マトリックス:甲斐⑤―4
古今東西の哲学者たちがこの世は何であるか喧々諤々の議論を交わしていた間、科学者には世界がどう見えていたかと言えば、まだ結論は出ていないとしか言えないだろう。かつての定常宇宙論みたいに、この世は普遍の空間の中に存在すると思われていた宇宙は、実際にはビッグバンから始まる動的な宇宙だったと判明し、そのビッグバンも実は全ての始まりではなく、先行するインフレーションによって宇宙定数の違う平行宇宙が無限に生成されている……かも知れないと、なんだかよく分からないことになっている。
前世紀には平行世界だ余剰次元だなどと言い出したらキ◯ガイ扱いされたわけだが、21世紀の我々の間では、宇宙が10次元のひもで出来てるというのは、広く受け入れられている理論であろう。このような考え方が生まれた背景には、80年代に始まる超弦理論の流行があった。
ひも理論家はその後も様々な宇宙を導き出し、ホログラフィック宇宙論なんて奇妙なアイディアもあれば(現在主流になりつつある考えではあるが)、最先端の研究にはシミュレーション仮説なるものもある。科学者の中には、大真面目に、実は我々はコンピュータがシミュレーションした世界に住んでいるのではないかと考えている者がいる。ニック・ボストロムはその一人だ。
まあ確かに、実際に我々がマトリックスの世界に居ないと、どうして断言できるだろうか。我々が、この世界は本物であると判断するには、結局のところ自分の感覚に頼るしか方法がない。しかし、私がご飯を食べたり、本を読んだり、ジャンプしたりして起こる身体の電気信号を、誰かがわざと刺激したら、それで経験することと現実とは区別がつかないのではないか。結局のところ、経験は脳の作用で起こるのであって、何がその作用を始動させたかは関係ないはずだ。
このような考え方は古くは1960年代のコンピュータのパイオニア、コンラート・ツーゼとエドワード・フレドキンの提案まで遡るらしい。その時代のコンピュータを使っていた彼らが、どこまで本気でその可能性を検討していたかはわからないが、21世紀の我々には、わりとリアルにそんな世界が想像できるのではないか。何しろ、コンピュータは今も昔も物凄いスピードで進化し続けているのだから。
ならば、こう考えてみよう。ある日、人間の生活をリアルにシミュレート出来るゲームが出来た。オール・ユー・キャン・暴徒みたいな世界だ。そのようなゲームが出来たら、全人類とは言わないが、かなりの人たちがプレイするのは間違いないだろう。夜、仕事が終わって家に帰り、ご飯を食べて風呂に入って、リラックスしたところで徐ろにゲームを起ち上げる。その人がそうするのはもちろん、世界中の人々が、それもしょっちゅうやるのは想像に難くないだろう。
これが無限に存在する平行宇宙の正体というわけだ。
見た目だけ完璧な世界が作れたところで、現実にある物理法則なんかはどうするんだよ、まだ判明していな事実はいくらでもあると言われそうだが、現実の我々も普段は物理法則などまったく意識していないだろう。我々が普段気にしているのは、目に見える世界のことだけではないか。
でも、現実にはそれ以外の物質がちゃんと存在している。ゲーム世界では、それ以外の物質はどこにあるのか? と問われれば、それはサーバーの中に情報として存在しているのだと答えよう。物理法則もそれと同じ、ただサーバーにルールが存在する、というだけのことだ。
もちろん、こんな乱暴なシナリオを選ばずとも、完璧な物理シミュレーターを稼働するマザーコンピューターがいつか建造されるというシナリオも考えられるだろう。だが、どちらが実現までのハードルが低いかは言うまでもない。
ポイントは、大きな集団から一つの要素を特定するには大量の情報が必要なのに対し、集団全体を特定するのは遥かに容易であるということだ。一つの完璧な宇宙を創り出すより、オール・ユー・キャン・暴徒をたくさん作る方が容易い。現在計算可能な比較的短い宇宙シミュレーションプログラムを作って、後はコンピュータに任せるほうが、より簡単に正解に近づけるであろう……
ざっくり言えば、これがシミュレーション仮説の肝というわけだ。
「私たちの世界が何であるのか、つまりこの宇宙については、まだすべてのことが分かっているわけじゃない。今のところ、分かっているのは、この宇宙には4つの力があって、あらゆる現象は概ね電磁気力(と真空)によって説明がつくと言う事くらいでしょうね。
