Zenith 1
アイルランドは今夜も霧に包まれている。まあ、私にはまったく好都合だが。こういう夜は殺人であれ、窃盗であれ、犯人は特定されにくい。善人であれ、悪人であれ、霧に紛れればただの影である。
私は食事のために、街を出歩いているが、なかなか人に出くわさない。人の失踪が騒がれ始めたのだろうか。そろそろ去り時か。しかし、今夜食事をしなければ、引っ越しの準備を行う気も起きない。
諦めかけた時に人影が見えた。とぼとぼ歩く女性。そして、彼女はしゃがみ込んだ。貧血か?それなら、満腹感は得られなそうだが、ないよりはましだ。警戒させないよう静かに近づいた。
「どうされましたか?」
彼女は黙ったまま、口元を手でおさえている。
私は精一杯紳士を装った。今すぐにでも血をちょうだいしたかったが───。
「家までお送りしましょうか?霧も濃いですし、ご婦人の一人歩きは危険です」
すると、彼女は小さくうなづいた。そして、「家までの道は少し複雑ですの」と言って歩き出した。
彼女は疲れているのか、道を誤って戻ったりした。私はだんだん彼女から普通の人間と違う何かを感じ、不安になってきた。しかし、食欲に勝るものなど今の私にはない。
彼女は次の角を曲がると直感的に分かった。そこで仕留めてやる。最後の数歩でこの世に別れを告げるがいいさ。
ついに彼女は角を曲がった。