パラレルワールド:マイア④―2
母親の家で過ごしたその日も、マイアは例の夢を見た。
夢の中で甲斐は現実世界に復帰しようとしてプレイヤーを探し始めたのだが、いくら探しても会うことが出来ず、やがて探すのを諦めてしまった。彼はもう現実のことは忘れて、ゲームの中で暮らしていこうとさえ思っていたのだが……ところがそんな時、彼の唯一の身内である妹を人面瘡で亡くしてしまうのだ。
彼は妹を助けるために、幾度も幾度もログアウトを繰り返して、その方法を探ろうとするのだが、しかし現実もそうであるが、そんなうまい方法があれば誰も苦労はしない。いつまでたっても解決策は見つからず、彼は次第に追い詰められていくのだった。
そんな具合に、夢は段々ときな臭い感じになってきているのであるが……しかし、人面瘡? マイアも罹患した現実世界の奇病が、どうしてゲーム世界にまでまん延しているのだろうか? しかも助かるためには心臓移植が必要だなんて、これではまるで、マイアのことを示唆しているとしか思えないではないか……
生前の父は、きっとマイアが誰かの心臓をもらったという罪悪感から、そんな夢を見ているのだと言っていたが、今ならその言葉を信じられる気がする。しかし、その父はそれこそ甲斐のことを調べている最中に殺されたわけだし、警察までもが甲斐という人物の行方を追っていることからして、やはりこれはただの夢ではないはずだ。
マイアは自分の夢でありながら、段々わけがわからなくなってきた。彼は本当に、ゲームの中に存在するのだろうか……?
慣れないダブルベッドで寝ていたはずなのに、下手すれば自分のベッドより快適な目覚めだった。コキコキと肩を鳴らしてベッドから滑り降り、部屋を見回して母の家に泊まったことを思い出した。
執事ロボが持ってきた糊の効いた寝間着を脱ぎ捨て、昨日着ていた服に着替えて、今日またここに泊まるにしても、替えの下着くらいは取りに戻らないとと思いながら、彼女は顔を洗いに行こうと、漫然と部屋を出た。そして出てからIDカードを中に置き忘れたことに気づき、青ざめながらたった今出てきたばかりのドアに縋り付いた時だった。
ゴトゴト……っと、階下から音が聞こえてきて、マイアは思わずビックリしてつま先立ちになってしまった。
誰かいるのだろうか? 別に何か悪さをしてるわけじゃないのだが、見つかったら面倒なことになるんじゃないかと思い、不安になった。昨日、榊に連れてきてもらった時、エレベーターは直接部屋に繋がっていたから、そこはエレベーターホールみたいなものである。
でも、IDカードを持ってなければ入れないはず……彼女はそう思って、誰かいるなら見つからないように、おっかなびっくり中二階の手すりから階下を覗き込んでみた。すると、何故か自分の靴を片手に一足ずつ持った母が、抜き足差し足しながらエレベーターに向かってる姿が見えた。
「お母さん?」
彼女は何をしてるんだろうか? と思いながら声をかけると、母はギクッと体を震わせてから、まるで錆びついたブリキのおもちゃみたいに、ギギギっと振り返り、
「あ、その、あの、マイアちゃん? おはよう……ございます?」
「うん。おはよう」
「昨日はその……よく眠れたかしら? 無理やり連れてきちゃったのだけれども……枕が変わったせいで眠れなかったとかないかしら? あったのならごめんなさい。悪気はなかったのよ?」
「ううん。すっごいよく眠れたよ?」
マイアはそう言いながら階段を降りていった。母はそんな娘のことを、まるで恋人でも待つかのような仕草でソワソワとチラ見している。相手は実の娘だというのにそこまで緊張するものだろうか? そう思うと、その緊張が伝染でもしたかのように、マイアもなんだか足が重くなってきた。母との会話はいつも苦労する。
何か話題が無いかと階下のカウンターキッチンの方に目をやると、そこには昨日執事ロボに出されたディストピア飯が並んでいた。もしかして、朝食をとっていただろうか? だったら、どうしてその途中で逃げ出そうとしていたのかと思っていたら、
