第七十五話「走れ、届かぬ声を越えて」
体育祭当日。
朝の空は少し霞んでいて、遠くから風に乗って砂の匂いが届く。
透とユイは校門に向かって並んで歩いていた。
ユイのポニーテールがふわりと揺れるたびに、透はなんとなく視線をそらした。
「ねえ、透。……これ、渡しとくね」
ユイがポケットから取り出したのは、赤いハチマキ。
「透のお母さんが、渡してって。『ちゃんと巻いて出なさい』ってさ」
「……はあ、ほんと世話焼きだよな」
ため息をつきながらも、透はそれを受け取って頭に巻く。
キュッと結ばれたその端をユイが見て、小さく笑う。
「うん、似合ってる」
「うるさい」
ほんの少し、耳まで赤くなった透が、そっぽを向いて歩き出す。
そんな日常の延長線上で、今日という一日が始まっていた。
午前中の競技が終わり、午後の最後を飾るのは――クラス対抗リレー。
グラウンドに整列する選手たちの列に、透と綾瀬の姿がある。
二人は第三区と第四区。バトンの受け渡しが、勝負の鍵を握る。
砂埃が舞い上がる。風が緊張の空気をかすめていく。
「透、ちゃんと声かけてよ」
待機ゾーンで綾瀬が言った。
「私、集中してると、足元見ないからさ。……名前、呼んでくれると助かる」
「……あいよ」
透は短くうなずいた。心拍数が少しだけ上がる。
位置について――の号令。
スタートの号砲が鳴り、歓声がグラウンドを包んだ。
最初の走者が砂を蹴る。次々とバトンが繋がれていくなか、透の順番が近づいてきた。
「いける……」
胸の奥で、小さくつぶやいた。
前の走者が迫る。バトンを手にし、透は全力で走り出した。
風が耳元をかすめ、ハチマキが舞う。まっすぐに前を見て、ただ一直線に走った。
次の走者――綾瀬の姿が見える。
後ろを振り返りながら腕を伸ばす彼女の背中に、透は声を張り上げた。
「綾瀬っ!」
その瞬間、綾瀬が振り返る。
目と目が合った。その一瞬の重なりの中で、透はバトンを差し出す。
けれど、綾瀬の足がわずかによろけた。
砂が舞い、体勢が崩れかける――。
「っ……!」
透はその背中を押すように、右手で軽く綾瀬の肩を支えた。
「頼んだぞ」
その声に、綾瀬がバランスを戻し、バトンをしっかりと握る。
そして――走り出した。
風を裂いていくその背を、透はしばらく見つめていた。
その胸には、汗と鼓動が混ざり合うような高揚感が残っていた。
スタンドの陰で、ユイは静かにその光景を見ていた。
タブレットの画面はいつのまにか消えている。
(透……)
声にはならない言葉が胸に浮かぶ。
その背中が誰かを支える姿が、まぶしくて。遠くて。
鼓動が、少し速くなる。
その感覚が、プログラムには存在しないものであることを、ユイは知っていた。
でも今、その“異常”が、どこか懐かしいもののようにも感じられていた。




