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ルパンダイブ:甲斐①―4

 妹のナビに従って路線バスに乗り、二つほど行った停留所で降りた。そこは相変わらずさっきの大通りのままであったが、最初に居た場所とは違って、街路樹で装飾された道が広くて綺麗で、高級そうなブティックなんかが並んでいる、いわゆる上級国民が住んでいそうな区画であった。


 実際、そういう場所なのだろう、大通りから一ブロック入れば、すぐに敷地面積が広大な邸宅がずらりと並ぶ住宅街が広がっていた。刑務所みたいに高い壁と巨大な鉄扉に隔てられた敷地の中には、誰もが羨むような豪邸が聳え立っていた。セキュリティも万全そうだが、今となってはカモにしか見えないのは何故だろう。ここがゲームの中と知ってしまったからだろうか。


 何も知らなければ純粋で居られたのに……中原中也の詩をぼんやり思い浮かべながら、住宅街をうろついていると、やがて指定された場所にシャッターが半開いているガレージが見えてきた。何故かそこだけ露骨に不用心である。


 中を覗けば、そこにはどこかで見たことがあるようなないような微妙なエンブレムを付けた、ポルシェみたいな車がデデンと鎮座していた。多分、著作権の関係でこんなことになってしまった、いかにも高級そうなこれが今回のターゲットである。何をしようとしているか当ててみて欲しい。難しすぎるかなあ?


「お兄ちゃん。周囲に人が居ないかちゃんと警戒して」


 イヤホンから聞こえてくる妹の指示に従ってその場でしゃがむ。すると視界の端っこがぼんやりと暗くなってきて視野が狭まり、ドクンドクンと心臓の音が無駄に大きく聞こえてきた。いわゆる隠密スキルらしく、心拍数が穏やかであれば誰にも見られていない、ということらしい。監視カメラも含むそうだから、すごい便利だ。そんなことを考えながら、ガレージの中に滑り込む。


「早く! 端末を車のドアに繋いで」


 イヤホンから無駄に緊迫した妹の声が聞こえてくる。端末というのはカバンに入っている、このノートパソコンのことだろうか。これを繋げと言われてもどうすればいいのか……


 甲斐は鍵のかかった餌箱を与えられたチンパンジーみたいな気持ちになって、ためつすがめつしていたら、なんかそれっぽいコードを見つけた。先っぽのパッドをドアにペタっと貼り付けると、いきなりノーパソがピーガガガと音を立て始めた。結構うるさい。


 今どき、こんな主張の激しい機械なんてあり得ないのに、演出のためだけにこういうのはやめて……とドキドキしながら見守っていると、やがてポーンと音が鳴って静寂が戻り、ガチャッと運転席のドアが開いた。


「お~……やるじゃん」


 運転席に乗り込むとコックピットがブーンと雑音を立てて光りだし、ディスプレイに計器類が浮かび上がった。速度メーターとジャイロセンサー、ごちゃごちゃしたコントロールパネルに車の周囲数メートルの地形まで表示されている。今にも空を飛びそうだ。


 その中に見慣れぬ計器があるから何かと思えば、ガソリンの残量を表しているらしい。今どきガソリン車なんて……と思うだろうが、それが今回この車を失敬する最大の理由だった。今となってはこっちの方が希少なのだ。無論、オートパイロットもついていない。どうして金を出して不便を買うのだろうか? 金持ちの気持ちはよくわからない。


「運転できる?」

「それなら任せてよ」


 妹に問われて即答する。偶然だが、以前とうふ屋のバイトをしていた時、やたら眉毛が濃い店主に教えて貰ったのだ。毎朝の峠越えは大変だったが、夕方のバイトと掛け持ち出来るので重宝していた。今どき、車を手動で運転するなんてどんな酔狂だと思っていたが、まさかこんなところで役に立つとは……などと思いながら、スタートボタンを手探りで押す。


