45 決定、変な部活!
ゆりかごの中にいるような、あたたかく、安らかなものに包まれ、心地よく揺れていた。
少年は毒の沼で逃れることのできない激痛に晒され続け、副作用による幻覚でついには精神までもを蝕まれ、意識をドロドロに混濁させられた。
熱にうなされた時に見る夢のような、現実とも空想ともつかぬ状態がずっと続いていたのだが……ある瞬間からふっと軽くなり、甘い桃の香りが漂ってきた。
地獄の針山にいるかのような責苦から一転、まさしく極楽といえるフワフワしたやわらかい雲に包まれた。
苦しみの後に訪れた安息……それは格別だった。極寒の山奥をさんざんさまよい歩いて見つけた温泉に浸かったような……身体がとろけてしまう筆舌に尽くしがたい快感。
き……気持ち、いい……。
頬に触れる柔らかなピンク色の雲に誘われるように、ヒロシは寝返りを打って顔を埋めた。
うふふ、と慈しみにあふれる笑い声が梵天のように心地よく耳をくすぐる。
聞き覚えのあるその声に、ヒロシはゆっくりと瞼を開いた。
目の前には薄桃色の縦縞ニット。
頬ずりしたくなるような柔らかさで……というか、すでに何度か頬ずりしたのか、気持ち良さのあまり垂らしたヨダレの跡がついている。
しかしその服の持ち主は嫌な顔ひとつせず、むしろもっと気持ちよくなってほしいとヒロシを抱き寄せ、後頭部を撫でつけていた。
「ふわあっ!?」
その正体に気づいたヒロシは腕から転げ落ちるほどに驚く。
ヒロシが寝ていたベッドの側にはツキカがいて、床から膝立ちのまま身体を乗り出すように豊満な胸をベッドの上に乗せていた。腕を抱っこの形にしたままキョトンとしていたが、ヒロシが元気であることを確認すると、
「あ、おはようヒロシちゃん」
目覚めた赤ちゃんを見つめるように、にっこりと微笑んだ。
「ヒロシちゃんの寝顔を見てたらつい抱っこしたくなっちゃって……びっくりしちゃった?」
母のようなやさしい微笑みが、少女のようないたずらっぽさを帯びる。
「い、いえ! び、びっくりだなんて、そんな!」
ヒロシは全力で否定する。
ドギマギするあまり表現の度合いが加減できず、水を浴びた犬のように全身をブルブル振ってしまった。明らかに挙動不審だ。
「もう起きても平気なの? 昨日も大変だったようだけど……まだおねんねしてても大丈夫よ」
「も、もう! もう平気です!」
ヒロシは心配させまいと努めて溌剌とし、好調アピールとして両手をグルグルと振り回してみたせ。
実はふくらはぎのあたりに引きつるような痛みが残っているのだが、おくびにも出さない。
「うふふ、よかった。じゃあ、朝ごはんにしましょうか。……あ、さっき校長先生が見えられて、今日は学校はお昼からでいいっておっしゃってたわ。だからゆっくりしましょうね、パジャマのまま食堂にいらっしゃい」
ひたすら甘い、甘やかすような声に少年は幼子のような顔になり、溜息のような返事を返した。
妖精は宮棚のベッドの上でまだ大いびきをかいていたので、ヒロシはそっとしておくことにした。着の身着のままでツキカの後についていき、食堂へと向かう。
がらんとした食堂には椅子にちんまりと座るベルがいるだけで、他には誰もいなかった。そのせいかうら寂しい広さがより強調されているような気がする。
「あれ、みんなは?」
ヒロシが問うとベルは恥ずかしそうに顔を伏せてしまった。調理場から鍋を持ってやってきたツキカがかわりに答える。
「マリーちゃんは昨日の温泉でのことで怒っちゃったみたいで……ゴハンはいらないって。ロートちゃんとグリューちゃんとブラウちゃんは見えられた校長先生に呼ばれて、一緒に学校に行ったわ」
「そうなんだ……」
ヒロシはいつもの曖昧な返事をする。
実のところ、少年の記憶は力の種をまとめて飲み込んだ後から曖昧だったりする。
毒の沼に飛び込んでからはずっと悪夢を見ているような苦しさが続いていて、自分が何をしたのか、どうなって助かったのかほとんど覚えていなかった。
なにか子供の頃の自分のような懐かしい感覚が蘇ってきて、うわごとのように言葉を紡ぎ出していた気がするのだが、何を喋ったのかはきれいさっぱり忘れていた。
幼い頃の彼は傍若無人なところがあり、それで孤立した経験がある。
