その時が来るまで:甲斐①―5
「……ちゃん! お兄ちゃん、起きてってば! もう昼……って、わわわっ!?」
体を横向きにゴロゴロと転がされてるような感触がした。ベッドから落っことされた衝撃で目覚めた甲斐は、反射的に飛び上がって着地すると、目の前に居た妹の手首をギュッと捕まえた。
ただの悪戯のつもりだったのに、まさかそんなガチギレみたいな反応をされるとは思っても見なかったといった感じの妹が、目を丸くして泡を食っている。
「お、おどろいたなあ~……今日はびっくりするくらい寝起きがいいね。いつもこうなら良いんだけど」
「生きてる……」
甲斐は妹には構わずに、自分の胸に手をやった。バクバクと鳴り響く心音は、まるで別の生き物みたいだった。冷や汗が額からドロリと垂れて目に入った。彼はそれを乱暴に拭った。
兄の様子がおかしいと感じたのか、妹が小首を傾げながら問いかけてくる。
「どうしたの? お兄ちゃん……怖い夢でも見た?」
彼はその声を聞いて、ようやく自分がまたゲームの世界に入ってしまっていることに気づいて、
「君は……りあむか!? 僕のことは覚えているのか?」
「はあ? そんなの当たり前じゃん」
「なら今日は何日だ? 昨日、僕たちは何をしてた?」
「え!? 何って……もう、こんな朝っぱらから。お兄ちゃんはエッチだなあ」
「いや、そうじゃなくて……ええい、ステータスだ!」
甲斐が叫ぶと、その瞬間、目の前の景色が消えてステータス画面が現れた。彼はそこに映るアバターには目もくれず、まずは所持金を調べ、昨日、車泥棒の報酬で貰ったクレジットがそのまま残っていることを確認した。
さっきの妹の反応といい、どうやら昨日のゲームがまだ続いているらしい。それはともかく、今は現実世界のことが気になる。彼は改めてシステムメニューを呼び出すと、そこにあったログアウトボタンを押そうとして……押そうと試みて……押そうと考えて……指が止まった。
押して、どうする……?
……いや、どうなるんだ?
昨日、ログアウトした時、現実世界で目覚めた自分は病院らしき場所にいた。手術台かなにかに乗せられて、意識が朦朧としていて、医者がしっかりしろと話しかけてきた。全身に激痛が走って呼吸も出来ず、倦怠感から今にも気を失いそうになっていた時、あの男が飛び込んできて、何か不快な言葉を浴びせかけてきたが……
甲斐はブルブルと首を振った。
思い出そうとすると吐き気がしてくる。とにかく、現実世界で自分はどうやら死にかけていたと言う事だけは、なんとなくわかった。なら、今すぐここでログアウトしたらどうなると思う? また、医者に呼びかけられて、もし答えられなければ……今度はどうなるんだろうか?
状況は正直まだよくわからない。だが、少なくとも、またあそこに帰りたくないことだけは確かだった。どうせ人間、いつかは死ぬんだろう? だったら、あんな苦しい思いをするより、このままいっそ……
「……お兄ちゃん。具合悪いの?」
ステータス画面を閉じると、目の前で妹が不安そうな表情で甲斐の顔を覗き込んでいた。あの男とは違って、本気で心配してくれているのが目に見えて分かる彼女に、なんだか申し訳ない気持ちを抱いた。
しかし、彼女はただのNPCだ。ただのデータに過ぎないのだ。そんな気持ちを抱くこと自体、虚しいことなのだ。甲斐は顔を横に向けて彼女の視線から逃れると、
「ううん。大丈夫だよ。ちょっと、夢見が悪かったんだ」
「なら、いいんだけど……今日はお仕事お休みにする? 昨日の報酬があれば、しばらくは平気だけど」
「あ、ああ……どうしようかな」
このままゲーム世界に居続けたらどうなるのだろうか? かと言って、現実世界に戻る勇気もない。甲斐が優柔不断に頭を抱えていると……
その時、ピリリリリ……と、ベッドの横に置いていた携帯が鳴りだした。
この携帯に電話を掛けてきそうな唯一の人物である妹は目の前にいる。こんなタイミングで、なにかイベントでも始まったのだろうか? 充電器から携帯を取り上げディスプレイを見ると、着信には『日本一生命』と表示されていた。
