実際に確かめに行ってみよう:マイア②―1
父も出勤してしまったから、午前中は羽根を伸ばしてのんびり過ごそうと思っていたのだが、そうは問屋が卸してくれなかった。マイアが朝食を食べ終わるや否や、部屋に戻ろうとする彼女の前に、家政婦の三田が立ちはだかった。課題を持って。それも大量に。うず高く積まれた課題の山は、彼女の豊満なバストを完全に覆い隠していた。
これはなんぞやと問えば、マイアが入院中の二ヶ月間に溜まった授業のノートらしい。そういえば今朝方父が、学校は快く復学を許してくれたとかなんとか言って喜んでいたが……これは無理だと即断し、彼女のガードを潜って退散しようとしたが、二ヶ月間殆ど寝たきりのマイアとスーパーお手伝いさんとでは勝負にならなかった。
そんなわけで午前中は、リビングのテーブルに広げられた課題の山を、ひいこら言いながら崩す作業に没頭する羽目になった。入院生活で鈍っていたのは筋肉だけではなく、脳みその方も同じだったようで、あっという間に頭がパンクしてしまい作業は遅々として進まなかった。
三田はそんなマイアのことを監視しながら時折励ましつつ、家事もこなして、ついでに差し入れまでしてくれたが、勉強を手伝ってくれることは絶対しなかった。噂では国大出身だそうだから出来ないわけじゃないのに、してくれないのは仕事の範囲を超えてるからだろうか。彼女はある意味プロフェッショナルなのだ。
とは言え、少しくらい逸脱してくれてもいいのに、こんな時、家庭教師でもいてくれたらな……と思っていたら、午後になって婚約者の近衛が見舞いにやってきた。
近衛はつい最近まで親戚の経営するグループ企業の平社員をしていたのだが、マイアの心臓を探すために休職してしまい、その後復職していない。ただ、父との会話を盗み聞きした感じでは、どうやら近々父の会社に幹部候補として引き抜かれる予定らしく、そうしたら多分、マイアとの結婚話も加速するのだろう。
いよいよ自分も年貢の納め時か……とまでは思わないけれど、本当にこんなトントン拍子に将来が決まってもいいのだろうか? と思う気持ちはあった。近衛のことは嫌いじゃないが、結婚相手として見るというのがどうしても難しいのだ。何しろ年齢が干支一周ほど離れている。
代わりに、頼りになるお兄ちゃんとして見ることは全然可能だった。マイアが品を作って勉強を教えて? と甘えたら、彼はえびす顔で引き受けてくれた。こうなったらしめたものだ。後は虚栄心を満たすように、ひたすら煽てあげれば、課題の山は瞬く間に切り崩されていくことだろう。遠くの方で、三田が頭を抱えていた。
「おかしな夢を見たんですって? その、心臓の持ち主の記憶かも知れないって」
昼食後、三回目の休憩で駄弁っていたら、近衛がそんなことを聞いてきた。多分、父から聞いたのだろうが、今朝の話でタイミングなんて殆どなかったろうに……マイアは自分の預かり知らぬところで、男二人が結託し、どんどん外堀を埋めているのを感じて、ちょっと怖かった。
ともあれ、夢のことは彼女としても気なっていたので、
「ええ、そうなんですよ。なんだかやたら真に迫っていて……」
「それって、どんな風に?」
「お父さんの会社が運営してるオンラインゲーム……オール・ユー・キャン・暴徒でしたっけ? それに、男の人が閉じ込められてるんですよ。最初、彼は自分がどうしてゲームの世界にいるのか分からなくて、ログアウトして確かめようとするんですけど……そしたら現実の世界で彼は死にかけていたんです。彼はまた意識を失ってゲームの世界に戻されるんですけど、今度はそこへ保険屋さんがやって来て、死ぬ前にドナー登録にサインしてって頼むんです」
「保険屋ですか?」
その単語を聞くやいなや、近衛は失笑気味にため息を漏らした。どうしたんだろう? と尋ねてみたら、
「はっはっは。そんな保険、日本には絶対無いですよ。やってることが違法ですから」
「え? そうなんですか?」
マイアが目をパチクリしていると、近衛は頷いて、
「ええ、僕もこの二ヶ月、いっぱい勉強しましたからね。もし、そんな夢のような保険があったら苦労しませんでしたよ」
