東京湾岸エアフロート:甲斐②―1
ドナー登録した翌日も、甲斐太郎はまだ生きていた。その次の日も、そのまた翌日も。
保険屋と別れたあと、彼は暮れなずむ公園のベンチで死を待ち続けていた。空はすっかり黒く染まり、都会だというのに異様に星が輝いて見えた。公園にはもう人っ子一人いなくなって、しんと静まり返る中、ジリジリとしながら待ちわびても、いつまで経っても死は訪れなかった。
その間、妹からは引っ切り無しに着信が届いており、そろそろ無視するのも煩わしくなってきて、このまま電源を落とすか、家に帰るか迷っていたところ、その妹が迎えに来た。GPSで追跡したらしい。ナビゲーターの彼女らしい行動力だったが、今は放っておいて欲しかった。
何を黄昏れているの? という言葉に返事することが出来ず、生死も定まらない状況のまま、ずるずると引き摺られるようにして家に帰った。
前日と同じく、宅配ピザを頼み、それをコーラで流し込んだ。馬鹿笑いしている妹とテレビを見てから、順番にシャワーを浴びて、後はひたすらセックスをした。まるで彼女の体にしがみついていなければ消えてなくなってしまうかのように、いや寧ろ溶けて無くなるんじゃないかってくらいに、彼女の体に溺れ続け気絶するかのように眠りに落ちて……
そして翌朝、母親の腕に包まれる赤ん坊みたいな格好で目覚め、まだ死んでいないことにショックを受けた。生きててラッキーなはずなのに……まるでそうは思えないのだ。
遅れて起きてきた妹に仕事しろと言われ、生活費を要求されて、尻を蹴られて家を出た。初日みたいなお使いイベントをこなして日銭を稼ぎながら、街には相変わらず犯罪者共が闊歩していて、パトカーとカーチェイスしているのを確認する。時折、人が吹っ飛んで来たり、死体が転がっていたり、戦闘ヘリがバリバリと音を立ててビルを銃撃していたりして、そしたらもう自分が『生きている』だなんて手放しに喜べなくなった。
ここはやっぱりゲームの中なのだ。それを実感すればするほど、嫌でも現実の自分が死にかけていることを思い出さざるを得ない。じゃあ、いつ死ぬんだ? 生殺しだ! ……恨み言を吐いても、自分にはどうしようもなかった。
もちろん、保険屋と連絡を取ろうと試みもしたが、折り返し電話をかけても彼に繋がることは二度となかった。何か手違いがあって、延命措置が取られている可能性は否定できないが、そしたら彼が何か言ってくるのが筋だろう。それが無いということは、やはり自分は死んだと考えるべきだが、確かめるすべがない。
いや一応、もう一度ログアウトして確認するという方法があるにはある。しかし、そうは言ってもなかなか踏ん切りがつかなかった。何故って、あっちに戻れば確かに状況ははっきりするかも知れないが、死にかけているのだから死ぬほど辛いのだ。そんなところに戻るなんて、考えるだけで気が滅入るだろう。
それにもし、本当に死んでしまったらどうする? 地獄のような苦しみの中で死ぬか、突然ぽっくり死ぬか選べるのであれば、誰だって後者のほうがマシだと答えるだろう。だがいつぽっくり死ねるのか、それが分からないのだ。
ところで……一応考えはある……ここから先はただの妄想で、荒唐無稽な話に過ぎないのだが、自分はやっぱり死んでいて、魂(?)だけがゲーム世界に取り残されているという可能性もなくはなくなく無いのでは無かろうか? 有るんだか無いんだかはっきりしないが、それだけあり得ない話と思って聞いて欲しい。
実は世の中には精神のアップロードという技術が存在する。
今からおよそ70年前、当時グーグルに在籍していたレイ・カーツワイルを筆頭とするシンギュラリタリアンと呼ばれる人々によって提唱された技術だ。
物質はエネルギーである。エネルギーは保存される。極論すれば、人間という存在も物質で出来ているわけで、その人間を構成する物質の状態は保存されている。だからもし、人間を構成する物質の状態を全スキャンすることが出来て、例えばオンライン上のストレージにでもその状態を保存することが出来たら、電脳空間に人間そのものを再現することも可能なのではないか?
堅苦しい言い回しを避ければ、人間の精神とか魂とかいうやつは、実はアップロードが出来るんじゃないか? と彼らは考えたのだ。そうしたら我々人類は、これより先、死ぬことがなく永久に存在し続けることが出来るであろう。これ即ち、新たなる生命体、ポスト・ヒューマン誕生だ!