 エンジンが始動すると、半開きだったガレージのシャッターが勝手に上がり始めた。多分、そういう仕組みなのだろう。ドッドッドッと全身を震わす大きなエンジン音を聞きながら、ハーネス式のシートベルトを着用する。シャッターが上がりきるのを待ってから、シフトレバーをドライブに入れ、アクセルを踏むと、ゆっくり車は動き出した。


 電気(EV)と違って緩慢な初動である。まるで大型の獣みたいだ……興奮していると、その時、急にどこからともなくピコーンピコーンと警告音みたいな音が鳴り響いた。


「大変! 警察に見つかっちゃったみたい! 急いでその場から逃げて!!」


 そんな妹の声に呼応するかのように、突然、遠くの方からサイレンの音が聞こえてきた。音からして一台や二台では済まなそうである。ガレージに侵入してからものの数分。こんな短期間では誰も通報すらしていないだろうに、犯罪が発生しただけでいきなりこんなに手際よく集まってくるなんて、この街の警察は優秀なんだかガバガバなんだか……


 とにかく、この場でまごついていたら、あっという間に豚箱行きだ。いや、即発砲も十分あり得る。甲斐は慌ててアクセルを踏み込んだ。


 キュキュッとアスファルトをグリップするタイヤの音が鳴り響く。車は獲物を狙う猫みたいに、おしりを左右に振りながら、ビュンッとガレージを飛び出していった。強烈なGに押さえ付けられながら、なんとかハンドルを切って車道に出ると、既に警察車両が直ぐ側まで迫っているのが見えた。10台……20台……何台居るのだ!? 編隊を組むパトカーの中では警官が拳銃を構えている。まさかと思ったが、本当に撃ってくるつもりだろうか……


 幸い、加速はこっちの方が勝っているから引き剥がすのは簡単そうだった。しかしいかんせん、道がわからない。うっかり袋小路にでも迷い込んだらお陀仏だぞ……と思っていると、


「お兄ちゃん、聞こえる!? そこから3つ目の交差点を左に曲がって。直線が続くから、距離を稼げるよ」


 言われたとおりに左に曲がると、開けた3車線道路に行き着いた。一般車両も走っているが、交通量は多くないので、避けて走れないこともない。ただハンドルに集中しないと危険で、バックミラーを見る暇もないから、音だけで警察との距離を測るしか無かった。


 それにしてもこのカーチェイス……いつまで続けりゃいいんだ? と不安に思ってると、視界の片隅で何かが点滅しているのに気づいた。5つ並んだ星のマークで、3つが白く点灯し、2つが黒く塗りつぶされている。これはあれか? 手配レベルとかそういうやつか。これがついてる限り警察に追われるが、逆にこのまま逃げ続ければ、そのうち星が減って追いかけられなくなるんだろう。


 そう思い、ホッとしたのもつかの間、前方で3車線道路が唐突に終わって丁字路に差し掛かった。幅員減少のせいか、右も左も渋滞している。このままじゃ、せっかく稼いだ距離がすべておじゃんだ。甲斐は叫んだ。


「どっちいけばいい!?」

「そのまま、真っ直ぐ!」


 すると、想定外の答えが返ってきて面食らう。右か左か聞いているのに、真っ直ぐとはどういうことだ? 壁に激突しろとでも言うのだろうか。


 焦りながらもよくよく見れば、そこには辛うじて車が一台通れそうな、隙間みたいな路地があった。進入禁止の標識が立っていたが、もちろんそんなことは気にしてられない。甲斐はクラクションを鳴らしっぱなしにして路地に飛び込んだ。


 まさか車が突っ込んでくるとは思いもしなかったであろう、通行人が右へ左へ飛び退っていく。誰を轢き殺してもおかしくないが、今は気にしている余裕はなかった。路地は車幅ギリギリで、ほんのちょっとでも運転をミスれば、壁に激突して横転してもおかしくなかった。しなくっても、すぐ警察に追いつかれるだろう。甲斐はただ車を真っ直ぐ進ませることだけに集中した。


 額には汗がにじむ。今にも神経が擦り切れそうだった。それは時間にしてほんの数秒のことだったろうが、甲斐には永遠に続くように感じられた。この路地は、いつまで続くのだろうか? そもそも、行き着く先には何があるんだ? そんなことを考えてると、


