10 これでも平和な朝
フローラルな香りが鼻先をくすぐる。
心地いいような、心ときめくような……いいニオイ……もっと感じたくて、大きく息を吸い込む。
花畑にいるような、強い香りが胸いっぱいに広がる。
ああ、気持ちがいい……気持ちがいい……けど……なんだちょっとくすぐったい。
鼻の奥がムズムズする。顔を振って振り払ってもすぐにまたムズ痒くなる。
しつこい痒みにじれったさも増す……少年はとうとう大きなくしゃみをしてしまった。
夢見心地が一気に吹き飛ぶ。
「クスッ、どう? 目が覚めた?」
ベッドに横たわるヒロシ。その顔を覗き込む小悪魔笑顔のマリーがいた。
寝ているヒロシの顔にかかるように髪をたらし、鼻をくすぐってイタズラしていたようだ。
「わっ」
また首を締められるのかと思わず飛び退いてしまうヒロシ。
「なにビビってんのよ、もう朝なんだからさっさと起きなさい。今日から学校なんだからね。テンプレ騎士の世話は従者がする決まりなんだから手間かけさせるんじゃないわよ、まったく……とんだ貧乏クジだわ」
サバサバした様子で愚痴をこぼすマリー。
ヒロシはベッドの上で足を揃えて座りなおすと、深々と頭を下げた。
「あの……えっと、マリーブラッドさん……昨日はゴメン」
少年は自分なりに誠意をもって謝ったつもりだったが、少女はそれに対してフンと鼻を鳴らした。
「もういいわ。私の中ではアレはノーカンだから。それよりもアタシが従者になった以上、立派なテンプレ騎士にならないと承知しないからね!」
「う、うんうん」
両手をついたまま顔だけあげたヒロシは、機嫌を損ねないようこくこく頷いた。
「素直でよろしい。それじゃ、アタシがビシビシ鍛えてあげるわ、覚悟なさい!」
マリーブラッドは指でつくったピストルを突きつけて天真爛漫に笑った。
昨日はひたすら敵意むき出しだったが今日はかなりフレンドリーだ。
元々クヨクヨしない性格に加え、従者1号になったということで昨日はずっと羨望の的だったので気を良くしてしまったのだ。
「さぁさぁ、とっとと着替えて! 遅刻するわよ!」
「あの、マリーブラッドさん」
「なによ?」
「部屋から出てってくれない?」
「あ……そっか、見られてちゃ着替えにくいわよね」
「ハダカ見られたんやから1回は見る権利あるんちゃう?」
ベッドの宮棚に敷かれた人形用布団で寝そべっていたミームが茶化してきた。
「それもそうね、じゃあ見せてもらおうかしら」
マリーは部屋から出て行きかけたが、悪戯っぽく笑って賛同する。
ヒロシは「えっ」と驚く。「見たくて見たわけじゃないよ」と不平を漏らしそうになる。
しかし喉のあたりまで出かかったその言葉を飲み込んだ。
……テンプレ騎士になるって決めたのに、それじゃあ今までの自分と変わらないじゃないか。
言い訳して、逃げて、人の顔色伺って……。
そんなんじゃ、ダメだ! 変わらなきゃ……! 僕はこの世界で変わるんだ!
騎士っていうくらいだから……もっと潔く、堂々としてないと……!!