日本一生命……? 真っ先に思い当たるのは実在する保険屋くらいのものだったが、なんでこんなゲームの中に? コラボする理由なんて何一つないだろうに。
「……もしもし?」
取りあえず、彼は呼び出し音を消すつもりで応答した。イベントならキャンセルすればいいだけの話だ。果たして、その時かけてきた相手は、意外にもゲーム上のNPCなどではなくて、
「あ、もしもし? こちら甲斐さんの携帯ですか? 私は日本一生命の田中と申しますが……ログアウトの件についてお話があるのですけど、お時間よろしいでしょうか?」
「ログアウト……?」
「はい。甲斐さん、あなた、先ほど一瞬だけ、現実世界に戻った時のことを覚えていらっしゃいます?」
「現実世界って……まさか?」
「はい。そのまさかです」
そして男はズバリと言った。
「単刀直入に言って、あなたは死にました。厳密には、今死のうとしています……そんなわけで、今後のことについて少々お話があるんですけど、お時間いただけますか?」
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ボロアパートの前で、相変わらず黒人の子供たちが道路に落書きをしていた。昨日、激しい銃撃戦があったコンビニは嘘みたいに片付いていて、中で新しいバイトが暇そうにしていた。そのコンビニの前を素通りし、三叉路を右に曲がって暫く行くと、入り口にでっかい蒸気機関車が展示されている大きな公園があった。
神社の参道みたいな砂利道を行った先の広場には、平日だと言うのにクレープの屋台と綿菓子の屋台が仲良く並び、噴水の前で鳩に餌をやっている老人と、それを物欲しそうに眺める子供たちとで賑わっていた。ベンチには外回りの営業マンらしき男性がカバンを枕に寝そべっており、鳥のさえずりと木々のざわめきとで、ここが都会のど真ん中であることを忘れそうになる。
尤も、こんなのどかな風景にも、いつどこのバカが銃を乱射しながら突入してくるかわからない、そんな危険があるというところに、このゲームの無体さと可笑しさがあった。
噴水の前でキョロキョロしていると、遠くの方からにこやかな笑みを浮かべた男が手を振りながらやってきた。そのアバターは4~50代の苦み走ったナイスミドルだが、サイズの合わないスーツ姿にスニーカー履きと、オレオレ詐欺の受け子みたいな格好をしていた。
「あ、どうも。甲斐さん? どうもどうも。ささ、こちらへどうぞ、ずずずいっと」
口調もどこかくだけていて、見た目通りの年齢ではないのかも知れない。肩書が本物なら保険屋と言う事だが、まさかこの無法地帯みたいなゲームの中で、大真面目に商品を売り歩いているわけがあるまい。
一体何の用だろうと警戒していると、男はベンチで寝ていたサラリーマンをいきなり蹴り飛ばし、空いた席を大仰な素振りで勧めてきた。NPCはぶつぶつ言いながら、特に怒ることなくスゴスゴ退散していく……見た目はともかく、ゲームには慣れているようである。
「それで……えーと、田中さんでしたっけ? 僕に話というのは……」
緊張している甲斐がベンチに座るのを待ってから、保険屋はにこやかな営業スマイルを浮かべて、
「時間が限られていますので、ざっくばらんに行かせて頂きますが、ご勘弁くださいね? えー……ショックかも知れませんが……えー……先ほどお電話でもお伝えしました通り……残念ながら、あなたは死にました」
「死んだ……」
「ええ、正確には、死につつあります。ログアウトした時に、ご自分の状況を確認されたと思いますが?」
甲斐はゴクリとつばを飲み込んだ。昨日、寝る間際にログアウトした時に見たあれは、やはり夢ではなかったのだ。
甲斐がショックで青ざめていると、保険屋は同情はするといった顔で大仰に何度も頷いてから、やはり時間が惜しいといった感じに、
「それで、甲斐さん。不躾ですが、私はあなたがお亡くなりになられる前に、あなたの意思を確認しようと、こうしてやってきたのですよ。保険の手続きで。これがどうしても必要なことでして……」
「保険……もしかして僕に保険が掛かっていたんですか? そうか……それで、あいつはサインしろって言ってたのか」