「お兄ちゃん聞いてる!? 突き当りの階段に、スロープがあるの。車いす用だけど、ギリギリ通れるはずだから、そこで思いっきり加速して」

「なんだって!?」


 嫌な予感しかしない……甲斐が反射的に聞き返すと、妹は続けて、


「急勾配だけど、その車のパワーならきっといけるはず。絶対に躊躇しないで、一気に飛んでね!」

「ちょっ!? 飛べって、何を!? おいっ!」

「ゴーゴーゴー!!」


 イヤホンから脳天気な声が聞こえる。ハンドルさばきに神経をすり減らしながら、なんとか前方をチラリと見たら、言われたとおりに階段と、とても車が通れるとは思えないスロープが見えた。妹はぎりぎり行けると言っていたが、多分、両輪を乗せることは不可能だろう。つまり、路地を抜けたらハンドルを切って、片輪だけであのスロープを登りきれということだ……


「ええいっ!! ままよっ!」


 今更Uターンなんか出来ない。甲斐は覚悟を決めるとアクセルペダルをベタ踏みした。ギュンとした暴力的なGと、ギャリギャリっと金属を擦る音と、右のドア付近から火花が散った。そして路地を抜けると、予告通りハンドルを切って、片輪をスロープに突っ込んだ。


 グイッと後ろに引っ張られるような強烈な重力を感じて、視界には空の青が広がった。雲がぐんぐん近づいてくるような錯覚を覚える。そして次の瞬間、急に体がふわりと軽くなったかと思うと、車は水平を取り戻し、気づけば甲斐は運河の上を飛んでいた。


 ほんのちょっぴり斜めに傾いた車の下を、屋形船が通り過ぎていくのが見えた。欄干の手すりにもたれ掛かっていた通行人が、ぽかんとこっちを見上げている。2~30メートルほど先の対岸は、ちょうど土手道に繋がる丁字路だった。このまま飛び越せれば真っ直ぐいける。だが、本当に届くのだろうか?


「届いてくれ!!」


 果たして、彼の願いが天に届いたか、車は無事に川を越え、欄干も飛び越えて対岸へと着地した。


 ドスンと強い衝撃がして、二度三度とバウンドする車の中で、カクテルみたいにシェイクされる。ハーネスがついてなければ、車の中で墜落死しているところだった。横向きに流されていく車体にカウンターを当ててグリップすると、バックミラーには次々と川に落下していくパトカーが映っていた。


「はっ……ははっ! ははははは……げほげほげほ!!」


 乾いた笑いが漏れる。その拍子で思わず咽る。どうやら息をしていなかったらしい。気がつけば、ゴムの焼ける臭いが車内に充満していた。


 視界の片隅で点滅していた手配レベルはいつの間にか消え、何事もなかったかのように、道路を行く車列はスムーズに流れていた。


「今夜はすき焼きだー!」


 そんな妹の脳天気な声を聞きながら、流れに乗って進んでいると、やがて道路は海へとぶち当たった。


「ウォーターフロントだ……」


 その景色に見覚えがあるような気がしたから、よくよく見ればそこは東京湾だった。むちゃくちゃなゲームだから、きっと架空の都市が舞台だと思っていたが、どうやらここは東京だったらしい。


 巨大タンカーがくぐり抜けようとしているレインボーブリッジの上を渡り、首都高湾岸線を南下すると、やがて羽田沖に巨大な人工島が見えてきた。その中央にはこれまた巨大なビルが聳え立っており、東京の街を海から見下ろしている。ちなみに現実世界にも実在している。


 東京湾岸エアフロート。


 世界に冠たる大東京の行政特区だ。あのちっぽけな人工島の中に、世界の富の約9割が集中しているとは専らの噂である。

 

******************************


 妹にナビを任せて川崎へ向かう。古い工業地帯を縫うように走って、とある自動車整備工場へとたどり着いた。盗難車はここで修理され、新しくペイントされて、海外の金持ちに売っぱらわれるらしい。とんでもない錬金術があったものである。


 金持ちが搾取したものを、貧乏人が取り返す。これぞトリクルダウンだ! と豪語する工場長から報酬を受け取る。いきなりリッチになったが、帰りの足が無くなってしまったので、徒歩でえっちらおっちら地下鉄駅を探して、ラッシュアワーに押しつぶされた。


 こんなとこまで再現しなくていいのに……と恨み言を吐きながら安アパートにたどり着けば、妹が宅配ピザで宴を開いていた。すき焼きはどうした?


