疑い
翌日、フレツェリックは昨日の父娘の調理を始めた。台所はゼニスの家のほうがよっぽど使いやすかったが──フレツェリックの家はしばらくは空き家だった──、生肉をうろうろ持ち歩く気にはならない。一つは、痛んでしまう恐れがあることだ。特に昨日のゼニスの様子だと、とても体が丈夫とは言えない。変なものを食べさせると面倒なことになる。二つ目は、失踪事件が多く、いつ警察に合うかわからないからだ。手荷物を確認されることはなくとも、こんな時間にに生肉を持って出かけているのは奇妙だ。
肉の調理が終わり、ゼニスの家に着いたのは10時頃だった。驚いたことに、ゼニスはまだ眠っていた。細面の顔には赤い斑点が広がっていた。フレツェリックは一瞬彼を起こそうか迷ったが、昨日からずっと眠り続けているようなので、軽く肩をたたいた。ゼニスは少しうなり、まるで子供の用に迷惑そうに体をよじって背を向けてしまった。
「おいおい、もう昼近いんだぜ?それに昨日、猫の血を飲んだだけだろ?」
返事はなかった。
「具合悪いかもしれないが、寝すぎも体に良くないぜ──」
「わかった、起きればいいんだろ!?」
ゼニスは怒鳴りながら上体を起こした。
「で、何の用だ?」
ゼニスはぶっきらぼうに答えた。フレツェリックはゼニスの言動が子供じみていて思わず吹き出しそうになったがこらえた。
「血と肉を持ってきた。ちゃんと人間のものだし、昨日のようなことにはならないだろうよ」
ゼニスはしばらく人間の血を飲んでいなかった。だから、ここで人間の血にありつけることはとてもありがたかった──肉は今までに食べたこともないし、食べたいとも思わないが──。しかし、ゼニスは無表情で何もない壁を見つめていた。
しばらく沈黙が続いた。
聞こえるのは風が窓をかたかた揺らす音だけだ。
突然、ぐるぐると猫が喉を鳴らすような音が聞こえた。ゼニスからだった。どんなに平然を装っても胃袋は正直だ。
「空腹なんだろ?」
フレツェリックは遠慮なく血が入った瓶と肉をゼニスに押し付けた。しかし、昨日の猫シチューのこともあり、彼は疑り深かった。
「まず、お前が飲め。毒が入っているかもしれないからな」
ゼニスは瓶を突き返した。
「全く少しは信用してもらいたいね。君を殺す気なら昨日さっさと見捨ててただろうし、寝ている隙に喉を掻っ切ることだってできたんだぜ?」
そう言ってフレツェリックは血をぐいっと一口飲んだ。
ゼニスは未だ疑っているようだったが、瓶を受け取った。その時、フレツェリックの指に包帯が巻かれているのに気づいた。しかも、ほとんどの指に包帯があるのだ。
ゼニスは奇妙に思ったものの、瓶に口をつけた。とろりとした甘いような、しょっぱいような液体が喉を流れ、心地良かった。彼は血を飲むたびにさらに若返り、20代半ばほどの見た目となった。
「君、いくつで吸血鬼になったんだ?」
「26だ…」
「じゃあ、これ以上若返ることはないってわけだ」
「ああ、そうだな」
ゼニスは少し不快そうに答えた。フレツェリックは無意識だが、皮肉ったようなしゃべり方をする。
再び沈黙が起こった。
フレツェリックはゼニスの部屋の物を眺めていた。あの棚の他にアヌビス神の絵、エジプト神話集があった。いずれも彼にとって都合の悪い物ばかりだ。心なしか指の火傷がひりひりと痛み、頭痛もし始めた。
「お前、その指はどうしたんだ?」
突如ゼニスがフレツェリックに尋ねた。
「ちょっと手を挟んだんだ」
「何に?」
「扉だよ」
我ながら下手すぎる言い訳だと思った。両手の指を挟むのは不自然きわまりない。
数十年ぶりに焦りを感じた。頭蓋骨の中で脳がふつふつと煮えるようで、全く頭が働かない。口を開くだけ墓穴を掘ると考え、ゼニスを無視するように彼がサイドテーブルに置いた瓶を片付けようとした。
その時、ゼニスの指がフレツェリックの包帯の端を捕まえ、引き剥がした。
フレツェリックの指は赤黒くただれ、水膨れができ、軟膏でてかてか光っていた。