「あの……あのね? あなたの意思を尊重するって言っておきながら、無理やり連れてきちゃったじゃない? 本当ならあっちの家で暮らしたかったのかも知れないけど、警察に連れていかれたって聞いたら、お母さん、居ても立ってもいられなくなったのよ。離れて暮らしていたら、いざという時に守ってあげることも出来ないし……本当にごめんね? あなたの意見を聞かずに、母親失格よね……」
母は何か言い訳がましくブツブツ呟いている。マイアは何を言われているのか、最初は分からなかったが、意見だの尊重だの言ってることで、ようやく思い出した。
確か父が死んだ直後、母はマイアがこれからどうやって暮らしていくのか決めなさいと、三田を通して言ってきたのだ。直接言ってこないのもポイントであるが、彼女は多分、マイアの返事を聞かずにここへ連れてきたことを気にしているのだろう。
「そんなことを気にしていたの?」
マイアが呆れながらそう言うと、母はまたモジモジしながら、
「自分で言いだしたことなのに、いきなり約束を破ってちゃ世話ないでしょう? もしかして怒ってるんじゃないかなって思って……でも! あそこで一人で暮らしてるって思ったら、不安だったのよ……」
「うん。それは、仕方ないよね」
マイアが頷くと、母は恐る恐ると言った感じで、
「許してくれるの……?」
「許すも何も、最初から怒ってないよ? 昨日の榊さんも……まあ、ちょっと変わった人だったけど、無理やり連れて来られたって感じじゃなかったし。それに、どっちにしろ、私も一人で暮らしていくのは不安だったから、こっちに来ようって思ってたんだ」
マイアがそう言うや否や、母はパーッと表情を輝かせて、
「本当に!?」
「うん。あ、でも、一つだけお願いがあるんだけど……」
「何かしら?」
「今まで通り、三田さんに生活の補助をお願いしたいんだよ。その……私も大概だけど、お母さんと二人でなんて暮らしていたら……家の中がどうなっちゃうか不安で……」
そう言いながら周囲に目をやれば、ひっきり無しに出入りするお掃除ロボットの数々が目に付き、もしかして何とかなるのかな? と思いもした。しかし、そんなマイアの考えとは裏腹に、母の方はそれはいいアイデアだと諸手を挙げて喜び、
「うん、うん! お母さんもそれがいいと思うわ。彼女ならお母さんも知り合いだし、何も気兼ねすることがないわ。そうだ! なんなら三田さんもここで一緒に暮らせばいいのよ! お部屋ならいっぱい余ってるんだし、そうしましょうそうしましょう! きっと楽しくなるわ!」
「いや、まだ頼んでもいないんだから、それは三田さんにも聞いてみなきゃだけど……」
マイアはホッと胸をなでおろしながら、
「でも良かった。聞いてもらえて。正直に言うとね? ノエルに相談した時は、私もいい考えだなと思ったんだけど、でも拒否されたらどうしようかって、後のことは何も考えていなかったんだよ。受け入れてもらえて本当に良かった」
「……ノエル?」
マイアがその名前を口にすると、母は怪訝そうな表情で首を傾げた。もしかして、自分がプレゼントしたクマに、娘が名前を付けていたことを知らなかったのかな? と思い、マイアはちょっと子供っぽいかなと顔を赤らめながら、
「ノエルは、ほら、小さい時にお母さんに貰ったテディベアがあったでしょう? あの子がね、この間急に喋りだして、色々と相談に乗ってもらってたんだよ……そう言えばノエルってお母さんにもらった時、最初は喋ってたんだよね。私、すっかり忘れちゃってて、突然話し始めた時はビックリしたよ」
「そう……あの人形がまた、自分から話し始めたのね……」
マイアがノエルのことを話していると、母はまた葬式の時みたいに、急に深淵を覗き込むような科学者の目をした。その迫力にマイアがたじろいでいると、母はそんな娘の様子に気づいて、少し悲しそうな笑みを作り、
「ノエル……だったかしら。あの人形のことはよく覚えているわよ。あれはね? 元々、私が子育て支援のために作ったAIだったのよ」
「子育て支援?」