他の3つの力はどうしたんだと思うかも知れないけれど、電磁気力に比べて重力は小さすぎて、強い力と弱い力はよほどの例外が無い限り原子核の中でしか働かないから、私たちの現実には殆ど影響しないのよ。
逆に電磁気の力があるから、私たちには世界が色づいて見えたり、私たちの細胞同士がくっついたり出来ている。光は原子にぶつかると、電子殻に吸収されてエネルギーを奪われた後に反射する、これが色の正体。私たちのDNAや肉体を作る細胞は化合物だけど、化合物は電子の共有結合によって生成される。また、私たちがこうして地面の上に立っていられるのは、電子同士が反発し合うお陰ね。
もし、電磁気の力が無くなってしまったら大変なことになるでしょう。今あなたが立っている地面は一瞬にして消滅して、あなたを形作ってる細胞はバラバラに解けてしまう。あなただった物は、地球の中心に向かって落ちていき、そこでブラックホールになる。そんな宇宙では生命が誕生するはずがないでしょうし、あちこちにブラックホールがポツンポツンと存在する、そんな墓場みたいな宇宙が誕生することでしょう。
電磁気の力が無ければ全ては幻である……実際、そうなのかも知れない。原子の構造についてはある程度知っていると思うけど、原子の中心には原子核があって、その周りを電子が飛んでいる……より正確には、電子の確率の雲が広がっていると考えるのが妥当なんだけど、この確率の雲の広がりに対し、原子核ってのは圧倒的に小さい。
まず原子全体の直径はおよそ0.1ナノメートルに対し、原子核の直径は1フェムトメートル……その差は1/100000。実は、原子という物質はその殆どが曖昧な確率の雲で、非常に小さな原子核と、観測しなければそもそも存在しない電子によって構成されている。とてもスカスカな物だったのよ。
私たちの周囲には、沢山の物が溢れて見えるけど、実はそれは光がそう見せているだけで、本当の、物質的な意味では、ただの幻。私たちは見た目だけの世界で暮らしていたってわけね」
この世界はゲームなのかも知れない。そう主張する高井が続いて話し始めたのは、そんな物理の授業みたいなことだった。つまり彼女は現実世界も、甲斐がゲーム世界の外側で見てきたような、ただの見せかけだと言いたいのだろう。
「その電磁気力を媒介する光とは、即ち物質であり、また波でもあるのだけど、そのエネルギーは波長の逆数でもある周波数に比例することが分かっている。これがどうして判明したのかと言えば、19世紀末の鉄鋼業の隆盛が発端だった。
例えば、ドロドロに溶かした鉄を鋼鉄に変えるには、温度管理が非常に重要なんだけど、最大で1500度を超える鉄の温度を計るための温度計なんてものは存在しなかった。それで当時の人達は光を利用することにした。鉄を熱すると、最初は暗い赤色から、段々と明るい白に灼熱してくる。この色の変化で温度を測れないかって考えたのよ。
こうして高炉の温度計が作られたんだけど、その制作に携わっていたマックス・プランクは不思議に思ったの。温度とはつまりエネルギーのことだけど、それが光の色……つまり光の周波数と比例関係にあるなら、そのエネルギーは飛び飛びの値を取るはずだ。つまり光は当時考えられていたようなアナログなものではなく、そのエネルギーには最小値があり、もっとデジタルなものなんじゃないかと。
こうして得られたプランク定数は、後にアインシュタインの光量子仮説によって正しく導かれて、プランクが温度計制作の時に得た結果と一致した。これにより、光は波ではなく、粒子のように振る舞い、しかもそのエネルギーは不連続であると判明した。
更には、相対性理論のお陰で、エネルギーは質量と光速の二乗に比例すると判明すると、このプランク定数は距離にも関係することが分かった。
すぐにその最小値が計算され、これはそのままプランク長さと呼ばれるものになるんだけど、驚いたことに、空間内の全ての量子は、このプランク長さを単位に、飛び飛びに配置されなければならないというルールが存在したのよ。