 もっとも、六畳一間に申し訳程度に付いてきたキッチンでは、そんな凝ったものは作れないだろうし、聞けば妹に家事スキルは皆無らしい。彼女に出来ることは、目覚まし時計の代わりとハッキング、設定上、妹というよりは仕事のパートナーみたいなもののようである。


 そんな妹とピザを食べ、二人でテレビを見ながら駄弁っていると、居心地が良すぎて、ここが現実世界ではないことを忘れそうになっていた。彼女は非常に喋りやすくて話題も豊富だ。何故なら、AIがこちらの考えを完璧に理解して、興味のある話題を延々振ってくれるからだ。見方を変えれば、壁に向かって話しているのと大差はないが。


 そういえば、ステータス画面でアバターを変えてしまったから、朝出かけた時と自分の見た目は変わっているはずだが、彼女は当たり前のように同一人物として受け入れていた。そういう点でも、彼女の機械性はあちこちに窺えるが、不思議と冷たい印象は受けなかった。


 たとえ犯罪は少なくても、現実世界の方がより殺伐としているからだろうか。それともやはり、彼女の見た目のせいだろうか。


 AIが創り出した彼女には、ケチをつけるところが一切なかった。仮にここが現実世界だったら、恋をするのは時間の問題だったろう。これは作り物だ、と自分に言い聞かせていなければ、すぐにでも絡め取られてしまいそうになった。だが、そんなことを意識して何になるだろうか。彼女と話していると楽しい。それだけ享受してればいい。どうせゲームなのだから。


 その彼女は今シャワーを浴びていた。甲斐はベッドの上でうとうとしていた。朝から一日中歩き回っていたから疲れているのだろう。しかし、ゲームの中で疲れるってどういうことだ? ゲーム内時間が深夜に近いから、そういう錯覚がしてるのだろうか? それとも、現実の体も睡眠を欲しているのだろうか。ゲームの中でテレビを見たり、ちゃんと味のあるご飯を食べたり、眠気がさしたり、なんとも不思議な感覚である。


 ユニットバスに仕切りはなく、彼女が占領しているから顔も洗えない。けどまあ、別にいいだろう。ゲームの中で歯を磨かなかったからといって、虫歯になるわけがない。そう思い、睡魔に誘われるままに眠りに落ちようとしていた時だった。


 甲斐は、腕になんかムニッとした感触がしたような気がして、本能的に覚醒した。


 なんだろう? と見てみれば、いつの間にかシャワーから出た妹が、胸を押し付けるようにして隣で寝ていた。寝巻き代わりのTシャツ一枚だけで、胸の突起がバッチリ浮かんでいる。一瞬にして早鐘を打ちはじめた心音を隠そうと身を捩りながら、甲斐は目を丸くして早口に言った。


「あ、あの! りあむさん? なんで、僕のベッドに入ってるの!?」

「なんでって……いつも一緒に寝てるじゃん」

「え!? いつも!?」

「うん。他にどこで寝るっていうの?」


 妹は上目遣いに目をぱちくりしている。その顔を見ようとすると、その下の胸の谷間に視線が吸い込まれそうになる。甲斐は猛烈な吸引力に逆らい、必死に顔を上げて部屋の中へ視線をやった。


 言われてみれば……この六畳間、ベッドが一台しかない。間取りのせいで当たり前に思っていたが、兄妹が二人で暮らしているのならおかしいだろう。同棲カップルじゃあるまいし。


 相手が妹(設定上の)と言えども、男女が同じ布団で寝るのはどうなんだろうか。普通に世間体が悪いんじゃないか。ここは一つ、自分は床で寝ると言って遠慮した方が良いのでは? いやしかし、なんでゲームのNPC相手に遠慮しなければならないんだ?


