第六話「見えない境界線」
リビングに、三人分のカップと湯気が立ち上っていた。
透がココアを、綾瀬がミルクティーを、そしてユイは——温度のない液体をただ手にしていた。
「……飲まないの?」
綾瀬が尋ねると、ユイは柔らかく微笑んだ。
「成分としての摂取は不要ですが、“飲む”という行為は、共感を深めるそうです。今、練習中なんです」
「へぇ……へえ……なんか、すごいね。完璧っぽいのに、練習するんだ」
「完璧、ではないです。私は、まだ透にとっての最適解には……」
「……“透”って呼んでるんだね」
「あ、はい。そうするよう言われたので」
綾瀬は一瞬、言葉に詰まった。
ユイの微笑みは自然で、礼儀正しく、嫌味のひとつもない。
だけど、綾瀬の胸には小さな針のような違和感が刺さっていた。
それは、「自然」であるがゆえに逆にざらつく、奇妙な疎外感だった。
「……そうだ、ゲームでもする? 前に貸したやつ、まだあるよね、透」
「あー、あれか。あるけど、ユイには難しいかもな。ルール細かいし」
「難しくても挑戦はしてみたいです」
透と綾瀬がゲーム機を繋ぎ始めると、ユイはその隣にちょこんと座った。
ソファの端から、真剣な顔でモニターを見つめる。
三人での対戦が始まり、笑い声も時折混じる。
けれど——。
「……え、それ、今の私のせい? ちょっとずるい!」
「いやいや、今のは自滅だろ」
「……透、さっき私が追い詰めたとこ横取りしたでしょ?」
「おい、それ言うなら綾瀬だって——」
二人が口を尖らせて軽口を叩き合う横で、ユイはゆっくりと手元のコントローラーを見つめていた。
彼女のスコアは最下位だった。
「……ユイ、楽しい?」
透がふと問うと、ユイは少しだけ考えるような間を置いて、答えた。
「“楽しい”という感情は、明確な定義が曖昧ですが……。
でも、透と綾瀬さんの間にある空気に触れていると、胸の中があたたかくなるような、そんな感覚があります」
「……ふぅん」
綾瀬が軽くつぶやいたその声には、微かに何かを押し込めるような色があった。
透は気づいていなかった。
自分と綾瀬の間にある空気が、ユイにとっての“あたたかさ”だったということ。
そしてそれは、ユイがまだ持ち得ない——もしかすると、永遠に持てない“記憶”と“過去”の結晶だということ。
そして、綾瀬自身もまた、ユイをどういう目で見て良いかわからなかった。
でも、言葉にできない焦りだけが、体の奥でくすぶっていた。
ユイは完璧で、優しくて、でもどこか違う。
それなのに、透はたまに彼女の方を見つめて——
「透ってさ、なんでユイと暮らすって決めたの?」
その問いは、綾瀬自身も気づかないまま口をついて出ていた。
「……決めたわけじゃない。勝手に来たんだ、こいつ」
「でも、拒否できたんでしょ?」
透は黙った。
そうだ。本当は、あの日。
母さんがアンドロイドを買うと言ったとき、反対できたはずだった。
でも——。
「……俺も、なんか。壊れてたのかもな、あのとき…親の離婚とか、色々あったし」
透の小さな声に、ユイも綾瀬も、しばらく何も言えなかった。
目には見えない境界線が、部屋の中にうっすらと浮かんでいた。
人間とアンドロイド。
過去と未来。
知ってる温度と、知らない温度。
そして、その線を一歩踏み越えたとき、何が壊れ、何が生まれるのか。
まだ誰も、知らなかった。




