕方に出掛けると時には翌日になっても帰らない日もあった。

当初は自分は捨てられたのか、お母ちゃんはもう帰って来ないのかと半狂乱になったが、

小学校に通う頃にはやがてそれにも慣れた。一人で寝て一人で起きて、母が置いていったパンを食べ、

昼は給食でまかない、夜はまたパンを食べて、朝には食べるものもなくなり、

空腹にも慣れたのか学校へは休まず通った。

ランドセルを持たず、ビニール袋に教科書を入れ、底が抜けかかった靴を履いていても、

学校は楽しかった。リボンやヒラヒラした洋服の子達の綺麗な色が溢れ、大好きな本も読める。

お昼は美味しい給食もある。一人でいることにも慣れた。

むしろ一人がよかった。ふらっと帰宅する母の薄汚れた姿を見るぐらいなら、

一人でいるほうがよほどよかった。


そんなある日、三日ぶりに帰宅した母は泣き腫らしたような顔で

「京ちゃん、明日学校休みやね。お母ちゃんと出掛けよか」

と、ひどく淡々と話しかけてきた。

「どこ行くん?」

京子の問いかけには答えず、母はじっと破れた畳を見据えていた。


何も言わず京子の手を引っ張るように歩く母に連れて来られたのは、市の外れにある港のある町だった。

電車に乗り、乗り換えてまた電車に揺られ、初めてタクシーにも乗った。

観光地など行ったこともない京子でも、ずいぶん寂しい所だなぁと思う波止場だった。


母は船着き場のずっと先まで歩いていく。

京子も後をついて歩くしかなかったが、この向こうにはなんにもないのんに、お母ちゃんはどこ行くんやろ…

と不思議でならなかった。突堤の先まで来た。母がコンクリートの突堤に京子を座らせ、自分も並んで座った。

足をぶらぶらさせながら海を眺める母の横顔を、京子は久しぶりに(お母ちゃん、綺麗やなぁ)と思い嬉しくなった。お化粧もしてないしお酒も飲んでないお母ちゃん、ホント綺麗やわ

母は京子が見つめているのにも気づかないようだ。京子も同じように足をぶらぶらさせて母と海を交互に眺めていた。静かな時間だった。船は漁に出かけているのか一艘も見当たらず、船着き場は誰もいなかった。

秋の日暮れは早く、辺りは薄暗くなり始めたが、母は帰ろうとしない。

「お母ちゃん、もう帰ろう」と言い終わらぬうちに母が自分を抱き上げ、コンクリートの上に立ち上がった。

「京ちゃん、ごめんね。こんなお母ちゃんでごめんね」

お母ちゃん、どうしたんと聞こうと口を開いた瞬間、母が空へ舞い上がった。

あ、海に落ちてしまうやんと身をよじったほんの一瞬、灯台が目に映った。

海中のどこまで沈んだのか、ごぼごぼと塩辛い水を飲み込み、母にしがみつきながら空気が欲しくてたまらず、

本能的に上へ上へと気ばかり焦り、苦しくて目が痛くて喉が痛くてどうしようもなくもがいた。

もがき疲れて母を見ると、まるで眠っているように漂っている。

あぁ、そうか、寝ちゃえばいいんだ

いつもみたいに寝ちゃえばイヤなことは何もないんだ

そうしよう

あ、さっきの灯台だ

赤いランプ、パトカーみたいだ

眠くなってきたよ

ランプのチカチカ、もっと見たいのに

あぁ、ダメだ…寝ちゃうね

お母ちゃん、お母ちゃん

おやすみなさい


…………………………………………………………………………………………………















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