ゼニスの過去
久々に吸血鬼に会った。しかし、この空腹時にはむしろ迷惑だ。初めから吸血鬼だとわかっていれば、あんなに無駄に歩かされずに済んだものを─。この疲労感と脱力感が私の夕食だと思うと不気味なほど愉快に思えた。
家に帰り、赤ワインの口を開けた。今夜はいくらでも飲める気がした。
ボトルの半分を飲み干し、何かつまみがほしくなった。景色がぐるぐる回る。少々飲みすぎたかと思うが、やめる気はさらさらない。壁をつたうようにして歩いているとかけてあった鏡を落としてしまった。
この古びた鏡は見た目よりは頑丈らしい。ひび一つ入らない。元に戻そうとしてかがんだとき、鏡に自分が映り込んだ。ああ、なんてことだろう…。これでは40代に見えてしまうではないか。一週間ほど血を飲まずにいると、すぐこれだ。血を飲まなければペストに感染した26歳の姿を保てない。
あれはおよそ700年前のことだ。ヨーロッパ全域にペストが広まった。私が住んでいたワラキアも決して例外ではない。
ペストに感染したとき、意識が朦朧としていた。そんな私の前に、私が幼い頃に亡くした母が現れた。亡くなったときと全く変わらぬ若さと美しさで─。そして、私自身も母を亡くした頃の年齢だった。普通に考えればおかしな話だが、その時の私の中には「疑う」という概念などなかった。母が口を開いた。
「ゼニス、あなたにお願いがあるの」
「うん。お母様のお願いなら何でも聞くよ」
母は嬉しそうに微笑んだ。そして、一枚の上等そうな羊皮紙とペンとインクを取り出した。びっしりと文字が書かれていた。そして、母はその紙の下の空いた部分を示して言った。
「この前、あなたに名前の書き方を教えてあげたでしょう。ここに書いてみて」
私は少しためらった。真っ白な羊皮紙だったなら、夢中で名前を書いただろう。しかし、まだ自分では読めない黒々とした美しい文字が書かれている紙に自分の文字を書くのは、それを汚してしまう気がした。
「ゼニス、どうしたの?書いてみなさいよ」
「この文字は?」
「何にも気にしなくていいのよ。ただ、あなたの文字が見たいの」
私はペンにインクをつけた。このままためらっていれば、母を困らせてしまう気がした。
名前を書いていると、母が後ろから腕を回してきた。
「私の可愛い子、お願いだから生きてね」
母の涙が私の髪を濡らした。
「生きていて。ずっと、ずっと…そう、何十年も、何百年も…」
私は名前を書き終えた。
その瞬間、私は26歳の自分に戻っていた。そして、恐ろしいものが目に飛び込んできた。あの羊皮紙は契約書だったのだ。悪魔との契約書──。
目の前が真っ黒になり、自分がものすごい速さで進んでいるような感覚に陥った。そして、ずっと悪魔の声が頭で響いていた。
「我々は魂を置く肉体が必要だ。お前はそれを準備しろ。何、そんなに難しいことではない。お前はそれを自然にやってのけれるだろう。空腹に耐えきれず人間の血を貪るはずさ」
私の目の前に小さな白い光が見え始め、それがだんだん近づいてきた。光がどんどん大きくなり、目の前が真っ白になったとき、
「ごめんなさい、ゼニス…」
と、母の声が耳元で聞こえた。
私は意識を取り戻したが、もはや人間ではなかった。
母は自分が長く生きられなかったから、どんな手を使ってでも私をこの世に残したかったのかもしれない…。
昔のことを思い出すと、胸が張り裂けそうだった。私は急いでテーブルの前に戻り、グラスにワインをたした。
三本目の栓をはずした記憶を残して暗闇に沈んだ。