甲斐は一瞬だけ現実で目覚めた時のことを思い出し、歯噛みした。父は死にかけてる息子に向かって、サインしろとしつこく喚いていた。あの時は何のことかさっぱりだったが、まさか自分の預かり知らぬところで生命保険が掛けられていたなんて……
ところが保険屋は即座にそれを否定して、
「いいえ、あなたに保険は掛かっていません。私は別の人の件で、あなたに会いに来たのですよ」
「え……?」
一体全体どういうことだろうか? 意味がわからなくて目をぱちくりしていると、彼は気持ちは分かると言いたげに苦笑しながら、続けて、
「まずは私のことからお伝えしたほうが早いですかね。私は、日本一生命、臓器移植保険の渉外担当をやっております、田中と申します。臓器移植保険と言うのは、まあ、有り体に言ってしまえば、臓器ブローカーのことですね」
「臓器ブローカー?」
「はい。我が国ではあまり馴染みがないかも知れませんが……」
保険屋は何から話せばいいかと言った感じに少し間を置くと、
「ご存知かと思いますが、人間の臓器移植手術をするには、臓器の適合が絶対必要です。そのマッチングが難しくて、何年待ち続けても提供者が現れずに死んでしまう患者もザラにいます。その状況を変えるべく、自分が死んだ場合、臓器を提供していいという意思を示すためのドナーカードという物が作られたのですが、そのドナーカードもあまり利用されていないのが現状です。
そこで各国政府はカードがなくても、死亡者の家族が認定さえすれば移植が可能だとする法律を作りました。ところが、海外ではそれを逆手に取って、先進国相手に商売しようとする、闇ブローカーが暗躍するようになってしまったんですね。その方法というものがとても人道的とは呼べず……例えば、貧困家庭から子供を攫ってきて臓器ファームみたいなものを作ってしまったり、ドナーのあてなんか無いのに希望者を海外に連れ回した挙げ句死なせてしまったりと、まあ、散々なものでした。
そういった犯罪が多発した結果、日本政府は先の法律を改定し、また本人確認が絶対必要なように戻してしまったのですが……」
その話は知っているが、だからなんだというのだろうか? 甲斐が訝しそうに首を傾げていると、保険屋はここからが本番だと言わんばかりに何度も頷いてから、
「お陰で、我が国では希望者が臓器を希望しても手に入り難い状況が続いています。ドナーカードの認知度がいくら高くても、自分が不慮の事故で死ぬと想定して、予め書いおく人なんて、なかなか居ませんよね。そのせいでドナー適合者であると判明しても、希望者に届けられない臓器というものがいっぱいあります。
もしも、その人が死ぬ前に、ほんの一筆でいいから書いていてくれてれば、助かる命がいくらでもあったというのに……
で、ですね? 日本一生命では、そんな状況を踏まえて、ドナー適合者が見つかった場合、速やかにその意思確認をするという保険を提供することにしたんです。この、VRゲームを活用してね」
「保険……?」
「ここまで言えば、もうおわかりでしょう。私は今まさに、あなたに臓器提供の意思を確認しにやってきたのですよ。甲斐さん。現実のあなたは今、死にかけています。そんなあなたの臓器が、とある患者に適合することが判明したんです。そこで、我々は急いであなたにベイジングスーツを着せて、意思の確認にきたんです。この、仮想空間まで」
甲斐はあんぐりと口を開いて息を呑んだ。それで自分は気づかなぬうちに、VRゲームの世界に繋がれていたというわけだ。昨日、妹に叩き起こされてから、ずっとわけがわからずこの世界を彷徨っていたが、それが理由だったのだ。
「僕は……死んだんですか?」
「ええ、残念ながら」
「なんで?」
「トラックの事故に巻き込まれたんです」
「何も覚えていないのですが」
「そうですか……」
保険屋は少し考える素振りを見せてから、
「ショックかも知れませんから、詳しい話は避けていたんですが……事故に巻き込まれたあなたは救急車に搬送された病院で脳挫傷が確認されました。全身複雑骨折で出血も激しく、医者は手を尽くしてくれていますが生還は厳しい状況……というか不可能と言った状況です。脳を損傷していますから、もしかして、それが原因で思い出せないのかも知れませんね」
