王女の生還:マイア①―1
長時間に及ぶ過酷な手術から目覚めた彼女は、病院のベッドの上で苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
術後の経過が悪くて苦しんでいるわけではない。まだ麻酔が効いていて意識は朦朧としていたが、逆に痛みは一切感じていなかった。じゃあ、何がそんなに彼女を煩わせていたのかと言えば、心臓が痒くて痒くて、どうしようもなかったのだ。
その日、鷹司マイア・ロックスミスは、心臓の移植手術を受けた。適合者とはいえ、自分じゃない誰かの心臓が、自分の体の中に入っているかと思うと落ち着かなかった。あまつさえ、それがドクンドクンと自分の体内で脈を打っているのだと思うと、不安で不安で仕方がなかった。
生まれてこの方、自分の心臓の音なんて意識したこともなければ、聞いたことすらなかったというのに、その時はまるで自分の体の中で工事でも始まってしまったのかと言わんばかりに、信じられないくらい大きな音が聞こえていた。そのくせ、この心臓はいつ止まってしまうのか、いつ暴れ出すのか、何しろ他人の物なのだから、いつまでもそこに居てくれる保証はないような気がするのだ。一度そう意識してしまうと、もう居てもたっても居られなかった。
しかし、身動きが取れない彼女には成すすべがなく、今すぐ心臓を取り出して掻き毟りたい衝動に耐えながら、ただひたすらに、意識しないよう意識するしか方法がなかった。
痛覚を遮断した代わりに、泣くことも、声を発することも出来ない状態で、いつの間に眠ってしまったのだろうか……次に目覚めたとき、心臓の違和感は多少マシになっていた。音はもう気にならなくなっていたが、ただ、なんとも形容し難い痛みと、なんというか、胸に白刃を押し付けられているような、そわそわした感覚に襲われていた。
その恐ろしい痛みに耐えながら、気絶するように三度眠りについた彼女は、三度目の目覚めでようやく新しい心臓に慣れてきた。相変わらず、ドクンドクンと脈打つ鼓動が落ち着かなくはあったが、その心臓が体に活力を、血液を送り出してくれていることが意識して分かるようになってくると、何だかその心臓が愛おしくて仕方なくなってきた。
何しろ、手術を受けるまで彼女はずっと、死と隣合わせで生きていたのだ。突然、脈絡なく起こる理不尽な激痛と、必死に呼吸をしているにも関わらず、決して満たされることがない苦しみに、いつ襲われるか恐々としながら、疑心暗鬼に毎日を過ごしていたのだ。そんな最悪な日々からついに解放されたのだと思うと、涙がでるほど嬉しかった。
と、同時に、ものすごく後ろめたくもなった。何しろ、彼女を苦しみから救ってくれたこの心臓の持ち主は、それと引き換えに死んでしまったのだ。もしこれが他の臓器であればまだ誤魔化せたかも知れないが、貰ったのは心臓なのだから確実である。自分は間違いなく誰かの犠牲の上に立っている。そう考えると、その誰かへの感謝とともに、痛恨の念に駆られた。願わくば、その人が安らかであらんことを……
心臓に腫瘍が見つかったのは、ほんの一月前のことだった。
それまで何一つ不自由なく暮らしていたマイアは、ある日突然、心臓に激痛を感じ、体がまともに動かせなくなった。助けを呼びたくても声を出せず、地面に転がる自分のことを、物珍しそうな目で見下ろしながら人々が通り過ぎていくのを、恨めしく見送ることしか出来なかった。
そして搬送された病院でレントゲンを撮った彼女は、心臓に人の顔みたいな形の恐ろしい影を見た。
人面瘡……現代の奇病と呼ばれる、謎の遺伝子疾患である。
それが流行りだしたのがいつかは分からない。気がついたら世界各地で確認されていた。レントゲン写真に映る顔のような影は非常に目を引いた。それなのに何故、発見が遅れたのかと言えば、そのグロテスクな形状とは裏腹に、ほとんどの腫瘍が良性で小さくて、切除してしまえばなんともなかったからだ。治ってしまえば、みんなただの気味の悪い形をした腫瘍としか思わなかったというわけだ。
その発生原因やメカニズムは未だに解明されておらず、特にどの器官が出やすいという傾向もない。また内蔵に限らず、皮膚に瘤のような形で現れることもあり、流行初期はそっちの方が騒がれていたために、人面瘡という病名がついた。
極稀に性質の悪い物も存在する。特に成長が急激なものは悪性の中でも最悪で、例えば、ほんの1週間くらい前に人間ドッグで健康体と太鼓判に押された者が、いきなり発症して運び込まれた時には、もう手遅れだったというケースもあった。
マイアの腫瘍もその口で、彼女の場合、発見された時には既に腫瘍が心臓の半分近くを覆っていた。通常の腫瘍なら例え心臓であっても、切除してしまえばなんとかなるものだが、彼女の場合は大きさが問題となり、手術をしても生還は五分五分……もしくはそれ以下と診断されて踏ん切りがつかなかったのだ。
まるでムンクの叫びみたいな気持ちの悪い顔をした影が、娘の心臓を覆っているレントゲン写真を前にして、彼女の父親は絶句して涙を流した。生まれてからまだたった十数年しか経っていない愛娘のために、彼はすぐにあらゆる手を尽くして治療法を探したが、そんな都合のいいものがすぐに見つかるわけがなく、あっという間に手詰まりになった。
