0..四年前の私。わたし。俺。
――私――
初めて認めてもらえたのは小学六年生の夏だった。
その日は夏休みに入って三日目で、私は夏休みの宿題に取り組んでいた。科目は一番苦手な算数。
家の二階の自分の部屋で問題と向き合う。
午前十時から始めて正午までには算数ドリルを二十ページは終わらせる予定だったけれど、その終わりが見えそうに無い。余裕を持って目標を決めたはずなのに、と焦りながら問題に集中する。
途中遊んだ覚えはないし、やる気がないわけでもない。私の部屋にはエアコンは設置されていないが、日影のおかげで妨げになるほどの暑さではない。
そのことが、単純に自分の力が足りないためだと痛感し、嫌になる。だが、それで諦める理由にはならない。
十六ページ目、大きい二番の、問い三の問題。解き進めたくても、何を書けばいいのか検討がつかない。
この算数ドリルは、二ページで一つの単元が復習出来るようになっている。左側のページには解説と基礎問題。右側のページは応用と演習問題がきれいに並んでいる。その整列具合はまるで解かれることを待っているかのようで、それが出来ない自分に悲しくなる。
どの単元でも一番の難所となるのが、大きい二番の、問い三の問題だ。これが応用の中で一番難しい。それまでの基礎問題、応用問題の二つをやっとの思いで解いたとしても、必ず立ちはだかる。
まずは問題とにらめっこ。その次は解説に出てくる例題と見比べて、似たようにして解いてみる。時間はかかるけれど大半は成功した。
だがこのページのものは凶悪で、三十分以上死闘を繰り広げるも糸口がつかめない。
「これは、もう仕方ないよね」
誰も周りのいないのに言い訳がましく呟いて、ドリルの最後のページをめくる。そこには答えがびっしり書いてある。目的の答えしか見ないように注意しながら、目を動かした。
「これが、答えか」
答えを発見すると、また元のページに戻り、その答えを隅にメモをする。
その答えにたどり着くよう、問題に与えられた数字を組み合わせてみると、簡単に解くこと出来た。
「なんだ。ココとココを勘違いしてただけだ」
安堵とそれも含めて実力の内だという思いが入れ混じり、複雑な気分でため息をつく。
そのため息を感じ取ったのか、責めるように目覚まし時計が鳴った。
「もう十二時。今回はいけると思ったのに」
目覚まし時計のアラームを止め、一階のリビングへ向かう。
先程までの自分を反省しながら階段を降りていると、ママが嬉しそうに私のことを待っているのが見えた。
「どうしたの」
「ゆうちゃん。ちょっと文化会館行かない?」
ママはもう化粧も済んでいて、行く準備は出来ているようだ。
「うん。わかった」
乗り気はしなかった。自分にとって嫌なものを見るのは簡単に予想出来ていたからだ。だが、ママに嬉しそうな顔をされると断れない。
市民文化会館の二階は作品展示スペースとなっている。そこを借りて個展が開かれることもあるが、大抵は市で募集した学生の書道や絵画、作文の展示に使われる。
「で、今回は誰の?」
ママは知り合いの子供の作品が展示されたり、演奏会や発表会をしたりするだけで見に行こうとする。自分に少しでも繋がりがあれば誰であろうとそうするのだ。当事者達より熱心ではないかと思うほどだ。
「誰でしょう? 到着してのお楽しみね」
ママはいたずらっぽく笑う。まるで子供みたい。
「そう。わかった」
答えながら玄関へ向かう。そしてお気に入りのサンダルを履いて家を出た。流行に乗るでもなく、逆行するでもないただの履きなれたサンダル。流行に流されるよりお履き心地がいいものが私は好きだ。
「……あつい」
顔をしかめ、空を睨みつける。夏が暑い季節だとは知っているが、ああそうですかと納得して引き下がることは無理だ。睨むくらいはしてもいいはずだ。
「本当にあついわね。車、もう冷房つけてるから早くいきましょ」
小走りで車へ乗り込む彼女に私も倣い、助手席に乗る。ママの車は新しいモデルのピンクの軽自動車だ。ママには似合っているが、成長しても私には似合わないだろうし、乗りたいとも思わない。
「ゆうちゃん、服はそのままでいいの?」
エアコンという発明の素晴らしさを体感していると、ママがこちらを見て訊ねてきた。
「いいよ。別にこの姿でも恥ずかしくは無いし」
「それならいいわ」
ママは前を向いて、車を発進させる。
自分の服装に目をやる。黒の半袖シャツに、白のパンツというシンプルな格好。思春期の女子としては駄目な服装なのだろうが、私には気にならない。正確に言うならば、それ以上に気にしていることが上回っている。
私はダメ子だ。
これは主観であり、客観でもあり、事実だ。