「そんなに、なんですか?」
自分のことながら絶句する。確かに、先ほど現実世界に復帰した時、言いようの知れぬ倦怠感と、自分の体がなくなってしまったような感覚がしていた。おそらく、麻酔やらなにやらでもうまともに体を動かすことも出来なかったのだろう。
自分には、あとどのくらい時間が残されているのだろうか……
保険屋も急かしはしないが、内心は相当焦っているのだろう。甲斐が呆然としているのにも構わず、まくし立てるかのように続けた。
「もし、臓器提供の意思を示してくれるのであれば、その見舞金としてご家族に一千万円が支払われます。因みに、あなたの臓器が提供される予定の患者は、あなたと同い年の未来ある若者です。心残りもあるでしょうが、どうかその人を助けると思って、ドナーカードにサインをしていただけませんでしょうか?」
「……一千万、ですか」
「命の値段と考えますと、安く感じられるかも知れませんが、人助けだと思ってどうか」
「いや、そうじゃなくて、それは絶対に支払われるんですか?」
「もちろん、私の名誉に誓って確実に」
「でも、死んだら僕は受け取れませんし、確認も出来ませんよね?」
「それはそうかも知れませんが……」
甲斐が渋っていると、保険屋は焦れったそうに、
「わかりました。もしサインをしていただけるなら、私の権限の及ぶ限りですが、見舞金を引き上げることも可能です。どうか私を信じていただけませんか」
「ああ……いや、なんといえばいいのか」
「二千万でどうです? なんなら今すぐ、会社に掛け合いますよ? メールで」
正直、金額の多寡はどうでも良かった。どうせ死ぬ身であるならば、誰かを助けるという選択も悪くはなかった。じゃあ、何を渋っているのかと言えば、その金が父親に渡ることが嫌だったのだ。
現実世界の手術室に押しかけてきた、あの男の顔を思い出す。今まさに目の前で息子が死にそうになっているというのに、サインをしろと脅しつけたあの男を……
あんな男に、そんな大金が転がり込むなんて、とても耐えられないではないか。
だが、そんなことを保険屋に説明する義理もない。そもそも、話したくもない。見たこともない臓器希望者には申し訳ないが、ここは断ったほうがいいのでは……例え、自分は地獄に落ちるとしても。
その時、甲斐の歯切れが悪くなったのを見て取った保険屋が、苦し紛れに言った。
「そうだ。あなたと一緒に事故に巻き込まれた弟さん……彼も同じ病院に搬送されましたが……」
「弟……? 真一郎!? 真一郎も事故に遭ったんですか!?」
弟という言葉を聞いた瞬間、甲斐は身を乗り出すようにして保険屋に詰め寄っていた。多分、話の前フリ程度のつもりだったであろう、彼はその食いつきっぷりにびっくりしながら、
「え、はい。弟さんも、あなたと一緒に搬送されたんですが……覚えてないんですか?」
「それで、真一郎は無事なんですか?」
保険屋は甲斐の形相に尻込みしつつ、ちょっと考え込んでから、
「えーと、あなたに比べれば、だいぶマシですよ。ただ……ひどい事故でしたからね、死ぬことはないでしょうが、無傷とはいきませんでした。弟さんも今、あなたとは別の病院で治療を受けているところです」
「そ、そうなんですか」
「もしかすると、適切な治療を受けなければ、後遺症とかが残るかも知れません。ところで……こういうのはどうでしょうか? もしサインしていただけるのであれば、見舞金以外にも、弟さんの治療を我々が全力でサポートするとお約束しますが……」
保険屋は、チラリチラリと甲斐の顔を窺っている。その様子からして、弟の傷は言うほどでもないと推測できたが……それでも、無傷じゃないというは本当だろう。自分がいなくなった後、誰かが面倒を見てくれるというのであれば心強い。
見知らぬ誰かと弟……自分が臓器を提供するとさえ言えば、二人の命が助かるのだ。だったら、もうサインしてもいいんじゃないか? どうせ死んだあとのことなんて、自分には分からないのだから。
「……わかりました」
「わかってくれましたか!」
