第三話「ただいまのぬくもり」
夜八時。
雨宮透は、ぼんやりとした気持ちでテレビを眺めていた。バラエティ番組の音は耳に入ってこない。
隣のキッチンでは、ユイが静かに皿を洗っている。
時計の針が音もなく進んでいく。
母親はまだ帰ってこない。
母は看護師をしている。
夜勤こそ少ないものの、帰宅時間は不規則で、夕飯を一緒に食べられる日は月に数回しかない。
それでも、家が寂しいとは思わなかった。
ずっと、そうやって生きてきたから。
ユイが来てからも、その寂しさが埋まったわけじゃない。
でも——気配があるのは、悪くない。
玄関のドアが開く音がした。
透は身を起こす。
数秒後、足音が軽く駆けてきて——
「ただいまーっ!透〜〜っ!」
バタンと音を立ててリビングの扉が開き、仕事帰りの母親が飛び込んできた。
白衣の下に着るシンプルなTシャツとデニムに、コンビニの袋を片手に持っている。
「ほらほら、ギュッさせてよ、ね? 今日もがんばったんだよ? ママえらかったんだよ?」
「……はいはい、おかえり」
抱きついてくる母の腕を、透はいつも通り軽くいなす。
でも、完全には拒まない。
慣れてるし、うざいくらいが、この人の愛情表現なのも知っている。
「今日はユイちゃん、どうだった? 仲良くできてる?」
「別に。普通」
「そっか、よかった。ユイちゃん、透のことよろしくね!」
母はくるりと振り返り、ユイに微笑みかけた。
「お帰りなさいませ、奥さま。お仕事、お疲れさまでした」
「うわ〜、本当に丁寧! ねえ透、あんたよりよっぽど礼儀正しいよ?」
「アンドロイドなんだから当たり前だろ」
そう言いながらも、透は目をそらす。
母の笑い声が、リビングに弾んだ。
母はソファに座り、靴下を脱ぎながらぽつりと呟く。
「……でもさ、こうやって“おかえり”って言ってもらえるの、久しぶりかも。あったかいね、やっぱり」
「透、最近言ってなかった?」
「いや、それは……言ってるけど……」
苦笑いを浮かべる母の横顔が、少しだけ疲れて見えた。
でも、その目はどこか安心しているようだった。
ユイが湯気の立つマグカップを運んでくる。
「ココアを淹れました。糖分と温度のバランスを考慮しています」
「わぁ、ありがとう!……ユイちゃんって、ほんとすごいね。
うちの透も、見習ってくれればいいのに〜」
「うるさいな」
透は、少しだけ照れながら呟いた。
夜は更けていく。
母がシャワーを浴び、パジャマ姿でソファに戻る頃には、透はもう宿題を終えていた。
「ユイちゃん、透に何か問題あった? わがままとか、ひねくれてたとか」
「いえ、透さまは……少し、表現が不器用なだけだと思われます」
「……うん、まさにそう!」
笑う母の声を聞きながら、透はなぜか落ち着かなかった。
不器用——
その言葉が、ユイから出たことに、どこか胸がざわつく。
母はユイの隣に座りながら、ふと表情をゆるめた。
「透を、どうかよろしくね。あの子、私よりずっと強がりだから」
「了解しました。透さまの心の状態は、継続して観察・解析を行います」
「うん……ありがとう」
母が、ユイに深く頭を下げる。
その姿に、透は妙な居心地の悪さを感じていた。
なにか、取り残されている気がした。
母とユイの間に、自分だけが立っていないような。
でも——
その夜、寝る前にユイが廊下で透に言った。
「透さまのお母さまは、透さまをとても深く愛しています。
言葉よりも、動作よりも、それが伝わってきました」
「……わかってるよ。うざいくらいにな」
「うざい、というのは“望ましくない過剰な行動”という意味ですよね。
でもそれは、逆に“足りなかった”時間の代償かもしれません」
「……お前、いつから詩人になったんだよ」
透はそう言いながら、自室のドアを閉めた。
けれどその言葉が、心の奥に何度も反響していた。
次の日の朝。
玄関を出る直前、ユイが小さく頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、透さま」
振り返らず、透は答える。
「……行ってきます」
扉の向こうの空は、昨日と同じ青だった。
けれど、風の温度が少しだけ違って感じた。
——誰かが、家で待っている。
それだけのことで、世界は少しだけ、やさしくなれるのかもしれない。