「でも、近衛さん。私には全然違法には思えないんですけど?」
マイアが首をひねってると、近衛は苦笑気味に、
「視点を変えてみてください。今にも死にそうな人の同意が有効なら、逆に健康な人に同意をもらった直後に、その人を殺してもオーケーになっちゃいますよね?」
「……あー!」
「だから日本ではドナーカードにサインしてから最低一ヶ月は経過していないと、その意思は無効と見做されるようになってるんですよ。そういうわけで、そんな保険は有り得ないんです」
なるほど、確かにそうしなければ、良からぬことを考える連中が現れるに違いない。人間は驚くほど長生きするようになったが、それと共に犯罪の性質はどんどん悪くなる一方のようだ。
マイアは納得すると、博識な近衛に称賛の声をあげた。
「はぁ~……近衛さんは本当に何でも知ってて感心しますね。私なんか、課題も一人じゃ満足に出来ないと言うのに」
「いえいえ、マイアさんも年相応以上に、かなり出来るほうですよ。自信持ってください」
「だと良いんですけど。でも、そっか……それじゃ、甲斐太郎って人は存在しないんですね」
結局、あの夢はマイアの妄想だったようだ。きっと父の言う通り、誰かの心臓を貰ったという罪悪感が、そんな夢を見させたのだろう。これで甲斐という男がゲーム世界に閉じ込められたという可能性は無くなった。それは良かったと思う反面、ちょっと残念でもあった。
もし、出来るなら、彼に会ってみたいと思ってたのに……
「甲斐……太郎?」
マイアがそんなことをぼんやり夢想していると、たった今までしたり顔で彼女に知識を披露していた近衛が、眉をひそめて怪訝そうな表情を見せていた。
「なにか気になることでも……?」
「いえ」
マイアがどうしたのかと尋ねると、彼はすぐにいつもの取り繕ったような笑みを浮かべて否定した。その様子がちょっと不自然に思えたから、マイアはもう少し突っ込んで聞いてみた。すると彼は首を振って、
「本当に何でもないんです。ただ、それはフルネームですか? 夢の中に見知らぬ人が出てくるなんてことは、誰にだってよくあるでしょうが、その人のフルネームまでついてるってのは珍しいですよね?」
「……言われてみれば」
しかも夢の中の甲斐が自分の名前を名乗ったわけではなく、夢の中でマイアと甲斐は同調していて、彼女は自然と彼の名前を知っていたのだ。そんなことがあり得るのだろうか? そう考えると、この体験もかなり奇妙なものと思えた。
それは近衛もそう感じたのだろうか、
「うーん……考えすぎだと思うのですが……マイアさん。あなたが夢で見たのは、オール・ユー・キャン・暴徒の世界だったんですよね?」
「はい。確かそんな名前のゲームです」
「なら、実際にそこへ行って確かめてみませんか?」
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今日はもう勉強はお開きにして、近衛と件のゲームをすることになった。どうせ午後に入ってからは課題も全然進んでいなかったので、三田はため息交じりに許してくれた。でも、勝手に手伝ったことは父親に報告しますからね? と念押しされ、近衛はたじろいでいたが、甘んじてお叱りを受け入れて欲しい。愛である、愛。
それから父親の部屋でVR端末を拝借してきて、リビングのテレビに繋いで貰った。実はマイアはVRゲーム会社のCEOの娘のくせに、インプラントもしてなければベイジングスーツも持っていないのだ。何しろ、両親がその研究のせいで、最終的には離婚まで行ってしまったので、あまりいいイメージを持っていなかったからだ。
そんなわけで、ゲームをするには昔ながらのヘッドマウントディスプレイ方式のギアを使うことにした。これだと五感までは再現されないが、視覚だけは十分な解像度が有るから、ちゃんとゲームは成立する。人間は8割を視覚情報に頼っていると言うではないか。