母はこくりと頷いて、
「あなた達が生まれた時、私は双子の子育てどころか、ムズがる子供をどうやってあやしていいかすら分からなかったのよ。それで自分を助けるためにも、子育てに特化したAIを作って、それをぬいぐるみに仕込んだの。ほら、子供ってぬいぐるみが好きでしょう? その子とお喋りできたら素敵じゃない。そう思って、あなたにプレゼントしたらとても喜んでくれて……それで私はこれはいけるなと、よかれと思って商品化しようと考えたのよ……
でも、そうしてあなた達と一緒にインタビューを受けた私のことを、世間は子育てすら満足に出来ない未熟な母親だって攻撃したわ。母親ではなく、機械に育てられる子供たちがまともに育つわけがない。機械の子供たちだの、ペット感覚だの、ネグレクト疑惑なんて言葉が週刊誌やテレビを踊って、当時の私はパニックになったわ」
どうして彼女がそんな目に遭ったのかはすぐわかった。当時の両親は既にゲームが当たって巨万の富を得ていた上に、ベイジングスーツの開発で世界で最も注目されるセレブでもあった。
だから嫉妬されたのだ。
週刊誌もワイドショーもお茶の間も、みんな彼女が失敗するのを手ぐすね引いて待っていた。そんな時にノエルを見た彼らは、それにイチャモンを付けバッシングを始めた。マイアは酷い話に眉を顰めることしか出来なかった。
「今ならそんなこと笑って済ませられるけど、あの時の私にはそんな余裕は無かったのよ。それで、ノエルのスイッチを切って、ただのぬいぐるみに戻してしまったの。あなたはノエルが死んじゃったって言って大泣きしたんだけど……私は慰めるどころか、うるさいって当たってね……本当に、母親失格だったと思うわ……」
うつむいた母の顔がどうなっているのか、マイアからは見えなかった。ただ、あれだけずっと一緒にいたノエルのことを、ずっと覚えてなかった理由は分かった気がした。
「本当に、失敗だった……もしも、あの時、スイッチを切っていなければ……あんな言葉無視してさえいれば……スバルは……」
母はどことなく深刻そうに何かを呟いている。よほど嫌な思いをしたのだろう。マイアはこれ以上彼女の心に負担が掛からないように、話題を変えたほうがいいと考えた。
「そ……それより、近衛さんが死んでしまった事件は、あの後どうなったんだろう? 釈放されてこっちに来てから何も言ってこないけど、警察に協力した方がいいんじゃないかな……?」
マイアがそんな話を口にすると、母はハッと我を取り戻したように顔を上げて、
「え? ああ……そうね。睦月君には、気の毒なことをしたと思うわ」
その目つきは、どこか胡乱げに見える。その言葉もなんとなく他人事と言うか、突き放した物言いに聞こえた。母と近衛は親戚同士で、それなりに付き合いがあるはずなのに……
マイアは少し変だなと思いながら、
「もう知ってると思うけど、警察で私は犯人の映像を見せられたんだよ……そしたらそこに私の姿が映ってたんだ」
「ええ、聞いているわ。災難だったわね。今度から、こういうことが無いよう、まずは私に話を通すように言っておいたわ」
「そうなの? えーと、それは別にいいんだけど……警察は私が犯人だって思って捕まえたようだけど、そしたら今度は私の死体が見つかったって言うでしょう? 本当に、わけがわからなくって……あれは一体、何だったのかな?」
「さあ……」
「お母さん、聞いてる?」
「ええ、聞いてるわ……そうね……複数の可能性が考えられるけど……それは案外、パラレルワールドのマイアだったのかも知れないわ」
母はとことん興味なさそうに、そんなことを口走っている。その突き放した態度は、逆に何か知ってるような、そんな思わせぶりな態度に思えた。マイアは母の顔をじっと覗き込むようにしながら、
「ねえ、お母さん……もしかして、何か知ってるの?」
マイアが不機嫌そうな表情を見せると、母は慌てて首を振って、
「ううん! 全然、何も知らないわ! ただ単に、与えられた情報が乏しい中で、いい加減な仮説を立てて議論するなんてことは無意味だって、そう思ってるだけよ。ほら、お母さん一応科学者でしょう?」
