洋香と真紀 その2
一瞬、教室が静まり返り、後からひそひそと誰かが何か言う声が聞こえてきた。
この台詞は先生が考えたようなものだった。
「これからはほかのお友達とも遊ばせてください」
私たちは最初、本気でそう言おうとしていたのだ。だから、先生が訂正した。
「何を言ってるの。『遊ばせてください』じゃないでしょ。『遊びます』と言いなさい!」
その日を境に、私たちは真紀から解放されたが、洋香は相変わらず学校を休んでばかりいた。そしてついには真紀の方まで、学校に姿を見せなくなり、やがてまたどこかへ転校してしまった。
私は今でも時折考える。あの時私がとった行動は、あるいは先生が出した提案は、本当に正しいものだったのか。本当にクラス全員の前で言うようなことだったのか。何が善で、悪なのか。
私は当時、真紀のことを悪の化身であるかのように思っていた。彼女は私の一番の悩みの種だった。平穏無事な生活を脅かす邪魔者だった。
しかし、彼女のことを心の底から理解しようと思ったことは、おそらく一度もなかったはずだ。吉岡真紀は家庭に重大な問題を抱えていたのだ。
私がその事実を知ったのは、何年か後のことだった。彼女の家庭は隣町でも噂が立つほど深刻なものらしかった。とは言っても、単なる噂話に過ぎないので、詳しいことはよくわからない。とにかく荒れていたらしかった。
私は様々なことに対して怒りを覚えた。
真紀は一度だって私や洋香にそんな話はしなかった。なぜ話さなかったのか、話せばよかったのに。草やら砂やら他人に投げつけている暇があるのなら、私たちをあの手この手で脅す暇があったのなら、一言でも助けを求めれるべきだったのだ!
洋香が学校に来なくなってから二週間が経ったある日、私は彼女の家に電話を掛けた。担任の先生からは、彼女は『心の病気』であると聞かされていたので、なるべくそっとしておくべきだと思ったが、私はどうしても洋香本人の声が聞きたかった。
受話器の向こうから聞こえた洋香の声は、想像していたよりずっと小さく、弱々しいものだった。
彼女曰く、精神科に通っていて学校に行けなかったのだそうだ。
「心配してくれてありがとう。私、明日から学校行くね」
洋香は少しだけ笑ってそう言った。そしてその言葉通り、次の日からは学校に来るようになった。上半身に、何やら見慣れない小さな機械を付けて。
彼女が登校できるようになってからというもの、私たちはたくさんの友達とグラウンドを駆け回り、思い切りおしゃべりをした。たまに喧嘩をしてお互いに憎まれ口をたたいたり、シカトをしたり、私が一方的に責め立てられることもあったが、私にとってそれはまさしく『当たり前の日常』で、いたって正常であると思っていた。
しかし、しばらくそんな生活をしているうちに、私は洋香に対して妙な違和感を抱くようになった。
以前から多少短気なとこらが見受けられたが、明らかに何かがおかしいような気がした。彼女の性格は確実に攻撃的になりつつあった。ちょっとした事ですぐに怒り、毎日と言って良いほど執拗に私の家に電話を掛けてくるのだ。
ある時、洋香は言った。
「おばあちゃんになっても、ずっとお友達でいようね」
私は薄々気がついていた。洋香が第二の真紀になろうとしていることに。しかし何を思ったのか、私は洋香の側から離れなかった。ずっと彼女の隣にいた。
それは傷ついた洋香に対する私なりの気遣いだったのか、それとも真紀に立ち向かうことすらできなかった自分への戒めか、もしくは……誰でも構わないから、「友達」と呼べる便利な存在を自分の手元に置いておきたかったのか。
はっきりした理由は今でもわからない。とにかく私が洋香の後ろを金魚の糞のようにくっついて生活するようになったことは事実だ。
そして気がつけば私は洋香に全く口答えができなくなっていた。真紀の時の二の舞だと思っていながら、それでも馬鹿な私は何も言わずに洋香の隣にいた。そうしなければいけない気がした。
また、どういう訳か洋香は真紀とは違い、多くのクラスメイトから好かれていた。一度他人に傷つけられたためなのか、明るい性格のためなのか、彼女のことを悪く言う人間は一人もいなかった。
洋香と縁を切るということは、私にとってクラス中の人間を敵に回すようなものだったのである。
下手をすれば、自分は一人ぼっちになってしまう。私はそれが一番恐ろしかった。
集団の中でひとりぼっち。子どもにとってそれは、世界から見放されるようなものなのだ。