因みに、甲斐が閉じ込められていたゲームは、スタンドアローンモードとオンラインモードがあったが、初日にコンビニ強盗に遭っている時点でオンラインモードであるのは確定的だった。後は甲斐がどのサーバーにいるかということだけであるが……幸いにも、ゲームはマイアの父が経営する会社のものである。世界中にいくつサーバーがあったとしても、GM権限を持つプレイヤーなら網羅的に調べることは可能であろう。
そのGM権限を社員でもない近衛がどうして持っているのかはさておき……早速、アカウントを作ってゲームにログインする。本当ならVRゲームに慣れてる近衛がやった方がいいのだろうが、行き先がマイアの頭の中にしかないから、彼女がアバターを操作して、近衛がそれを外部でモニターしながらサポートすることになった。
マッチングロビーからゲーム本編にアクセスすると、そこは渋谷のスクランブル交差点であった。
日本人がメタバースと言われると、必ずといっていいほど連想する定番のマップであるが、定番であるだけあってその再現度は完璧だった。マイアはHMDだけのアクセスであるにも関わらず、本当に自分が渋谷に瞬間移動してきたかのような錯覚を覚えて驚愕した。慌てて自分の体を確かめれば、ちゃんと意識した通りに指が動いているのが見え、実際には繋がっていない触覚まで再現されているんじゃないかとさえ思えてきた。
因みに使用しているアバターはデフォルトで、ミカエルという名前のおっさんのものだったのだが、自分とは歳も性別も違うはずの体が、本当に自分のもののようにフィットしていて気持ちが悪かった。その違和感に早く慣れようと四苦八苦していると……
「あれれれれれ……?」
その時、マイアは突然ふわりと体が宙に浮くような感覚がしたと思ったら、いつの間にか、本当に彼女は空から地上を見下ろしているのであった。
見ればそこにはミカエルの死体が転がっていて、何故か急に第三者視点に切り替わってしまって困惑する。
「あ、この野郎、リスキルしやがったな……」
パニクってると、そんな声が背後から聞こえてきて、マイアは慌てて振り返った。しかし、そこには近衛の姿はなく、どうやら現実世界の声を拾ったようである。
まるで神の声を聞いてるみたいだ。と、現実と虚構が入り混じってなんだか落ち着かないなと思いつつ、マイアは姿の見えない近衛に聞いてみた。
「一体、何が起きたんです?」
「初心者狩りですよ。初心者がアクセスするのを狙って、一日中ここで張って、リスキルして楽しんでる下らない連中がいるんです。そんなことしても何の得にもならないんですけど、ただ嫌がらせするのが目的らしくて……取りあえず、1日BANしておきました」
「それは……お気の毒さまです」
初心者狩りの人間性と、今日たまたま近衛と遭遇してしまった不運に合掌する。そうこうしていると、ロビーに戻りますか? というポップアップが目の前に飛び出てきたので、
「一度、ロビーに戻った方がいいんでしょうか?」
「いえ、キャンセルすれば復活しますから、そのままお待ち下さい」
言われた通りキャンセルすると、数秒のタイムラグがあって、ギュインと世界が回転するようなエフェクトの後に、マイアはまたアバターの視点に戻っていた。改めて、自分の指をワキワキさせて、異常がないか確かめる。
そうこうしていると、また近衛が話しかけてきて、いよいよ甲斐の住む街へと向かうことになった。
と言っても、その場所ははっきりとは分かっていなかった。というのも、マイアが見た夢は、あくまで甲斐の視点から見た日常の風景であり、彼がどこに住んでるとか、何歳だとか、何を考えてるとか、そう言った細かい情報は全然分からなかったのだ。
ただし、彼が請け負った仕事のお陰で、おおよその位置は特定できた。もし、彼が受けたのが初心者の定番クエストであったのなら、近衛に言わせれば、いくつかパターンがあるそうなのだ。更に彼が首都高湾岸線に乗って、ウォーターフロントを見たという情報から、また候補は絞れた。
こうして近衛の情報を頼りに、いくつか候補を選び、ネットの地図やストリートビューを駆使して絞り込んでいったら、甲斐が住んでいるのは恐らく渋谷からほど近い街であることが分かった。ただし、二人の住んでいるアパートまでは発見できておらず、ここから先はマイアの記憶を頼りに、実際に現地を歩いてみるしかなかった。
