第三百二話「残された感触、夜に滲む輪郭」
玄関の扉が閉まると、外の空気が途切れて、室内の静けさがはっきりと感じられた。
いつもと同じ帰宅のはずだった。
同じ時間、同じ場所、同じ流れ。
けれど、そのどれもが微妙に噛み合っていないように感じる。
靴を脱ぎ、揃える。
その動作ひとつにも、わずかなぎこちなさが混じる。
隣にいる存在を、必要以上に意識してしまうからだ。
リビングへ向かう。
いつもなら自然に並ぶ距離が、少しだけ遠い。
近づこうとしているのか、避けているのか、自分でもわからない。
その曖昧さが、かえって意識を強くする。
さっきまで繋いでいた手。
その感触が、まだ残っている。
指先に触れた温もり。
軽く絡まった指の感覚。
離れているはずなのに、そこだけが現実より遅れているように感じられる。
透は無意識に手を開いたり閉じたりしていた。
意味のない動作だとわかっていても、やめる理由も見つからない。
記憶の中の感触を、確かめるような動きだった。
ユイもまた、自分の手に視線を落とす。
わずかに指を動かし、何かを探るように。
当然、そこには何もない。
それでも、確かに何かがあったと感じてしまう。
二人の動きは似ていた。
意識しているわけではないのに、どこかで重なっている。
ふと視線が合う。
ほんの一瞬。
すぐに逸らす。
だが、完全には逃げきれない。
同じことを考えているのではないか。
そんな予感が、自然と浮かぶ。
確かめることはしない。
確かめたら、今の状態が崩れてしまいそうだった。
リビングに入る。
見慣れたソファ、テーブル、変わらない配置。
本来なら落ち着くはずの空間が、どこか居心地の悪さを含んでいる。
この部屋は果たしてこんなに静かだっただろうか。
何かをすればいいとわかっているのに、動き出すきっかけが見つからない。
ただ時間だけが過ぎていく。
緩やかに、しかし確実に。
その間にも、意識は同じところへ戻っていく。
手の感触。
触れていた時間。
ほんの短い出来事のはずなのに、やけに鮮明に残っている。
ただ手を繋いだだけ。
それだけの行為。
それなのに、それ以上の意味を持ってしまっているように感じられる。
透は小さく息を吐く。
意識を逸らそうとしても、すぐに戻ってしまう。
ユイもまた、同じように視線を外し、そして戻す。
繰り返すたびに、わずかな戸惑いが増していく。
距離を取る。
しかし、離れすぎることもできない。
その曖昧な距離が、かえって互いの存在を際立たせる。
近くにいる。
それだけで、十分に意識してしまう。
言葉にするほどのことではない。
けれど、無視できるほど軽くもない。
そんな状態が、静かに続いていく。
やがて、二人とも同じように手を見た。
示し合わせたわけでもないのに、同じタイミングで。
そして、何も言わずに視線を逸らす。
触れていた時間は、もう終わっている。
それは確かな事実だった。
それでも、その感触だけは消えずに残っている。
消えないまま、静かに。
二人の中に残り続けていた。