どういうことかと言えば、実は、私たちがたった今実際に暮らしているこの空間は、プランク長ごとに格子状に区切られており、その交点にだけ量子が存在している……テレビ画面に近づいてみると、なめらかな映像だと思っていたものが、実はドットで表現されているように、ミクロの世界を見れば、この世界も同じような点で出来ている。たまにSF映画なんかで、グリット上に散りばめられた点がピコピコ点滅するようなアニメーションを見せられることがあるけど、実際に、あんなふうに世界は作られていたというのよ。
そして、空間に最小値があるなら、時間にも最小値がありそうよね? 実際にそうやってプランク時間というものが算出されたんだけど……最初はこの時間が何なのかはよく分からなかったんだけど、後に量子にはこの時間以内であれば何にでもなれるという性質があると分かり、それは真空偏極という現象によって現実のものと確認された。
つまり、この世界は連続的、アナログ的なものではなくって、実は空間にも時間にも最小値がある、不連続的、デジタル的な世界だったということが判明したのよ。
これを、コンピュータのピクセルやクロック周波数の概念に当てはめれば、この世界がシミュレーションだったと考えてもおかしくないじゃない」
少なくとも、人間は原子が寄り集まって出来ていることは、誰でも知っている事実だ。そしてゲーム世界のアバターも、ピクセルが寄り集まって出来ているのだから、見た目では判別がつかないのも分かる。高井はそれだけではなく、現実世界の空間も、ゲームのようにグリッドで表示されていたと言っているわけだ。
「さて、光と温度の関係から、空間が実は不連続だったということが分かったわけだけど、ところで温度とはエントロピーのことだと言う話を聞いたことがあるわよね。エントロピーっていうのが何かって言うと、ざっくり言ってしまえば乱雑性のこと。
例えば、気温20度というのは、適当な空間を切り取ってきた中の空気の分子が、どのくらい乱雑に散らばっているか? という尺度のこと。
系全体の巨視的な状態と、詳細な微視的配列の間にある情報ギャップのことで、非常に哲学的で難解な話になるんだけど、結論を言ってしまえば、実は情報こそがエントロピーであると考えられるのね。
情報=エントロピー=エネルギー。
つまり、水が酸素と水素で出来てるとか、石ころが硬いとか、あなたが男性であるとか、こういった情報もまたエネルギーに換算できるというわけ。多分、全然納得いかないと思うけれど、そういう物だと思ってちょうだい。
ところで、ブラックホールっていうのは何でも吸い込む穴で、吸い込まれた物は中心にある特異点で押しつぶされると、昔はそう思われていた。すると、ブラックホールに落ちた物質は、特異点にピタッと張り付いてしまい振動しなくなると考えられる。つまり絶対零度、エントロピー0の状態であるはずだ。かつては殆どの科学者がそう考えて、それで納得していたんだけど……ベケンシュタインという人だけは、それを良しとしなかった。
絶対零度はまだわかる。しかしエントロピー0とはどういうことか? エントロピーが情報を表す尺度であるなら、ブラックホールに吸い込まれたら情報も消えるということになってしまう。しかし、それはおかしいじゃないか。
情報が消えるというのは、例えば今ここにスマートフォンがあるとして、私がそれをブラックホールに投げ入れたら、スマートフォンを投げ入れたという事実そのものが消えてしまうということと同じである。じゃあ、私は何を投げ入れたのか? 物理的に消えるならともかく、情報が消えるというは明らかにおかしいじゃないか。だからエントロピーは0にはならない、情報はちゃんとどこかに保存されているはずだ。
ベケンシュタインはそう考え、物質はブラックホールに吸い込まれても、きっと情報は吸い込まれずに表面に張り付いているはずだと大胆な予想をしたの。その予想は多くの人の失笑を買ったわけだけど……ところが、とんでもないことに、後にそれが事実であると判明するのよ。
ブラックホールはホールって言っても、実際には球体よね。その大きさはブラックホールの質量、つまり吸い込んだ物質の量に比例するんだけど……その球体の表面積をプランク長さで割った値と、エントロピーの大きさがピッタリ一致するということを、あの車椅子の物理学者スティーブン・ホーキングが突き止めたのよ。つまり、ベケンシュタインの予想はまったくのデタラメではなくて、スマートフォンを吸い込んだという事実は、ブラックホールの表面にちゃんと記録されていたの。驚いたことにね。