甲斐が同意を口にした瞬間、保険屋の顔がパーっと輝いた……しかし安堵している暇はない。彼はすぐに職務を思い出したように、慌てて手にしたカバンの中から書類をゴソゴソ取り出して、
「それでは、まずはこちらの方に電子署名を。これさえあれば、あとは無くても構いませんから。ささ、早く!」
「はあ……」
甲斐は言われるままに書類にサインをした。ここはゲームの中だから、こんなことをしても意味が無さそうに思えるが、保険屋に言わせると認証されたアカウントと連動しているから、ちゃんと意味を成すらしい。
ともあれ、言われた通りに署名を終えると、保険屋は成し遂げたといった感じに脱力し、のんびりした口調に戻りつつ、
「いやあぁぁ~~……助かりましたぁ。これで、一先ずは安心です。あ、よろしければ、こちらの方にも……ここ、丸をつけてる欄に署名いただけますか?」
「……あの。死んだあと、僕はどうなるんですか?」
まるで具体性を欠いた質問だったが、保険屋は役割を果たした達成感で気もそぞろに、
「さあ? 死んだことないですからねえ……ああ! 今回、依頼されたのは心臓に疾患のある患者さんでして……だから死亡確認後、あなたの心臓は速やかに運ばれて、新たな宿主の下で生き続けてくれると、そう思います」
保険屋は少し突き放した言い方をしてしまったと後悔でもしたのか、途中から言い訳するように早口に喋り終えると、上目遣いで探るような感じに続けた。
「……これで最期になるかも知れません。何か未練はありますか? 私に出来ることなら、なんでも言ってください」
なんでもと言っても、それは死んだあとのことだろう。約束がちゃんと履行される保証もない。甲斐は薄い笑みを浮かべると、
「いいえ、なにも」
なんなら、あの父親とおさらば出来るのであれば、死ぬことだって悪い話じゃないとさえ思っていた。そんなさっぱりした気持ちが表情に現れていたのか、保険屋は一瞬だけ目を瞠るようにして黙りこくると、
「そうですか……では、私はこれで」
とだけ言って、書類をカバンに詰め込みはじめた。準備を終えると、保険屋はベンチから立ち上がり、前傾姿勢で頬杖をついている甲斐のことを振り返った。彼は何か気の利いたことを言おうとしていたのか、何回か口を開きかけたが、結局は何も言えず、代わりに愛想笑いを浮かべながら何度も何度も頷いて、それから踵を返して去っていった。
一体、あれはどこへ帰っていくのだろうか。世界の外に出たら、あのアバターは消えてしまうのだろうか。見送る背中が小さくなるに連れて、甲斐は不安が募ってきた。だが、彼に助けを求めてもどうしようもない。ただ困らせるだけだろう。
噴水の広場に目を戻すと、いつの間にか餌やりの老人は居なくなっており、あれだけいた鳩は綺麗さっぱりいなくなっていた。餌がなければ用もないということだろうか、それとも、ボール遊びに夢中な子供たちを警戒してか。当て所もなく、何もない広場に集まってくる人間という動物のことを、彼らはどんな風に思っているのだろうか。
今日も人々は犯罪に勤しんでいるのか、時折鳴り響くサイレンの音に混じって、遠くから夕暮れを告げる鐘の音が聞こえてきた。こんな世界に学校があっても何の役に立つのかわからないが、律儀に時を知らせる鐘の音に促されて、子供たちが家路につく。気がつけば上空を鳥の群れが旋回し、あちこちの木々の上で毛づくろいを始めていた。鳥にさえ帰る場所があるというのに、自分にはもう帰る場所はない。
やがて夜が来て、月がのぼり、冷たい風が吹き荒んでも、甲斐はベンチから一歩も動けずにいた。
ポケットの携帯には、妹からの着信が何件も入っていた。もう帰るつもりはないから、ずっと無視していたのだが、電源を切らずにいたのは未練だったのだろうか。そして再び鳴り出す携帯の着信音を無視して、彼は困惑していた。
ところで自分は、いつ消えるんだ?
自分が死にかけていることは、一度現実に戻った時にも、保険屋からも何度も確認済みだ。臓器移植のための署名までした。なのに、その時は一向に訪れない。彼は真っ暗な公園のベンチで、仄かな街頭の明かりに照らされながら、ひたすらにその時を待ち続けていた。