尤も、SF作品によっては当たり前のように扱われている技術ではあるが、現実には人間を構成する分子は量子としてもつれた状態にあるから、正確に測定することが不可能だったり、そもそも人間の脳がどのように動いているのかがまだ未解明だったり、記憶の保存方法すら曖昧だったから、実現は到底不可能と思われていた……
ところが、今から約10年前、サイバーテクニクス社のベイジングスーツ、その開発者である鷹司イオナ博士が、その状況を打開してしまったのだ。
彼女のベイジングスーツは、人間を電気的に接続すること無しに、オンラインに意識を投影することが出来る。言い換えれば、人間を人間足らしめている何らかの情報を、多少なりともデジタル変換することに成功していたのだ。
ならば、これを突き詰めれば、精神アップロードも可能なのではないか? そう考えた一部のシンギュラリタリアンが、当時、離婚して一般企業から国大の研究所に戻っていた鷹司博士に投資し、彼女はそんな期待に見事に応えたのである。
そして動物実験から、続いて末期癌患者による人類初のアップロードに成功した、とのニュースが流れると、それは特に高齢の富裕層の関心を刺激した。
人間は誰しも死を恐れるものだが、それは歳を取って金銭的に裕福であるほど強く感じるものらしい。多分、この世に残していくものの多さが、そのまま未練の多さに繋がるからだろう。
精神アップロードの技術がどうやら本物らしいと世界中が認識し始めると、彼らはこぞって日本への投資を始めた。要するに、アップロード後の自分たちの資産を、予め日本に移しておこうという魂胆だったが、とにもかくにも、国内への投資が喚起されれば景気は良くなる。
この寝耳に水の出来事に日本政府は大層気を良くし、なんなら政府が中心となって、その成果を諸外国に売り込み始めた。すると間もなく、日本市場はアメリカに迫る勢いで拡大し始め、世界中の機関投資家は投資をするにあたって、さらなる緩和を日本政府に求め始めた。
その期待に応えて、政府は東京湾上に新たな経済特区である人工島を建設、それは後に『東京湾岸エアフロート』と呼ばれる施設となる。
鷹司博士の研究所は、その人工島の中心に聳え立つ巨大なビルへ移され、そこで政府管理下のアップロード施設が建造された。
後に『コフィン』と呼ばれるようになったその中央塔では、建設後間もなく、幾人もの寿命を迎えた金持ちたちがアップロードされ始めた。彼らはそこで永遠の命を手に入れると、電脳空間で生活しながら、現実世界の資産を使って、さらなる経済活動を続けたのであった……
ここまではいい。
いかにもありそうな話だ。
問題はここからだ。
こうして次々と死にゆく富裕層のアップロードを受け入れ続けたエアフロートには、やがて世界中の富が集中し始めた。何故なら、彼らはコフィンの中で、電脳世界の住人として生き続けているから、その資産の相続が行われない。
そして金持ちが金持ちであるほど、その資産を守ろうとする傾向が強くなるから、結果的に世界中の富がエアフロートに集中してしまい、その額はなんと世界の富のおよそ9割という試算が出ている。
それだけの富が集中してしまうと、当然、世界各国の間にも格差が生まれる。何しろ、世界の殆どの金が、東京の、たった一つの、人工島内でぐるぐる回されるわけで、その手数料なりなんなりに税を掛けられる日本はともかく、他の諸外国には何の旨味もない。それどころか、本来なら彼らが死んだ際に得られたであろう相続税が入ってこなくなったのだから丸損である。
それを取り返そうとするなら、彼らを死人として扱うしかないが、生きている時から政財界、あらゆる世界に影響力を持っていた彼らに、面と向かってそんなことを言える政治家など居なかった。居てもすぐに潰された。
もちろん、だからといって、彼らが生まれ故郷への愛情を失ったわけではないから、彼らはコフィンの中から影響力を行使して、自分たちの国に便宜を図ろうとした。結果、多数の国家がエアフロートの事業に参画することになった。
しかし、それも場所柄からして日本の友好国に限られており、それ以外の国々……古い言い方を借りれば第二世界は含まれなかった。故に、彼らは彼らで自分たちのアップロード技術を手に入れようと躍起になったが、未だ実現していない。
話を戻そう。
以上のように、今現在、この世にアップロードされた人類というものは存在している。死んで肉体を失った後も、魂だけの存在となって、電脳世界で暮らしている住人のことである。
彼らの存在を鑑みれば、甲斐も死んでアップロードされたのだと考えることは可能ではある。しかし、これまでの経緯を踏まえて、何の価値も持っていない彼がアップロードされたとは考えにくいだろう。言うまでもなく、アップロードには莫大な金がかかるのだ。
おまけに、アップロード者の存在は第二世界の住人にとっては憎悪の対象でしかなく、こちら側からしても目の上のたんこぶだ。そして無論、彼らを存在させるための情報は、コフィンの中枢で厳重に保管されており、誰もが気軽にアクセス出来る場所にはない。
もし、そんな場所に、突然出所不明の甲斐が混じったら、大騒ぎになることは間違いない。でもそんなことにはなってない。じゃあ、甲斐の情報はどこにあるというのだろうか?
以上を踏まえて、甲斐はアップロードされたとは考えられない。となると、彼がまだこうしてオンライン上に存在し続けているということは、現実世界の肉体がまだ死んでいないと考えるのが妥当であろう。
では、いつ死ぬのだ?
それが分からない。
そんな宙ぶらりんな状況が、彼の精神をどんどん蝕んでいた。