ヒロシは覚悟を決め、キッと顔をあげる。
「……わかった」
上着を脱ごうとボタンに手をかけたが、マリーが慌てて遮った。
「なっ、なにやってんのよバカッ! 冗談に決まってるでしょ! アンタの裸なんか見たくないわよっ!!」
上気した顔を誤魔化すように部屋を出て行こうとする背中を拍子抜けしたようすで見送るヒロシ。
見た目はギャルっぽくて自分とは正反対の人種かと思ったけど……もしかしたらピュアな子なんだろうか……と思った。
閉まりかけの扉に半身を残したままマリーが振り返る。
「あっ、そうだ、アンタそのマリーブラッドさんってのやめなさいよ。正直キモいから。アタシのことはマリーでいいわ」
「……うん、わかった、マリー」
素直に従うと、マリーは返事のかわりにパチンとウインクして部屋を出て行った。
……同じころ、スジリエ・グラディアは学長室の中をせわしなく行き来していた。
いつもなら朝のこの時間は朝食後の紅茶、ブレックファーストティーをゆっくりと楽しむのが日課なのだが、今日はそんな気分にはなれなかった。
羞恥と喜び、怒りと憧れ、緊張と憂鬱……相反する様々な感情が生まれ、反発しあい、時には融和し、少女の内にグチャグチャと渦巻いていた。
どんな時でも取り乱さず、落ち着き、大局を見つめ、熟考し、判断を下す……。
それが少女のモットーであり、またそれを守り続けてきた。
生まれて初めて沸き起こったこの感情は、何と呼ぶべきなのか……。
いや、それよりも、その感情は自分が守り続けてきたものを、全て吹き飛ばそうとしている……!
「ヒロシ様……」
その名前をつぶやくだけで、さらに心はかき乱される。
その顔を思い出すだけで自分が自分でなくなるとわかっているのに、頭からこびりついて離れない。
……昨日わたくしはヒロシ様によって力ずくで服を剥ぎとられ、大勢の人前で生まれたままの姿をあますところなく見られてしまった……。
しかもその直前……ヒロシ様はわたくしの最大級の攻撃魔法をあっさりとかわし、素振りのようなひと太刀だけで三重のマジックシールドを破り、服を切り裂いた。
わたくしの魔法など、子供の遊びだといわんばかりの扱い。
きっと怒りで我を忘れたわたくしに対しての、ヒロシ様からの制裁……。
それが意味するものは、ヒロシ様はすでにわたくしのことを所有物だとみなしているということ。
主人であるオレの許可なしに、怒りを露わにすることは許さない。オマエの全ての感情はオレのものだ……というヒロシ様からの無言のメッセージ。
それに気づかなかったわたくしは裸にされるだけでは済まされず、さらなる罰をヒロシ様から与えられた。
皆の前で吊るし上げられ晒し者にされるという、女にとって最大級の恥辱を……!
指導者である立場をも踏みにじる、かつてない残杯冷羹を……!
ヒロシ様の前ではどんな立場の女でも、一匹の雌でしかないというの……!?
なんという横暴、暴虐、亭主関白……!!
しかし……わたくしは同時に身体が焦がされるほどの歓びを感じてしまった。
いくら気のせいだと思っても、だんだん大きくなっていくこの気持は隠しきれない。
ヒロシ様の静かで激しい征服を受け……わたくしの心はすっかり占領されてしまった。
恥ずかしい……恥ずかしいのに……嬉しい……。
嬉しい……嬉しいはずなのに……くやしい……。
わたくしの心はすでにヒロシ様のものなに、なぜ……従者の証であるアザが腕に浮かんでこないの?
マリーさんの腕にはハッキリと存在する証が、わたくしには与えられない……。
もしかして腕以外の所に証が浮かんでいるのかと今朝の入浴で鏡を使って身体のすみずみまで調べてみた。
自分でも初めて見るような秘匿すべき場所も確認してみたけれど……『ヒロシ命』のアザはどこにもなかった。
なぜ……なぜなの……わたくしは生まれて初めて他人に嫉妬します。
マリーさん……あなたはとっても素敵な人です……だけど……だけど……今のわたくしは……いつもの笑顔であなたと話せそうにありません……。
不意に割り込んだ強めのノックによって、スジリエのモノローグは中断させられた。
「校長? 校長? いないの?」
扉の向こうから呼びかけられる。
「は、はいっ!?」
ハッと我にかえるスジリエ。
「校長、マリーよ。新入生を連れてきたわ」
その一言に……いたいけな少女の身体はこわばった。