もしかして無意識のうちにそんな振る舞いをしてたんじゃ……それでマリーも怒らせちゃったんじゃ……と、ヒロシは泥酔した翌朝のサラリーマンのような自責の念に苛まれていた。
みんなに食事を配り終えたツキカが席についたので、ヒロシは居住まいを正す。
「じゃあ、ちょっと寂しいけど、三人で朝ゴハンにしましょうか。お手々のシワとシワをあわせてぇ、はぁい、いただきまぁす」
続いて「いただきます」と唱和するヒロシとベル。
ふたりともあまり声が大きいほうではない。広々とした食堂に虫のささやきのような声が吸い込まれていく。
朝食はヒロシの体調のことを考えたメニューで、メインはお粥だった。
湯気をたてる土鍋にレンゲを浸し、すくってひと口食べると……ふんわりしたものが喉から胃にするりと落ちていき、身体の芯がじんわりとあたたかくなった。
染み渡るようなうまさにほっとひと息つくと、なんだか本格的にお腹が空いてきた。ヒロシはお椀を持ち上げてガツガツとかきこむ。
結局、ヒロシはお粥を二杯もおかわりしてツキカを大喜びさせた。
三杯もの鍋を空にしたヒロシは「ごちそうさま!」と大きな声で唱和し椅子から立ち上がる。
着替えのために部屋に戻ろうとしたが、途中でツキカに呼び止められた。
「あ、待って、ヒロシちゃん、ブラウちゃんから渡してほしいって頼まれてたものがあったの」
ツキカはエプロンの腹部にある大きなポケットから封筒を取り出し、ヒロシに差し出した。
どこかで見たことがあるような古風な洋封筒……受け取って宛名を見てみると『変な部活』としたためられていた。
「あっ!? これは……!?」
まだどこか夢見心地だったヒロシに一気に目が覚めの衝撃が走る。
昨日探索した地下の骸骨が持っていた手紙だ。
いきなり動いて腕を掴まれたものだから、びっくりして肝心の手紙を取るのをすっかり忘れていたことを思い出す。
ブラウがかわりに持って帰ってきてくれたのだ。
彼女は何を考えているかわからないところがあるが、地下でいつのまにかNDDの魔法の杖を拝借したりと実に抜け目ない性格だ。しかしその手癖に二度も助けられるとは思いもよらなかった。
ツキカはそのまま後片付けに行ってしまったので、ヒロシは封筒を手に急いで自室に戻った。
まずは着替えだといそいそとパジャマを脱ぎ、シャツとズボンを着込む。
ベルトを腰に巻こうとして、背中にあたる部分に新たな革ケースが装着されていることに気づいた。
従者カードを入れるカードケースと同じデザインだが、やや細長い。
何だろうと開けてみると中には『服従の焼印』が入っていた。
ど、どうしてここに……? と顔を引きつらせていると、背後から妖精の声がした。
「どないしてん、恐怖新聞が届いたみたいな顔して……ああ、その焼印ならスジリエが朝来たときに着けてったやで」
視線を向けると、宮棚にある人形用ベッドの上で遅い朝食をとるミームの姿があった。ツキカが運んだのであろうお粥を寝ながら貪る姿は妖精というよりも仮病の入院患者のようであった。
い、いらないって言ったのに、とヒロシは苦い顔になった。
しかしすぐに気を取り直し、でもまぁいいか、とそのままベルトを巻いた。
それよりも手紙だ……今気にすべきは焼印よりも部活だ……! と封筒を手に取り封蝋を剥がす。
中には二つ折りの羊皮紙が入っていた。はやる気持ちのまま取り出して広げてみると、
『一番最初に目についた単語を読み上げよ』
と表題があり、その下にはマス目に入った文字がずらりと並んでいた。
文章と文字、どちらも天符羅で書かれている。
文字の羅列に目を落としたヒロシは、なんとなく一番最初に目についた文字を目で追いかけながら読みあげてみた。
「じ・よ・し・か・い……」
つぶやいた直後、微風がヒロシの頬を撫でた。
窓は閉まっているのに吹いた風はすぐにつむじ風となり、あっという間に手紙を吹き飛ばすほどの突風に成長する。
風の使いのように部屋の中央に出現した古文書、ROTTKの仕業であった。
煽られるようにページがめくれ、真ん中のあたりで止まる。
ヒロシに向けられた見開きページの中には、
『変な部活は「女子会部」で決定! クエスト達成!!』
と書かれていた。