ところで、ブラックホールの表面積と、吸い込まれた物質の情報量が比例するということが、どういうことかちょっと考えてみましょう。
ブラックホールの大きさは、吸い込んだ物質の量に比例する。ブラックホールに、あと一粒でも砂を落とせば、ブラックホールの体積は大きくなり、その表面積も拡大する。
つまり、ブラックホールというのは、その空間内に詰め込むことが出来る情報の最大値と置き換えられるわけで、逆に考えれば、情報こそがブラックホールの大きさを決めているとも考えられるわけよね。
なら逆に、こう考えてみましょう。
空間には、その中に詰め込むことが出来る情報量に制限があり、それを超えようとするとブラックホールになってしまう。制限があるというのは、別に少ない分には構わないということ。そして、その情報は空間の表面に記録されている……
ブラックホールの振る舞いを調べていたら、どうもそのような事実が見えてきたのよ。
これがホログラフィック宇宙論というものの考え方なのよ。ある空間を切り取ってきた時、その中に存在する物質は、実は空間の表面に刻まれている情報かも知れない。空間の表面に刻まれた情報が、空間内部に影を落とすように像を浮かび上がらせて見せているのが、この宇宙なのかも知れない。
空間と物質のこの関係性は、後にフアン・マルダセナによって理論的には追認され、そして現在もそれを否定するものは見つかっていない。だから、後はこの関係性が実験によって確かめられたら、私たちは本当に、この宇宙に浮かび上がったホログラフだったということになるんだけど……
それは、後世の科学者たちに任せるとして、ところでこのホログラフィック宇宙論というのは、まさにゲームの中に表示された私たちのアバターにそっくりじゃない?」
ここまで来ると、高井の話はにわかには信じられなかった。だが、困ったことに、ゲームの世界に取り込まれて、世界の外側まで見てきてしまった甲斐には、世界のその姿がありありとイメージ出来てしまうのだ。
「ホログラフィック宇宙論によれば、私たちは切り取られた空間の表面に記録された情報で、目に見えるものはその情報から浮かび上がるホログラフだ。
これをゲームに置き換えれば、私たちはサーバーに保存された情報で、目に映る全てはレンダリングされた映像だ。世界は私たちの目に映っているだけの空間であり、目に見えない壁の向こう側について考える必要はない。
実際に、あなたはその光景を見てきたはずよ。オール・ユー・キャン・暴徒の世界は、実際にはプレイヤー一人ひとりの目に映るだけの空間が、プレイヤーの数だけ存在していた。プレイヤー同士は別々の世界にいるけれど、目の前にアバターが表示されるから、あたかも一緒にいるかのように思えた。でもそれは実際には、サーバーを介して通信が行われていただけだった。
人はそれぞれ、自分だけの世界を見ている。ところで、この世界を見ている『私』とは何者なのかしら? アバターのことでないのは間違いないでしょう?
テセウスの船のように、私たち人間の細胞も、数年で全てが置き換わっている。ところで、捨て去った老廃物のどこに『私』が存在していたのかしら。身体を構成する全ての部位を取り去っても、でも、そこには何かが残っている。おそらく『私』というのは肉体には依存しないんでしょう。
ダウンロードを行おうとした私は、まず被験者の肉体のクローンを作って、そこへ精神を移し替えようとしていた。肉体に再現されたシナプスの電気信号が、『私』を作ってると思っていたから。もしくはDNAが、もしくは脳や心臓に記憶が刻まれているのではないかとも思っていた。でもその方法じゃ、どうやってもダウンロードは出来なかったのよ。それは当たり前よね。
そう、私は論理空間というものを勘違いしていた。
眼が視野に属さないように、『私』という主体も世界には属さない。我々はこの現実に影を落とすホログラフだ。ゲームの世界を思い出してみればわかるじゃない。『私』はアバターの中にあるんじゃない。世界の外側にあるのよ」
高井は現実もゲームと同じようなシミュレーションの世界だと考えている。つまり、今現実に目の前に見えている壁も、向こう側から見たらどう見えているかなんて分からないじゃないかと、そう言いたいのだ。本当は、向こう側から見たらこっちはスカスカで、透明な檻の中で暮らしているようにしか見えないかも知れないじゃないかと。