 などと甲斐が悶々としていると、突然、シャツの裾がクイクイと引っ張られて、


「ねえ……今日はしてくれないの?」

「え?」


 驚いて視線を戻すと、妹は伏し目がちに顔を上気させながらモジモジしていた。その度に、歳のわりには大きめの彼女の胸が腕に当たって、脳みそが痺れるような感触がする。甲斐はごくりと唾を飲み込んだ。


「するって……何を?」

「……もう、お兄ちゃん! 昨日あんなにしたくせに。いじわるなんだから!」


 妹は決定的なことは言わない。言わないが、何を求めているかは言わずともわかる。


「し、しかし……二人は兄妹なのだろう? ……設定上とはいえ……あ! もしかして、義理? 義理ってやつなのか? 全然似てないもんな! いや、仮に実妹だとしてこんな犯罪シティで法律もへったくれもないし、つーかどうせこれゲームだしなあ? あははははは!」


 じゃあ、やっても問題ないじゃんと、甲斐が言い訳のような独り言をまくし立てていると、妹は拗ねるように低いトーンで、


「……もしかして、私のこと嫌いになっちゃった?」

「大好き!」


 甲斐はルパンのごとくダイブした。


**************************


「……えがった……」


 あんなに眠かったのに、今は目がギンギンだった。ついでにあそこもギンギンだった。妹は現在、甲斐に腕枕されながら、すやすやと寝息を立てていた。さっきまで着ていたTシャツはもうつけておらず、上下する胸に、目のやり場に困る。


 それにしても、最初から好感度はマックスだったが、まさかその子とこんなイベントが待っていたなんて……ここがゲームの中だと分かっていたから、躊躇なく飛びつけたが、現実だったら今ごろ尻込みしていたかも知れない。それくらい、現実的じゃない出来事だった。


 繰り返しになるが、VRゲームはとても貧乏人には手が出せない金持ちの娯楽だ。その金持ちがどうして高い金を払ってまで、こんなゲームにうつつを抜かしているのか、その理由の一つがこれだった。


 現実では決して出来ない犯罪を楽しんで、現実ではちょっとお目にかかれないような女の子といちゃいちゃしたり、セックスまで出来る。しかも彼女は、プレイヤーを喜ばせるためならどんなことでもするNPCだ。その体験を買うために、後戻りできないような手術を受けたり、高級マンションが買えちゃうくらいの大金を支払っても、後悔はないに違いない。現実にも、ホステスにマンションを買い与えるスケベオヤジがいると言うではないか。


 だからこそ余計にわからなかった。


 どうして自分が、その金持ちの娯楽の世界に放り込まれているのか。


 いくら思い返しても、昨日、特になにかをしていたという記憶はなかった。ただ目が覚めたら、居ないはずの妹が居て、ゲームの世界に入り込んでいたのだ。だから、そろそろ潮時かも知れない。既にこの世界からログアウトする方法はわかっている。昼間はセーブポイントじゃないからという理由で失敗したが、自室なら問題なく出来るだろう。


 どうしてこうなったかはわからないが、ログアウトすればわかるだろう。あと問題があるとするなら、ついハッスルしすぎてしまったから、現実世界の自分の股間がどうなっているかだが……


「こういうのも夢精って言うのかな……」


 甲斐はそんな下らないセリフを吐きながら、ステータス画面を開き、ログアウトのボタンを押した。


 瞬間、グンッと重力が増すような鈍い感覚がして、深い眠りから覚醒していくような、シュワシュワと泡が弾けるような音が脳を駆け巡った。


 ところが、体が覚醒していく最中、甲斐は何か言い知れぬ嫌な予感に襲われた。このまま起きてはまずいような、そんな気がする。しかし、今更後には引けない。心と体は徐々に現実世界に復帰しようと、輪郭のようなものを捉え始める。