彼はこの手の火傷は十字架をはじめとする神の力によるものだと知っていた。そして、フレツェリックが平然と握っていたことを考えると、彼の出身も容易に想像がついた。この部屋にある宗教的なものは古代エジプトの骨董品しかない。
フレツェリックはゼニスを睨みつけ、包帯を奪い返し指に巻き直した。
「それで、お前は誰の差し金だ?」
「どういうことだ?僕は自分で来た」
「古代エジプト出身の吸血鬼が好き好んでこんな家にやって来るか?」
「それを言うなら、お前だってヨーロッパに住んでいるじゃないか」
フレツェリックは反論した。彼の目には怒りの色がうかがえた。
「まあ、落ち着いて話そうではないか。この狭い空間で2人の吸血鬼が生存しているなど、なかなか珍しいぞ。ほら、その椅子にでも座るがいい」
フレツェリックはゼニスに目を合わせたまま用心深くサイドテーブルの傍の椅子に座り腕を組んだ。
ゼニスは口を開いた。
「お前は探偵か何かに雇われたんだろう?そして、私の口から何か聞き出さねばならない。そのために私に食料を届け、生かしている。違うか?」
「違う」
「たとえそうであったとしても否定するのが普通だな。しかし、その探偵もたいそう頭が切れる輩だ。普通の人間を送り込んだところで犠牲者が増えるだけだった」
「だから違うと言ってるじゃないか」
フレツェリックは声を荒げた。
「違うの一言でこの私がころっと信じるとでも!?私は馬鹿ではない。ただで食料が運ばれてくるような都合の良い状況が舞い込むはずがない!」
ゼニスは身を乗り出して怒鳴った。彼の黄味がかった緑の目は据わっていた。
フレツェリックは激昂した相手を目の前にして帰って冷静さを取り戻し、黙ってゼニスを見つめていた。
ゼニスはフレツェリックがもう一言でも「違う」と言えば、胸ぐらを掴んでぶん殴ってやるつもりだったが、その態度に拍子抜けしてしまった。
振りかざした拳をどこへやるか分からずにいるとフレツェリックが口を開いた。
「言いたいことはそれで全てかい?」
ゼニスは口を真一文字に結び、目を逸らした。
「昨日も言ったかもしれないが、僕はもう2000年以上生きている。最初の数百年こそ君のように人目を避けてドブネズミのように暮らしていたが、だんだん人間との付き合いもわかり、そこそこ溶け込んでいた。だが、僕は歳を取らない。君と違い血を飲まないことで歳を取ることすらないんだ」
「それでお前は何が言いたい?血を飲まずとも歳を取らないことに何の問題もないではないか」
ゼニスは眉間にしわを寄せて言った。
「人間ってやつはすぐ歳を取って死んでしまうんだ。せっかく面白くなってきたところで、いつもすぐ終わりを迎えてしまう。結局は何も残らないし、何百年もほぼ同じことの繰り返しさ。この引き伸ばされた人生に物足りなさを感じるのはある程度仕方のないことかもしれない。でも、新しい何かを求めているんだ。味気ないスープに異国のスパイスを加えるようにね」
フレツェリックは自分自身がこんなにぺらぺらと話していることに驚き、やや可笑しくなった。人間だった頃はむしろ内向的で自分の思ったことを他人に漏らすことなどなかった。家族でさえ彼が何を考えているのか知るのは難しかったほどだ。
ゼニスは笑っているフレツェリックを仏頂面で見守っていた。
フレツェリックは大きく息をついて再び口を開いた。
「君は食料さえ満足にあれば死ぬことはないだろ?これで課題の一つは解決したに等しいな」
そして、彼はさっと椅子から立ち上がった。
「待て。私には全く意味がわからないぞ」
ゼニスの声はだいぶ落ち着いていたが、表情は困惑していた。
「さあ、神のみぞ知る──もしかしたら、誰も知らないかも…」
フレツェリックは部屋を出ようとしたが、思い出したように立ち止まり、振り返った。
「君は病気だ。顔に赤い斑点が出ている。昨晩より広がっているしね。できるだけ安静にしてろよ。」
そう言うと、くるりと向きを変えて歩き去った。