甲斐には彼女の言わんとしていることがわかっていた。彼は彼女に向かって頷いた。
「あんたの言いたいことは何となく理解できるよ。そして現実世界が、あんたの言う通りコンピューターの中っぽいってことも、ある程度は許容できる。にわかには信じられないがな……でも、それがわかったところで、どうしろって言うんだよ。つまり、あんたはこう言いたいんだろう? 現実世界の俺たちは、実は現実をシミュレートしているコンピューターの中にいるんだって。ダウンロードをするには、そのコンピューターに『俺』をコピーしなきゃいけないんだって」
高井はその言葉に我が意を得たりと頷いたが、
「その通り。でも、その必要はないのよ」
「……必要ない?」
「ええ、だって、あなたは元々、アップロードされたわけじゃないでしょう?」
言われてみれば確かに……今まで、何故自分がゲームの中に囚われていたのか、その理由が分からなかったが、
「つまり、『あなた』は今も現実世界の外側にいると考えられるのよ。現実世界の肉体が滅びたから、『あなた』は行き場を失い、仕方なくゲーム世界のアバターに転生したのだと……なら、現実世界に肉体が復活すれば、元に戻れるかも知れないじゃない。だから私は、あなたならダウンロードが可能かも知れないと、最初に言ったわけよ」
甲斐は呆れるようにポカンと口を開いたまま、
「つまり、俺は正規の手順でアップロードされたわけじゃないから、実はまだあっちの世界に俺の本体は残ってるってことか? 現実世界をシミュレートしているコンピューターの中に」
「かも知れないってことよ。少なくともあなたは、今までパラレルワールドを渡り歩くかのように、現実世界を何度も改変している。それは、現実世界をシミュレートしているコンピューターが、演算をし直していると考えれば辻褄が合うじゃない。そしてゲーム世界で同じ時間を繰り返していたのは、ログアウトしても戻る肉体が無かったからと考えれば、もしも現実世界にあなたの肉体が用意できれば、あっちに戻れるかも知れないじゃない? ……やったことがないから分からないけど」
「う、うーん……なんだか出来そうな気がしてきたよ。だが、まてよ? 戻るにしても、現実の俺の体はどこにあるんだ?」
「それなら、もう用意してあるわ。私が何者であるか、最初に説明したわよね」
「ああ、それもそうか」
現実の高井はアップロード研究者で、ダウンロードを実現するために被験者のクローンや、自分の娘のクローンを作っていたのだ。それと同じように、甲斐の身体を用意することは造作もないということだろう。つまり、準備はもう出来ているのだ。
「後は、あなたがログアウトをすればいいだけよ。ただし、今までの話をよく思い出して、現実のあなたがどこにいるのか、どんな存在であるのかということを、強く意識して。それから、普段通りVRゲームを終えて元の身体に戻るんだと、そうイメージしながらログアウトを行って」
「それが一番難しいんだがな。俺はこんな金持ちの娯楽、気軽に遊べるような立場には無かったんだ……もし、失敗したらどうなる?」
「失敗したら、この会合はなかった事になる。今まで通り、あなたは同じ時間を繰り返そうとするでしょうね。もしそうなったら、また私に連絡が取れるように努力してみて。きっとあなたから接触があれば、私は何が起きているか考えるはずだから、同じことをしようとするはず……」
「そうか」
そうなったら石川に話をつけに行くか、また町中で大暴れでもしてみればいいだろう。それよりもマシなのは、まず失敗しないことだ。
「成功したら、私はそこにいるわ。続きはそこで。次は現実で会いましょう」
高井は話を終えると、口を噤んでじっとこちらの様子を見ていた。今はこれ以上、自分にやれることは無いといったところだろうか。最初に断られたように、妹を助けるには、甲斐が現実に戻るしかないのだ。
なら、やることは一つしかないだろう。甲斐は元々、説明書は読まない主義だ。ゲームをするときは、まずコントローラーを握って、トライアルアンドエラーを繰り返してみる……そういう人間だったではないか。
甲斐はそう思い、いつものような気楽さでメニュー画面を開くとログアウトを決行した。今度は現実世界で高井に会えるように……現実世界の自分の肉体に戻れるようにと、そう念じながら。