唯一、可能性があるとすれば心臓移植だけだったが、病気の進行が早すぎてドナーが見つかるまで彼女の体力が持つとは到底思えず、彼女を診断した数々の医者たちも、後は死を待つだけと首を振るしかなかった。
ところが、そんな時、奇跡が起きた。彼女に適合する心臓の持ち主が、偶然にも事故に遭って、死にかけているというのだ。恐らくもうすぐ死ぬとわかっていただろうに、ドナー登録にサインしてくれたその人のためにも、自分は一日でも長く生きなければ……マイアは深く心に誓った。
術後の経過は順調で、それから一週間が過ぎても拒絶反応は現れなかった。これならすぐにでも退院出来るだろうと医者に太鼓判を押され、間もなくリハビリが始まった。
最初は自分の物ではないという違和感があった心臓にも徐々に慣れ、一ヶ月もするころには全く気にならなくなった。これは新しい自分の心臓だと受け入れられるようになったころ、リハビリが終わり退院の日がやってきた。
病院に運び込まれてから約2ヶ月を過ごした病室は、今ではすっかり自分の部屋みたいに愛着が湧いていた。今日で最後と思うと少々名残惜しいと思いつつ、お世話になった感謝のつもりで病室の掃除を行った。
寝間着とタオル、着替えは既にまとめてカバンに詰めてあり、そのカバンの横には大きなテディベアがいて、ベッドの上から彼女のことを見守っていた。もう高校生にもなるのにちょっと恥ずかしいのだが、彼女はこれが無ければ眠れないから、病室に持ってきたものだった。
それは彼女が本当に小さい時、母から貰った物だった。
コンコンとドアをノックする音が聞こえて、父が病室に入ってきた。
「OH! マイア、私のかわい子ちゃん!」
父は大げさに手をバタバタさせながら病室に入ってくると、まるでこの世の奇跡を目撃しているかのような驚愕の表情を作ってマイアのことを抱き上げた。
「ちょっと、お父さん。痛いってば……」
ほっぺたをスリスリするヒゲが痛い。
マイアの父は金髪碧眼の偉丈夫で、その暑苦しいリアクションや見た目からも察する通り、紛う方なき欧米人だった。名はジョージ・ロックスミスと言い、マイアは日本人の母と父の両方の姓を名乗っていた。
「CEO、マイアさんも病み上がりですから、その辺りで……」
その父に少し遅れて部屋に入って来たは、近衛睦月。東大出身の今年29才になる男で、信じられない話だが、子供の頃に決められたマイアの許嫁であった。
彼が父のことを最高経営責任者と呼んでいるのは、文字通りマイアの父が会社の経営者であるからなのだが、近衛は別に彼の部下というわけではない。近衛の実家が父の会社に出資をしている資産家で、どちらかといえば二人は仕事上のパートナーといった間柄だった。
「ああ、ごめんよ、ムツキ。君の将来のお嫁さんに。私のマイアが元気なのが嬉しくて、つい感情が抑えきれなくなったんだ。本音を言えば、一時はどうなることかと覚悟もしていたんだが、本当によかった。それもこれも、みんなムツキのおかげだ」
「僕は何もしていませんよ、お父さん」
二人はまるで数十年来の親友かのように肩を抱き合っている。
父の言う通り、マイアが助かったのは近衛のお陰であった。マイアが人面瘡疾患を発症したあと、仕事を休職して海外を飛び回り、方々に手を尽くして彼女の心臓を見つけてきてくれたのは、実は彼だったのだ。
もし、彼がそこまでしてくれなければ、きっと今頃彼女はここでこうしていないだろう。それを考えると、本当に頭が下がる思いだった。誰もが認める秀才で、将来の嘱望された資産家の息子である彼が、本当に自分なんかの婚約者でいいのか、マイアはなんだか申し訳なく思っていた。
ともあれ、そんなやり取りもあってか、その後、父は打って変わってマイアのことをガラス細工にでも触れるかのごとく丁寧に扱った。もう必要ないと言ってるのに、わざわざ借りてきた車椅子に彼女を乗せ、大量の荷物を背負子のように背負って、そろりそろりと車椅子を押してくれた。その後ろにはでっかいテディベアを抱えた近衛が続き、三人の大げさな姿は通院の患者たちの間でちょっと目立って恥ずかしかった。
退院手続きを終えると病院の玄関前にはお世話になった先生や看護師たちが待っていて、盛大にマイアのことを見送ってくれた。マイアの移植手術は病院始まって以来の大手術で、医師たちの間でも彼女は特別思い入れの深い患者だったのだ。大きな花束を渡してくれた看護師長は、目に薄っすらと涙を浮かべていた。
そんな病院スタッフたちの作る花道の間を抜けると、外には6月の晴れ間独特の香りが広がっていた。どこか湿っぽい匂いのする空には燦然と太陽が輝き、マイアの真っ白い肌をジリジリと焼いた。その痛痒と太陽の感触が彼女に生を実感させるのか、その時、ドクンと心臓が高鳴り、彼女は自分の胸に手を当てた。
あの日、手術を終えて目覚めたときには異物感しかなかった心臓も、今ではすっかり自分の物になっていた。この、誰かの命と引き換えになった心臓と共に、これから自分は第二の人生を歩んでいくのだ。そう思うと、この何気ない青い空が、なんとも特別に見えるのだった。