第一話「配達指定、心の奥へ」
かつて、心は人にしか宿らないものだった。
けれど技術は、優しさを模倣し、感情を演算し、そして人の形をした機械に“温もり”を与えた。
それは、便利で、精密で、壊れない愛情だった。
しかし、それは本当に「心」と呼べるものだったのだろうか。
人はアンドロイドに言葉を教え、笑顔を教え、痛みを知らない彼らに「共感」という名前のシミュレーションを植えつけた。
どれほど人に似ていても、そこには境界線があると誰もが信じていた。
——恋心だけは、コードに書きこめないと。
この物語は、そんな境界を信じていたひとりの少年と、
境界の向こうから世界を見つめていたひとりのアンドロイドが出会い、
いつか、本当に触れあうまでの、長くて静かな時間の記録である。
それはプログラムにも、マニュアルにも載っていない。
けれど確かに存在した、“誰かを想う気持ち”の物語。
君の回路に、ふれたい。
たとえそこに、答えがなくても——。
アンドロイドが人間のように歩き、話し、働くこの街で、雨宮透はそれを特別だと思わない。
あまりにも当たり前すぎて、むしろ目をそらすようにしていた。
通学路の文房具屋には、愛想よくレジを打つ接客用アンドロイド。
学校では、冷たく静かに床を磨く清掃ユニットがすれ違っていく。
誰もが彼らに対して「ありがとう」と言うけれど、そこに感情はない。
それが“普通”で、“正しい距離感”だった。
——けれど。
「なあ、雨宮。お前んち、ほんとに買ったの? 感情支援モデルってやつ」
数日前、透が通う小学校の教室の隅でクラスメイトにそう訊かれたとき、透は返事をしなかった。
ただ、気まずそうに笑ってごまかした。
母がそういうものを申し込んでいたことは、知っていた。
でも、正直どこかで「本気じゃない」と思っていた。
それが今——。
秋の夕暮れ、透は家の前で立ち止まっていた。
白い配送ボックスが、玄関の横に静かに置かれている。背丈は自分より少し高く、無骨な見た目が目を引いた。
——感情支援型アンドロイド。
その言葉に、透の心はざわざわと揺れた。
「支援」が必要なほど、自分は弱く見えているのか。
そんなものを買ってまで、母さんは何を守ろうとしてるんだ。
透は、唇を噛みしめた。
玄関を開け、誰もいない家に入る。
母は仕事で遅くなる。いつものことだ。
夕飯の匂いもない。代わりに、配送ボックスの存在感がやけに重くのしかかる。
透はリビングのソファに座り、足元のラグを指先でなぞった。
心が、落ち着かない。
「……起動だけでも、しておいた方がいいよな」
誰に聞かせるでもない独り言。
けれど、それが自分に言い聞かせていることだと気づいていた。
ケースの横に差し込まれていた操作端末には、初期起動の手順が表示されている。
「手順通りに起動を行ってください」と、無機質な文字が淡々と並ぶ。
透は深呼吸してから、指先で最後のボタンを押した。
「起動します。初期プロトコル確認中——」
電子音と共に、配送ケースが音を立てて開いた。
中から現れたのは、自分と同じくらいの背丈の女の子だった。
すらりとしたシルエット。透き通るような真っ白のワンピースに、揃えられた白いスニーカー。
長めの前髪が少しだけ目にかかっていて、それを何度か瞬きすることで整えていた。
その顔つきは、どこか大人びているのに、まだあどけなさが残っている。
透と同じ——高学年の子どもだ。だけど、無駄のない動きやたたずまいに、彼女が人間ではないことを突きつけられる。
「こんにちは。わたしは、ユイ。これから、あなたの“心の支援”を担当します」
その声には抑揚がある。けれど、それが本当の感情なのかはわからなかった。
わずかに柔らかい目元と、機械的な正確さの入り混じった言葉。それが、不思議と透の胸をざわつかせる。
透は、ひとつ息をのんだ。
「……機械のくせに、そうやって喋るなよ」
「わたしの発話パターンに不備がありましたか?」
「そうじゃない。……そういう問題じゃないんだよ」
何が言いたいのか、自分でもうまく言葉にならない。
ただ、そこに立っている彼女を見ていると、自分の心が掴まれていくような気がして、それが怖かった。
「……俺の部屋には来んなよ」
「了解しました」
ユイはそれだけを言い、静かに立ち尽くしていた。
彼女の目は、どこまでも澄んでいて、透のことをただ見ていた。
その視線に、何も答えられなかった。
透は自分の部屋に入ると、すぐにドアを閉めた。
ベッドに倒れこみ、天井を見つめる。
心がうるさくて仕方ないのに、言葉にはならない。
あいつ——ユイは、なんであんな目をしてたんだろう。
ただの機械のはずなのに、人間みたいな……いや、人間以上にまっすぐな目だった。
まるで、透のなかにある何かを、ちゃんと見ようとしていた。
それがひどく怖くて、でも、どこかで少しだけ——救いのように感じた。
——侵食されてる。けど、やさしく、静かに。
透はそう思いながら、ゆっくりと目を閉じた。
その夜、風の音が遠くで鳴っていた。
ユイはまだ、リビングに立っているだろうか。
背筋を伸ばして、透のことを待っているのだろうか。
それを想像したとき、胸の奥が、ふとむずがゆくなった。
それが何の感情なのか、透はまだ知らない。
けれど確かに、その日、心のどこかが——少しだけ動いた気がした。