17 犬に乗った少女
ベッドに仰向けに縛り付けられた白狼のような獣。
シャチのような巨大な身体を、釣り上げられたばかりのようによじらせ暴れている。
大きな鉄のベッドに鎖で縛りつけられているため、ガラガラと金属同士がぶつかる耳障りな音がする。
側にいる少女は今にも崩れそうな腐った木椅子に腰掛け、恐ろしい獣を看病するかのように見守っているようだった。
愛らしいエプロンドレスの小さな背中は子供らしい頼りなさがあったが、赤い頭巾を深く被っているので表情はわからない。
「……おばあさん、おばあさんのお耳はなんて大きいの?」
少女が獣に向かって問いかける。まだ幼さを残す声で、肉親の身を案じるかのようなアクセントで。
「グオゥ! グオォッ!」
しかし獣は唸って暴れるだけだった。
「おばあさん、おばあさんのお目々はなんて大きくて、血走っているの?」
「ゴアッ! グアッ! ガアッ!」
充血した獣の眼は、いまにも喰いかからんばかりに少女を睨んでいる。
「おばあさん、おばあさんの手はなんて大きくて、鋭い爪が生えているの?」
「グオォン! ガアアアッ!」
唸り声とともに足の爪がシャキンと伸びる。フック状に湾曲したそれは、まるで鎌のような大きさだった。
爪が鎖に引っかかり、ギギギギと軋んだ音をたてる。
「おばあさん……おばあさんの口って、なんて大きくて、恐ろしい牙が生えているの?」
「ゴアァァァァァァァァァアアアアアアアアアアアッ!!」
激しい咆哮と共に身体をよじる獣。爪が火花を散らし、ついに鎖は弾けた。
鉄の円環を撒き散らしながら獣は上体を翻し、起き上がった。そのまま少女に覆いかぶさるように牙を突き立てようとする。
が、少女はその動きを予測していたかのように獣の額に手をつき、頭の上でヒラリと側転して背中に乗った。
「ヒャーッハァーッ!!」
赤いずきんの向こうには、まるで悪魔が乗り移ったかのような恐ろしい形相。
「間違いない、アイツや……! アイツが『血煙の獣騎士』や!!」
丈夫そうな太い木のウロに隠れて様子を伺っていたミームは、確信したように叫んだ。
「さあっ、ミルク! 大好物の骨がおいでなすったよ! 外の皮ごと喰らっちまいな!! ギャロップ!!」
先ほどとはうって変わった地獄の底から響くようなダミ声。ミルクと呼ばれた白き獣は命令に従う猟犬のようにヒロシたちめがけて襲歩する。
「ゴアアアアアーーーーーーーーーーッ!!」
全ての者を獲物とみなしているような咆哮が空気を震わせる。
並の者であればその身を捧げるように一歩も動けなくなってしまう百獣の王の雄叫びであった。
しかしすでに血を巡らせている少年には通用しない。
もはや彼にとっては、ガキ大将のわめき声と大差なかった。
大口を開けて飛んできたミルクの突進を、ヒロシはマリーとツキカを抱えて横っ飛びでかわす。
地面に倒れる三人。ヒロシはなぜかマリーのスカートめがけてヘッドスライディングをかましていた。
顔面騎乗するかのようにヒロシの顔はマリーの股間と密着する。ふんどしのような極小面積のローライズパンツが少年の顔に押し当てられた。
「ちょ、なに潜り込んでんのよっ!? このド変態っ!!」
スカート内でも迷ったようにもぞもぞしている頭に短剣のような鋭いゲンコツを降らすマリー。
ゴチンという鈍い音のあと、黒ヒゲ危機一髪ばりの勢いでヒロシの顔がスポンと飛び出してきた。
「いたっ!? ご、ゴメンっ!!」
「もう何発か頭殴ってタンコブで雪ダルマ作ってやりたいところだけど、いまはそれどころじゃないわ。アタシは自力で攻撃をかわすから、アンタはツキカをフォローしなさい!」
「わ、わかった!」
返事を確認したマリーは素早く立ち上がり、ヒロシとツキカの元から走り去る。
「よぉーし、アタシが相手よ!!」
距離を稼ぎながら背中の太刀を抜き、遠くで振り向きつつある獣に向かって切っ先を向けた。
「カーペットにして飾ってあげるわ、さぁ、かかってきなさいっ!!」
相手を挑発して注意を引きつけるのはマリーの得技技のひとつ。
声の大きさと罵りの語彙の豊富さでは学園でもトップクラスだ。
それは動物相手にも覿面に通用し、ミルクは主に命令されるまでもなくマリーをロックオンした。
グルルと唸りながら土蹴りをはじめる。
「ライト・ノーヴルにいるモンスターより歯ごたえがありそうね……最初から飛ばすわよ」
マリーは犬同士の喧嘩のようにミルクから視線を外さなかった。
レッドライディングの本体は少女ではなくあの獣だと判断したからだ。
四つ足の獣は人間を襲うとき顔を狙う。喉を食いちぎるために。
そして狙うときは押し倒すために飛びかかってくる。その時は弱点である腹部ががら空きになる。
飛びかかりを誘い、かわしざまに無防備などてっ腹にコイツをブチ込んでやる……!