近衛に案内されたバスターミナルから指定のバスに乗ると、次の瞬間、目的地にあっという間に到着してしまった。いわゆるファストトラベルというやつであるが、夢の中の甲斐は同じバスに乗ってもそんなことは無かったから、やっぱりマイアの妄想だったのかなと一瞬弱気になったが……
バスから降りた瞬間、そんな気持ちは吹き飛んでしまった。そこは片道3車線で中央分離帯の上には首都高の高架が架かっている幹線道路で、夢の中で甲斐が見た風景がそこには広がっていたのだ。
通行人がドライバーを襲撃した道路も、そのドライバーが轢かれて吹っ飛んでいったビルも、甲斐がステータスを確認しに戻った路地も、記憶通りに存在している。とすると、甲斐が妹と住んでいるアパートは、このブロックの向こう側だ。マイアはそう確信すると、近衛にその事を伝えてから、急いで路地へ入ろうとして、考え直して来た道を戻り始めた。
あの時、甲斐はコンビニの裏口を通ってきたから、彼のアパートに行くにはそのコンビニを通り抜けねばならない。いくらゲームとは言え、営業中のお店に侵入するわけにはいかないから、遠回りでもちゃんと道路を通って向かおうと思ったのだが……
「あれ……?」
そう思って幹線道路から脇道に入り、目的地の方へ歩いていったのだが……目印にしようと思っていたコンビニが見つからない。通り過ぎてしまったのかな? と引き返してもみたが、どうにも見つからず、あてが外れたとばかりに最初の幹線道路に戻り、覚悟を決めて路地を進んでみたものの……
「おかしいなあ……?」
「どうかしたんですか?」
「夢のとおりなら、ここにコンビニがあるはずなんですけど」
マイアが右往左往している間に、近衛は現実世界で地図を確かめてくれたみたいで、
「その辺のコンビニだったら、もう二つほど行った先の信号の辺りか、かなり引き返した道路沿いですね」
「いえ、ここからすぐ入った場所にあるはずなんですよ……確か、三叉路の角からすぐのとこに」
「三叉路なら確かにありますけど」
そう言う近衛に案内してもらいながら進んでいくと、段々と見覚えのある景色が見えてきて、彼女は期待に胸を膨らませた。ところが、実際にその三叉路のある場所までやってくると、その期待は見事に打ち砕かれてしまった。
たどり着いた三叉路は、確かに見覚えのある場所だった。コンビニ強盗たちの乗った装甲車が突っ込んできた、正にあの道路で間違いなかった。ところが、その道路のすぐ近くにあるはずのコンビニが、いくら探しても見つからなかった。
彼女の記憶のコンビニのある場所には、空きテナント募集の張り紙が貼ってある雑居ビルが建っていて、そしてその向かい側には、ただの空き地が広がっていた。二人が住むアパートは、影も形も見つからない。
「本当に、この場所で間違いないですか?」
「ええ、そのはずなんですけど……」
もしかしたら、このサーバーには存在しないだけかも知れない。そう言う近衛に頼んで他のサーバーを調べてもらったが、どのサーバーもここと同じ光景が広がっているようだった。
元々、このゲームは現実の東京をモデリングした物である。ならばと、ログアウトしてストリートビューでも確かめてみたが、やはりそこには同じような空き地が広がっているだけで、例のアパートはどこにも存在しないようだった。
ゲームを終えて、近衛は帰り際、実際にこの場所を確かめて来ると言って去っていったが、その後の報告でも、残念ながらアパートは見つからなかった。
結局、甲斐という人間は居なかったのだろうか?
しかし、それには中途半端に知らない記憶が混じりすぎていた。確かに、二人が住んでいるアパートは存在しなかったが、そこにマイアが夢で見た街はちゃんとあったのだ。
これをどう考えればいいのだろうか?
ただの気のせいだと片付けることは簡単である。実際、マイアも一度はそう思うことにした。ところが、そうとは出来ない事が、現実に起きてしまった。マイアは翌日も、また甲斐という男が、ゲーム世界にとらわれている夢を見てしまったのである。




