老婆再び
フレツェリックが台所でお湯を沸かしていると、ドアを叩く音がした。ゼニスの元を訪れる人などどこにいるだろうか──。フレツェリックはまずい事態に違いないと思い、窓から通りを確認した。ゼニスの屋敷の門の前に一人の馬に乗った若い警官ともう一人が乗ってきたであろう馬がいた。
フレツェリックは包丁を隠し持って玄関を開けた。そこには、ひげをたくわえた太った警官と背中が折れ曲がった老婆がいた。老婆は甲高い声で「人殺し!人殺し!」とわめいている。フレツェリックはなるべく老婆を気にしないようにして言った。
「こんにちは。一体どのようなご用件でして?」
「こちらのご婦人がどうしてもここの住人が例の失踪事件の犯人だと言っておりましてな…。少しお話を伺いたい」
そして、警官は小声でささやいた。
「まあ、こいつは街中で狂人だと言われているから、我々もお宅を疑ってるわけではないんだ」
老婆はフレツェリックの手を指差し「神に焼かれた!悪魔!」などと言い出した。
「おいおい、何の騒ぎだ?」
ゼニスが二階からガウン姿のまま降りてきた。警官を見たとき、ゼニスは一瞬顔を強張らせたが作り笑いをし、軽く挨拶をした。
警官は軽く咳払いをして始めた。
「さて、最近の事件は4日前に起きた。今回は失踪ではなく、殺人事件だ。場所は市場近くの路地裏だ。その時、だんなはどこにいた?」
「私は家の中にいた。この斑点が見えるだろう?具合が悪った」
ゼニスは悠々と答えた。
「いやぁ、だんな、申し訳ないね。そりゃあ、出かけられるわけねえな。では、さらに一つ前の事件について…」
警官が次の話に移ろうとしたとき、老婆は片手で警官の腕を掴み、もう片方の手の指でフレツェリックを差し、「人殺し!こいつが殺った!」と、目を見開いて叫んだ。
警官はうっとうしそうに老婆の手を振りほどき、「こんな子供に人殺しなんてできるわけないでしょう」となだめた。しかし、老婆は聞かなかった。
「早く捕まえて!悲劇が…、悲劇が!」
老婆の形相はだんだん恐ろしくなっていき、むしろゼニスやフレツェリックのほうが人間らしかった。
「ばあさん、落ち着いてください。あのだんなは具合が悪くて家にいた。坊ちゃんは人を殺せるような年齢じゃない。4日前の事件の犯人は別の輩だ」
警官は何とか老婆に説明したが、老婆は警官にすがりついて狂ったように訴えた。
「悪夢が始まる!世界が悪の手に!」
「4日前に関してはアリバイがある。ばあさん、次の話題に…ちょ、おいっ!」
老婆はフレツェリックに飛びかかってきた。全く予想をしていなかったため、よろけて壁のトト神の絵に背中で触れてしまった。背中がじーんと熱くなった。警官が慌てて老婆を引きはがしてくれたが、まずいことに隠し持っていた包丁を落としてしまった。
警官が拳銃を構えたのとフレツェリックが包丁に手をかけたのは、同時だった。この状況は誰がどう見ても警官のほうが優勢だった。
「さあ、大人しく手を上げろ!」
フレツェリックは包丁に手をかけたまま動かなかった。
「聞こえなかったのか!?手を上げろと言っているんだ!」
警官はもう一度言った。老婆は心なしか嬉しそうにしていた。ゼニスはフレツェリックに警官に従うよう目で訴えたが、フレツェリックは無視した。警官をにらむように見上げていた。
「これが最後だ!手を上げろ!さもないと…」
バンッ──。
銃声が響いた。しかし、こめかみから血を流し倒れたのは警官だった。老婆が悲鳴を挙げた。
ゼニスが階段を見上げると、クレタスが拳銃を持って立っていた。
老婆は「人殺し!お巡りさん!」と叫び外へ出ようとした。フレツェリックは急いで包丁を掴み、老婆の首を切り裂いた。動脈が切れ、血は天井まで飛び散った。
「もう一人、外にいた!すぐに駆けつけてくる!隠れて」
フレツェリックはそう言うと、倒れた警官のそばに落ちている拳銃を持ち、玄関の扉の横にぴったりとはりついた。ゼニスは近くの応接室に身を潜めた。
まもなく、表で待機していた若い警官が拳銃を構えて入ってきた。彼は2つの死体と血のしたたり落ちる天井に呆然となった。
「さよなら」
フレツェリックの弾はきれいに警官の脳天を撃ち抜いた。