第九十一話「芽吹き、そっと近づく季節」
冬の冷たさが少しずつ和らいできた。透の通う学校の庭の木々は、まだ葉をつけてはいないものの、枝先に小さな芽が膨らんでいるのが見える。
朝の空気も、つい先日まで感じていた刺すような冷たさが和らぎ、どこか柔らかくなった気がした。透は制服のボタンを掛け直しながら、ふと空を見上げる。雲の切れ間から差し込む陽光が、いつもより少し暖かかった。
「透、急がないと遅刻するよ」
隣でユイが声をかけた。ポニーテールの髪が小さく跳ねるたび、春を告げる風に乗って揺れているように見える。透は肩をすくめながら、少し歩調を速めた。
「わかってるよ」
家を出てから学校までの道も、どこか色を取り戻し始めていた。雪が解けた歩道には小さな草花が芽を出し、近所の庭には鮮やかな梅の花がほころび始めている。透はそんな景色を横目に見ながら、無意識にユイの方を見た。
彼女の横顔はいつもと変わらないのに、なぜか心が落ち着く。そんな自分に気づいて、透は少しだけ戸惑った。
教室に入ると、クラスの空気もどこか春めいていた。進級を前に、なんとなく落ち着かない雰囲気が漂っている。友人同士の会話の中にも「次はどのクラスになるかな」といった声がちらほら混じっていた。
その中で、透は自然と綾瀬の方に目をやった。彼女は数人の女子と談笑していたが、ふと視線が合うと柔らかく笑みを返してきた。屋上での会話から、もう何週間も経っている。けれど、あの時の綾瀬の言葉や表情は、透の中でまだ鮮明に残っていた。
ユイはその様子をちらりと見ただけで、特に反応を示さなかった。彼女の中の「観測」として記録されたのか、それとも――。
昼休み、透とユイ、そして綾瀬の三人で昼食を取るいつもの光景。窓の外から差し込む光は明るく、頬を撫でる風もほんのり暖かい。
「もうすぐ春休みだね」
綾瀬がぽつりと言った。
「早いもんだな」
透が答える。
ユイはそんな二人のやり取りを静かに聞いていたが、ほんの少しだけ声に力を込めた。
「春になったら、みんなでどこか出かけたいね」
その言葉に透と綾瀬が一瞬だけ顔を見合わせた。ユイは笑顔のまま、わずかに首を傾げる。
「だめ?」
「……いや、いいんじゃないか」
透は小さく笑った。
綾瀬も「賛成」と頷いたが、その笑顔の奥に隠れた感情までは、誰も気づかなかった。
窓の外では、木々がそっと芽吹く準備をしている。
春が、もうすぐそこまで来ていた。




