第二話「その夕焼けに、まだ名前はない」
翌朝、透は目覚ましの音より早く目を覚ました。
眠りが浅かったのか、それとも、昨夜の記憶がまだ胸の奥でざわついていたのか。
「おはようございます、透さま」
リビングに降りると、ユイはすでにそこにいた。
姿勢よく立ち、透を待っていたらしい。
ワンピースの色が昨日とは違っている。ほんの少し明るめのグレー。
それは、よく晴れた空に似ていた。
「昨日の命令は守ったのかよ」
「はい。昨夜は『部屋に入るな』とのご指示を受けましたので、ここから一歩も動いていません」
「……そんなに真面目に守らなくても」
「命令ですから」
そう言って、ユイは表情のない笑顔を見せた。
それはどこか人工的で、でも少しだけ、あたたかく見えた。
透は息をついた。
朝食は食パンと目玉焼き。
いつもは自分で作るが、今日はすでに食卓に整っていた。
焼き加減は完璧、パンの端までバターが行き届いている。
「…何勝手に作ってるんだ?」
「申し訳ございません。ただ、昨夜のお母さまからの伝言により、『朝の支援は可能な範囲で』との許可をいただいています」
「……あっそ」
返事をしながらも、透は黙ってパンを口に運んだ。
なんでもない朝なのに、妙に騒がしい。心が。
食べている間、ユイは隣に座っていた。じっとこちらを見つめてくる。
視線を逸らすと、余計に気になる。
「見んなよ、気が散る」
「失礼しました」
そう言ってユイは、ほんのわずかに視線を下げた。
まばたきひとつしないその目が、まるで深い海の底みたいに静かだった。
透は、ごくりとパンを飲み込んだ。
登校の時間になり、透はランドセルを背負う。
玄関までついてこようとするユイに、「そこまででいい」と言った。
扉の向こうは、いつもと同じ秋の朝。
けれど、家の中には昨日までいなかった誰かが、今も立っている。
ただそれだけで、世界が少し違って見えた。
「行ってきます」
振り返らずに言うと、ユイの声がすぐに返ってきた。
「行ってらっしゃいませ、透さま」
学校では、いつも通りの一日が過ぎていった。
授業も給食も、隣の席のやつの悪ノリも、特に変わったことはなかった。
でも、透の意識はどこか遠く、リビングに立つユイの姿に引き寄せられていた。
(……ちゃんと待ってるのかな)
そう思った自分に、少しだけ驚いた。
放課後、透はいつもより少しだけ歩くのをゆっくりにして帰った。
理由は、聞かれたって答えられない。
玄関を開けると、ユイがそこにいた。
朝と同じように、まっすぐに、穏やかに。
「おかえりなさい、透さま」
「……ただいま」
それだけの会話なのに、なぜか胸が落ち着かなかった。
ユイは、透のランドセルを受け取ろうとしたが、「自分でやる」と制して、リビングへ向かった。
夕方の光がカーテン越しに入り、部屋をやわらかく染めていた。
ユイは静かにソファに腰を下ろし、窓の外を見ている。
「なに見てんの」
「夕焼けです。今日の空は、色のグラデーションがとても美しいと記録されています」
「ふーん……」
透も少し離れた場所に座り、同じ夕焼けを見た。
オレンジと紫が交ざる空。その奥に、夜がゆっくりやってくる。
「お前はさ……夕焼け、きれいって思うの?」
問いながら、自分でも変な質問だと思った。
けれど、ユイは少し間をおいて、言った。
「美しいという判定を、私は“好ましい状態”として学習しています。
でもそれが、“きれいと思う心”かは、わかりません」
「……正直だな」
「はい、設計思想として、あいまいな返答は最小限にするよう組まれています」
そうか、と透は思った。
じゃあ今の答えも、あらかじめ用意された“正しい言葉”なのかもしれない。
でも、それでもいい。
それでも、なんとなくその答えが——少しだけ透の心を揺さぶった。
その夜、透は日記を開いた。
何も書かず、しばらくじっと見つめていた。
そして、ページの隅に小さくこう書いた。
「今日、空がきれいだった。
あいつと、同じ空を見た」
字は少しゆがんでいた。けれど、そこには確かに、心の跡が残っていた。
まだ、何も始まっていない。
でも、何かが少しずつ変わっている。
そのことに、透もユイも、まだ気づいていなかった。
——夕焼けのように、ゆっくりと。