「だからって、パラレルワールドは無いと思うけどな……」
「あら! そんな事全然ないわよ。科学界ではパラレルワールドは存在してるって、大方の意見が一致してるし、お母さんもパラレルワールドは存在する前提で色んな実験を行っているのよ」
「そうなの?」
「エントロピーって分かる? 乱雑性のことだけど。この場合、情報の乱雑性ね……」
マイアがまごついてると、母は返事も待たずに勝手に話を始めてしまった。葬式の時もそうだったが、この母親は自分の関心事なら、まるでスイッチが入ったかのように喋りだす傾向があるようだ。
我が母のことながら、こんなコミュ障で本当に大丈夫かな……と思いもするが、普段のおどおどした態度よりはずっとマシなので、黙って彼女の話を聞くことにする。
「パラレルワールドが存在するってのは、要は私たちの住んでる宇宙と全く同じ宇宙が存在するのか? って話よね。宇宙は物質と、暗黒物質と、暗黒エネルギーで出来てるんだけど……今は物質だけ考えてちょうだい。
この宇宙は、あらゆる素粒子の集合体で、それぞれの素粒子はみんな散らばった状態で存在している。もし、これらの素粒子と同量で、散らばり方も全く一緒の宇宙が存在したら、それは私たちの宇宙のパラレルワールドってことになるわよね。これが前提条件。
けど、そんな宇宙が本当に存在するのか? って話だけど……いきなり宇宙全体のことを考えると頭がこんがらがっちゃうから、まずは簡単な例で考えてみましょう。
あるところに、すごくお洒落な男性が居るとする。彼はとてもお洒落だから、一日だって同じシャツとネクタイはしたくないって考えてるの。そんな彼が80歳まで生きるとして、シャツとネクタイはそれぞれどれだけ必要かって考えると……80年ってのは約29200日だから、3万通りの組み合わせがあればいいわよね? そうすると、例えばシャツを300枚、ネクタイを100本持ってれば、彼は生きている間、一度も服装の被りがない、すっごくお洒落な男性でいられるでしょう……
でも、もし、彼が1万年生きるとしたら? 3万通りの組み合わせを持つ彼でも、割りとしょっちゅう同じ服装をすることになって、全然お洒落じゃなくなっちゃうでしょう? こういう具合に、巨視的に物事を見直してみると、それまで稀だった現象も、一般的によくある現象に変わってしまう。情報のエントロピーにはそういう性質があるのね。
これを宇宙に置き換えてみましょう。宇宙にはそれこそ数え切れないほどの素粒子が存在するけど、でもそれは有限よね? もし、宇宙が無限に広がっているとしたら、さっきのシャツとネクタイの問題と同様に、私たちの見えないところに、私たちの宇宙とまったく同じ宇宙が、必然的に存在することになる。そこには私たちの住む地球と同じ地球があって、私やマイアちゃんも居て、今こうして宇宙の話をしてるかも知れない……」
「……宇宙は無限に広がってるの?」
「ううん。実は、否定されたんだけどね?」
マイアは思わずズッコケそうになった。それじゃ今の話はなんだったのか。母は遠回しに話をはぐらかそうとしただけなのだろうか? マイアが疑わしそうな目つきで見つめると、母はそんなつもりは無いと顔の前で手を振って、
「否定されたのは宇宙の広さが無限ってことだけで、パラレルワールドはちゃんと存在するのよ。さっきのは定常宇宙論って言って、宇宙が静的に永久に存在するって考えられていた時代のお話で、それはビッグバンによって否定されちゃったの。宇宙には始まりがあって、終りもある。それによるとパラレルワールドの出番はないって、そう思われたわけ。
でもね、それもまた宇宙が思いがけず加速膨張していることが発見されて、覆っちゃったのね。実は宇宙の始まりはビッグバンじゃなくて、その前にインフレーションってのが存在するらしい。