 と、その時、彼はガクンと自分の体が重力に負けてへし折れてしまったような衝撃と、高い場所から落下して全身を打ち付けられたような、強烈な圧迫感に見舞われた。


 脳みそが急に酸欠を訴えだし、慌てて息をしようとするが、その呼吸が出来なかった。口をパクパクとして必死にもがこうとするが、体は金縛りにあったようにピクリとも動かず、徐々に力が失われていくのを、黙って受け入れるしか出来なかった。


 絶望していると、体の覚醒とともに、更に絶望的な痛みに襲われた。ズキズキと、脳髄から噴水のように湧き出す痛みと、全身の血管という血管に泥を詰め込まれたような倦怠感に、たった今目覚めたばかりだと言うのに、一瞬にして意識が持ってかれそうになった。


 目に強烈な光が差し込む。


 どこか見知らぬ天井を見上げた彼の頭上には、手術用の強烈なライトがギラギラと光っていた。辺りには忙しなく動き回る人影と、薬の匂いと、血の臭いが充満している。


「ヒュー……ヒュー……」


 声をあげようとして、そんな風切り音が鳴った。喉が焼けるように痛み、目にじんわりと涙が浮かんだ。


 甲斐が覚醒したのに気づいたのか、部屋内の気配が一瞬だけピタリと止まり、すぐまた慌ただしそうに動き出す。


「バイタル!」「レベルが低下しています」「ショックの準備して!」「聞こえますか! 聞こえますか!」


 あちこちから届く声が混ざり合い、騒音を織りなしている。そんな中、眩しいライトを遮るようにして、上から誰かが話しかけてくる。逆光になってて顔は見えないが、それが医者だということはなんとなくわかった。


「甲斐太郎さん! 甲斐太郎さん! 聞こえますか! あなたは生きてます! まだ生きてますよ!! しっかりしてください!!」


 生きているけど、息は出来ない。甲斐はそんな言葉を返そうとして、声が出せないことに気づいて、泣きそうになった。それをなんとか伝えようと藻掻いてみたら、突然、腕がピョンと電気ショックみたいに跳ね上がり、慌てて看護婦がそれを取り押さえた。


 その一瞬、自分の腕に管みたいなものが何本もつながっていることに気づいてギョッとする。そして声が出せないのは、喉の奥にも管が通っているからだと悟った。呼吸が出来ないのに、酸素が送り込まれているのだ。


 何が起きたんだ?


 何が……


 冷たい何かが背筋を凍らせ、全身がかじかんでいく。事情を知りたいが自分からは何も出来ず、成り行き任せにただ黙って天井を見上げていると、突然、医者に割り込むように、嫌な奴の声が聞こえてきた。


「おいケツ! 気がついたか!? 起きてるな!? 起きてるな!! ケツ!!」

「ちょっ……あんた、やめなさい!」


 怒鳴り声が部屋に響き渡り、医者が何者かに突き飛ばされる。その何者かは甲斐に覆いかぶさるように顔を近づけ、臭い口臭を撒き散らしながら叫ぶように言った。


「おい! 聞こえてるな? てめえ、サインしろ! サインしろよ、このクズ! わかってるな!? おいいいいーー!!」

「ちょっと、いい加減にしなさい、お父さん!」

「おまえがサインだけすればいいんだよ! 絶対しろ! 死にたくなかったらわかってるな! 殺すぞ!!」

「だから死にそうだからやめろって言ってるんだ! おい、こいつをつまみだせ!」


 医者の怒鳴り声が響いて、周囲の看護師たちが甲斐に覆いかぶさる男を引き剥がそうとした。しかし、男はそれを乱暴に振りほどくと、狂ったように叫んだ。


「絶対にサインしろ! しろよ!? しなきゃ殺す! わかったか!!」


 何のことを言ってるのか分からない。分かりたいとも思わない。ただ分かるのは、自分が意識を保てる余裕は、もうないということだけだった。


 そして甲斐は、現実世界で、また意識を手放した。


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