狙いを決めた女剣士は愛用のエモノを握りしめる。
柄のマスコットが揺れた。犬のキャラクターの「チョコ」と「エッグ」だ。
特にアメリカンピットブルテリアのチョコがお気に入りで、自分が牝犬になった暁にはチョコという名前に改名するつもりでいる。
無双の牝犬姫は相手を見据えたまま、その名の所以のひとつとなった腹の割引シールに手をかける。いっきに半額まで剥がした。
「リミッターカット50%! 最初から飛ばすわよっ!!」
「フン! まだ半分とはナメられたモンだねぇ……後悔する間もなくしゃぶってやるよ……!」
レッドライディングとミルクは同時に舌なめずりをする。
「いっけぇぇぇぇーっ!!」
かけ声とともにスタートダッシュを切るミルク。
最初からトップスピード、瞬きほどの間に獲物の懐に飛び込む。
マリーはインファイトを得意とするボクサーのように姿勢を低くし相手よりさらに深く懐に潜り込もうとする。
しかし前足の爪が頬に引っかかり、頬を切り裂かれてしまった。鮮血が筋ように飛び散った。
それでも怯むことなく肩に担いだ太刀を前に薙ぎ、すれ違いざまの脇腹を斬りつける。
廃油のような黒い体液が飛び出し、白い毛皮を濡らした。
「コイツ……固っ……!?」
渾身の力を込めているにもかかわらず全然刃が入っていかず、骨を断つどころか肉を斬る感触すら伝わってこない。
切っ先がガリガリと薄皮を削っただけの感触にマリーは歯噛みする。
一回目の斬り結びは互角の痛み分けに終わったかと思ったが、ミルクは後脚でマリーの顔を蹴っ飛ばしていった。
「あぐっ!?」
熊の手サイズの肉球キックをまともに顔面に受け、マリーは吹っ飛んでしまった。
「マリーっ!?」
「ぐっ……だ、大丈夫……よっ!」
妖精の声に顔を拭いながらすぐさま起き上がる。
「肉体を傷つけるのが難しいようやな……ならディスアームや!」
戦況をすぐに把握したミームはウロの中から身を乗り出し、真下にいるヒロシに呼びかけた。
木の陰にツキカを隠していたヒロシは顔をあげて頷く。
「わかった。でも斬って死んだりしない?」
丁々発止の現状を理解していないような一言に妖精は呆れたが、少年の頭の中には自分が死ぬシナリオは一ページもなかった。
動くものに対しては恐れを感じない。
むしろ身体がムズムズするくらい好奇心をくすぐられ、追いかけたくなってしまう。まるで狩りを楽しむ猫のように。
たとえそれが自分自身に向かってくる脅威であってもかわし切る自信があった。
少年は想起する。いま対峙している獣以上に狩る者の本能を持っていたことを。
しかしそれに相反するやさしさから戸惑いも感じていた。相手は攻撃を当てることすらできないのに、こっちはその気になれば命を奪うことができる……それは戦いなどではなくて、一方的な屠殺。
すでに少年は食物連鎖の頂点にいるつもりで、そんな不平等が許されていいものかと躊躇していた。
幼少の頃からドッヂボールが得意だったが、よけるばかりで反撃しなかったのもその理由からだった。
ディスアームを女の子たちに振りかざせたのも、不殺という安心感からだ。
「こっちが殺されるかもわからん時になにを気にしとんねん! 大丈夫やから斬ったれ!!」
「わかった」
妖精のお墨付きをもらったヒロシはもう一度、ゆっくりと頷いた。
犬狼はすでに彼を捉えている。すでに飛びかかられているにもかかわらず少年は無防備な首筋を晒したまま木のウロを見上げている。
明らかに「終わった」状態。血煙の獣騎士には少年の首から上がなくなっている未来を疑わず、裂けたように口角を釣り上げていた。
「じゃあ、いくね」
ここでようやくヒロシは向き直る。
人を襲う鮫のように開口した毛むくじゃらの顔が眼前にあった。
二刀流のような剣歯と、ノコギリが幾重にも重なったようなギザギザの歯が、全ての罪を精算させる処刑道具のように迫ってきている。
肉食獣に喰われて死ぬ……普通の人間であれば凍りついた表情で今生最後の悲鳴を振り絞る、最恐の瞬間であった。
しかし……ヒロシは大口を開けたせいでたるんでしまった鼻筋のシワのほうが気になって、つい数を数えてしまっていた。