それによるとこの宇宙は、無限に存在するインフレーションの中でたまたま誕生した一つに過ぎず、こことは違う宇宙は無限に存在する……その中には、私たちの住むこの宇宙と同じパラメータを持つ宇宙も無限に存在するはずで、それがいわゆるパラレルワールドと考えられるわけ。
その後、超ひも理論の流行で、この宇宙は私たちが知覚できない高次元に存在するって考えられるようになって、私たちの宇宙とは余剰次元で隔てられたところに無限の宇宙が存在するっていう、ランドスケープって考え方が登場した。それによると、たった今、この場所に、余剰次元に隔てられたパラレルワールドが無数に存在しているはずなのよ」
母の話は展開が早すぎて、すぐには理解できなかった。取りあえず、彼女がパラレルワールドはあることを前提として話していたので、マイアはそのつもりで聞いてみた。
「なんかよくわからないけど、パラレルワールドはあるんだね? でも、そんな宇宙の外側なんて遠い場所にあっても、別の私に会いに行けるわけでもないんだし、意味はないんじゃないの?」
「違う違う、パラレルワールドはここにあるのよ……そうね。こう考えてみて?」
すると母はテーブルに置いてあったメモ用紙を二枚破り取って、片方に彦星、もう片方に織姫と書きなぐった。
「ここに二枚の紙があるけど、これらはそれぞれ別々の二次元の宇宙って考えてみて。用紙Aには彦星が住んでいて、用紙Bには織姫が住んでいる。二人はとても近くに住んでいるけど、別々の宇宙にいるから決して出会うことが出来ないの。例えばこうして二枚を重ねてみたら、二人は殆ど同じ場所、距離にして1ミリもない場所にいるのに、用紙Aに住む彦星は、用紙Bに住んでる織姫のところへは、3次元の壁に阻まれて絶対にたどり着くことは出来ない。
私たちの宇宙もこれと同じように、今この場所にパラレルワールドが存在しているんだけど、それは余剰次元の壁に阻まれて見ることが出来ないのよ。その距離は大きく見積もって1ミリ程度って言われてる。つまり、さっきの織姫と彦星みたいに、今この瞬間、私と私のそっくりさんはぴったり重なって存在しているんだけど、私たちはそれに気づけないってわけ」
「いまここに、私が無限に存在してるってこと?」
たとえ、目に見えていなくてもゾッとしない話である。マイアはそれを想像して厭な気分になったが、科学者である母の方は、もっと違うものが見えてるようだった。
「そう……余剰次元を挟んで、私たちは無限に存在する。光は4次元の壁を越えられないけど、重力は越えることが出来るから、パラレルワールドの私の質量が、私に届いているかも知れない。そう考えると、もしかして私たちは、重力を使って何らかの情報をやり取りしているかも知れないわよね。それが世界線を生み出して、私たちは主観によってそれを切り分けているのかも知れない……だからお父さんや睦月君が生きている世界も……スバルが生きている世界があってもいいのかも知れないわ」
気がつけば、母はまた深淵を覗き込むような遠い目をしていた。子供の頃からよく見る目だった。こういう時の母は全然話を聞いてくれなかったから、子供の頃はこの目が嫌いで仕方がなかった。
でも大きくなった今にして思えば分かる。きっとこういう時の彼女は、頭の中が忙しくて仕方なかったのだ。そう、今は受け入れることが出来た。
それにしても、母は何を考えているのだろうか……そんな風に黙りこくってしまった母の顔を見つめていたら、その言葉は唐突に投げられた。
「……ねえ? マイアちゃん。あなたは心臓移植を受けた後から、おかしな夢を見るって言ってたそうね?」
「え? うん……話してなかったっけ?」
「ええ……ところで、もしかして……KAIという名前に心当たりはないかしら?」
マイアは思わず口から心臓が飛び出てしまうんじゃないかと言うくらい驚いた。KAIとは甲斐のことだろうか? どうして母がその名前を?
慌てて母の顔を見つめると、母もまたあの深淵を覗き込むようなドロッとした瞳で、マイアのことを見つめていた。その雰囲気からしても母が冗談を言っているわけではなさそうだった。多分、二人の頭の中にある甲斐は一致していた。