いい子とは正反対に位置する、ダメ子。
ダメ子は何をしても駄目だ。勉強をするにしても、運動するにしても、人との付き合いにしても、やることなすこと裏目にでてしまう。
いいことなんてひとつも見つからない。
人に大事なものは外見ではなく中身だ、なんて言葉をよく耳にする。それを聞くたびに私は訊ねたくなる。中身より大事なものはないのかと、中身がよくなければどうすればいいのかと。
外にも内にも、私には何も無いのだ。
しかし、だからこそ、出来ることもある。
何も無いから、失うものも何も無い。
だから何に対しても、真面目に、真剣に、本気で、心を裸にして、素の自分でぶつかることが出来る。
それは少し誇らしい部分ではあるけれど、これも結局ダメ子の一部だ。これで頑張ったとしても、何一つ得られたものなんて無い。
現に、市の主催するもので応募できるものは全て挑戦してはいるが、どれも展示されたことはない。
「着いたわよ」
ママの声に、顔をあげる。
「あれ、もう?」
すでに文化会館専用の駐車場、それも会館の入り口に近いところに駐車してあった。
「もう、って十分もかからないんだから当然よ。ほら行くわよ」
「うん」
助手席から降り、文化会館に視線をやる。
百年の歴史のある建物だと聞いているが、補修工事や施設増設のおかげであまり古めかしい印象は受けない。緑色の丸みを帯びた屋根に、白色の壁をしている。
「で、今日は誰の展示を見に来たの?」
自動ドアをくぐり、展示スペースのある二階へ足を運ぶ。館内はしっかりと冷房が効いていて、少し強すぎないかと思ってしまった。
「館内ではお静かにー」
歌うように言って、私を静かにさせる。
階段を上りながら、誰だろう、と考えた。
ここまで喜んでいるのだから、従妹か親友の子供か、どちらかだろう。
展示スペースに着き、ママは私を手招きしながら作文の区画へ歩いていった。歩くというよりは、スキップに近いかもしれないけれど。
並べて置かれている作文をアレも違うコレも違うと呟きながら作品を見て回っている。
「はますな……、あっ! これ……じゃなくて、こっちだわ!」
姓からして従妹のほうかと考え、従妹らの顔が頭を過ぎる。
「危うく隣のものをとるところだったわ」
ママは置いてあった作文を手に取り、「ほら」と私に手渡した。そして、表紙のある部分を指で軽く叩いた。
そこには名前が記されていた。漢字で四文字。
浜砂裕子。
「あ」
私の名前が、ある。
そう口に出そうとしても、金魚のように口を開いたり閉じたりすることしか出来ない。
名前の横に視線を移す。
私の書いた文章が、文字が、ある。
私の思いのたけを、私のありのままをぶつけた、言葉達。
認めてもらえた。
「あ、あ」
佳作、銀賞、金賞、どれだっていい。
認めてもらえたという事実だけで充分だ。
「はは」
あつい。館内には冷房が利いているはずなのに、体が熱い。そして、目の辺りも熱くなった気がする。
「やった」
このままで良かったんだ。
真面目に頑張っていれば、必ず報われる日がくるんだ。
諦めなければ、必ず努力は報われる。
私は自分の信じた道をただまっすぐ進めばいいんだ。
――わたし――
わたしはいい子だった。
意識なんてしたことはなかったけれど、いい子ではなくなった今ではそうだったのだと判る。
しかし、周りからは変わらずいい子として扱われている。それは当然だ。
わたしはいい子を演じ続けているからだ。
こんな風に演じるようになったことにはわけがある。しかし物事には必ず理由があるというだけで、特に劇的な事件が起きたということではない。
それは、どこにでもある学校の休み時間の出来事だ。
いつも一緒に行動するメンバーで雑談していた。けれど、その中の一人が休んでいた。
誰が言い始めたのか、いつの間にかその子の悪口大会になっていた。わたしは訳がわからず相槌だけを打つ。
翌日、その子が登校すると、皆昨日のことがなかったように普段どおりに接していた。そして、代わるように別の子が休み、同じようなことが起きた。
常に互いに嘘を付き合い、平然と日々を過ごしている。何が本当で、何が嘘なんだろうか。
頭がおかしくなりそうだった。
翌々日、わたしが休んだ。
どうしても学校に行きたかったけれど、お母さんに止められた。無理したら体調が悪化して皆と会えなくなる時間が長くなるよ、と。
私はお母さんに抗議した。
それじゃ駄目なの。
一日の休みで取り返しがつかなくなるの。
しかし、わたしの言葉は駄々にしか聞こえなったのか、聞き流されるだけで終わった。
大人にとって子供の世界は小さくて単純なものなのだ。
自分は子供を経験してきたから、子供の気持ちはわかっている。大人になって振り替えてみたら単純すぎて、何であんなことで悩んでいたのだろうと笑えてしまう。
そうやって子供の世界を軽んじる。
けど、わたしたち子供は大人の世界なんて知らない。
目の前に広がる世界が全てで、逃げる世界なんてないのだ。
だから、わたしは悶え苦しんだ末に、仮面を被ることを決意した。
前と性格が変わらないような仮面を被り、本音を隠し、護る。もう一人の新しい自分を演じるのだ。いくら陰口を叩かれようとも、叩かれるのは仮面のわたしだ。本当のわたしが傷つくことはない。
そう、それでいいんだ。
わたしは傷つきたくは無い。
けれど、小六の夏の頃、ある文章に出会った。
自分の作文が展示されているという話を聞き、文化会館の二階に足を運んだ。
そのとき、自分の隣に展示されている作文に出会う。
私と同姓同名の人が、書いた作文。
文法は破綻しているわけではなかったが、整っているとは言いがたい。それでも、この作品が選ばれた理由はすぐに判った。
嘘をついていない。
飾った言葉なんてなく、その人の想いをそのまま文章にしました、という感じだった。
正直な人だな。
この人は、真正面から向き合っている。わたしのように仮面なんて被ってこそこそせず、自分をありのままに出している。
こんな人に、なりたいな。
素直にそう思えた。
自分も何かに打ち込めば、変わることが出来るんじゃないか。
この人みたいになれるんじゃないだろうか。
ありのままを曝け出せば皆に受け入れてもらえるなんて都合のいい話はないだろう。
けれど、みんなには認めてもらえることはなくても、誰かには認めてもらえる。この人みたいに。それで十分なんじゃないか。
「頑張って、みようかな」
すぐには無理だろうけど、少しずつ少しずつ。
わたしがわたしらしく、自然に振舞えるように。
――俺――
「走るなよー、怪我するぞ。ったく」
はしゃぐ妹の後姿を見て頭を掻いた。だるそうなふりをしているつもりだが、表情は押さえられず、口元がゆるんでいるのがわかる。
妹の描いた絵がこの文化会館に展示されているとの知らせを受け、妹に連れられる形でやってきていた。例え妹が拒否したとしてもばれないように見にきていただろう。
その溺愛具合、兄バカは自覚しているが、妹に知られるわけにはいかない。バレたら妹に執着するかっこわるい兄になってしまうからだ。妹が自慢できる兄になるためには尊厳は保っておかなければならない。
そのため逸る気持ちを抑え、他の作品に目をやって気を紛らわしながら妹のほうへと足を進めた。
「あれ」
ある作品の紹介表記に目が留まり、足を止める。
「同じ名前?」
二つ並んだ作品の氏名には全く同じ漢字が並んでいた。一人の人が二つ書いてそれがどちらも受賞したのかとも思い、近寄って手に取って読み比べてみる。
「両極端、だな」
二つの作文を読み比べて、息をついた。
多重人格でない限り、同一人物ではない。それほどに二つのものは異なっていた。字体や字の癖を無視しても全く違っていた。
一人はむき出しの作品だった。文章に収められているものの、熱い傷ついた想いが感じ取れる。泥臭く不恰好だが、人を勇気づける前向きさがあった。
もう一人の作品は、好きになれそうに無かった。
書いたのは「ふつう」の女の子だ。一般的で、当たり前にどこにでもいるとされる何の特徴もない歳相応の女の子だ。そんな人間はどこにでもいそうであるけれど、実際はいやしない。彼女はその姿を身に纏い、周りからそう見えるように振舞っている。それが感じ取れた。
大人の視線からみたらきっと理想的に見えるだろうが、目線が近い子供の俺にとっては中の人の姿がちらつき見える。どんな想いで装っているのかはわからないが、理由がどうであれ好きにはなれない。
「適度であればいいんだけどな」
何様のつもりだと自分でツッコミをいれるが、素直な感想だった。
二つの作品を交互に見下ろして、ため息をつく。
「足して二で割ったらいい具合になりそうなんだが、人はそう簡単にいかないか」
「おにいちゃーん! なにしてるのー! こっちこっちーこっちだよー」
妹の呼ぶ声に反応し、顔を向ける。可愛らしく飛び跳ね、壁を指差している。あそこに妹の絵が飾られているのだろう。
「悪い、今行く」
妹の満面の笑みのほうへ引っ張られるように足を運ぶ。
あの二人が出会ったら面白そうだな、なんて空想に想いをはせながら。
「ブレイク」いかがでしたでしょうか。
評価、感想等いただけたら嬉しいです。
長くなるといけませんので、あとがき詳細は後日活動報告として載せます。
ご愛読ありがとうございました。
また他の作品で出会えることを願いつつ。それでは。




