コンプレックス:甲斐②―2
妹との会話が成立しない。何を言われても刺々しくなってしまう。彼女のほんのちょっとした気遣いまで気に触って、つい声を荒らげてしまう。でもその理由を説明できない。
自然と家での会話はなくなり、しんと静まり返った室内で呼吸の音だけが聞こえている。彼女は食事も仕事のナビも淡々とこなして文句一つ言わず、甲斐はその一切を無視し続けていた。そのくせ布団は一式しか無いから、夜になれば当たり前のように同じベッドに入り、当たり前のように性欲を発散した。まるで獣みたいだ。
彼女は所詮NPCで、そういうことをするために生成されたAIなのだから、お構いなしにやりたきゃやっちまえばいいだろう。どこの世界に機械のご機嫌を窺う人間がいるというのか。いや、いるかも知れないが、それとは少しニュアンスが違う。なんにせよ、罪悪感を感じる必要はないはずだ。
しかし、そう思って発散すればしただけ、彼は自分を追い詰めているような気がした。つまるところ、性欲で不安を解消することは出来ない。それはただ先延ばしにしているだけなのだ。根本的な原因を取り除かなければ、いつまで経っても気が休まる日はこないだろう。しかし彼にはどうしようも出来なかった。
妹は本来、このゲームのプレイヤーを助けるチューターにすぎない。だから居なくなっても構わないはずだ。そう思ってご退場願おうと、彼女を消す方法を探してもみたが、そんなものは見つからなかった。多分、ログイン時に設定するとか、現実世界でなきゃ出来ないことなのだろう。元の世界に帰れなくなった今、彼女に消えてくれと言っても、それは自分のことを人間だと思ってる彼女に、死んでくれと言ってるようなものだった。
そしてついに彼は何も出来なくなった。彼女と同じ部屋にいると息がつまり、布団に入ると吐き気さえするようになってしまった。だから彼は逃げ出したのだ。彼女の顔が天使みたいに美しければ美しいほど、彼には耐え難かったのだ。
AIが人間の理想を描き始めてからどのくらいの月日が過ぎただろうか。その間に膨大な機械学習が行われ、今それは完璧に近いと言っても過言ではない。だが、完璧であることと理想は違う。
AIがどんなに美しいものを描いても、いつからか人間はそれを求めなくなっていった。簡単に手に入ってしまうからだ。でも、だからといって、その美しさが毀損されるわけではない。雑に扱えば寧ろより強く罪悪感を感じる。結局は自分に返ってくるのだ。
あの日、何も知らずにこの世界で目覚めた時みたいに、AIだなんだと意識なんかせず、馬鹿になって一緒に遊んでいられたら良かったのだが……もうとてもそんな気になれなかった。
仕事をすると言って家を出た。妹はいつもみたいにナビの準備をしていたようだったが、要らないと言って断った。言った手前、一応仕事は受けてみた。しかし、ナビがないので上手くいかず、時間ばかりが過ぎていき、失敗して当たり前のように殴られた。
ヒリヒリと痛むほっぺたを押さえながら、バス停のベンチに倒れ込む。見上げれば夜空には星が輝き、大きな月の光が街を照らしていた。湾岸に佇むビルはどれもこれも実在する物だった。完全に再現された東京の、その摩天楼の隙間を吹き抜ける風が前髪を揺らしてくすぐったい。口の中に広がる血の味は、本物としか思えなかった。
血の味も、風の匂いも、ぬくもりも、どうしてこんなとこまで再現するのだろうか? 街もビルも人間もみんなハリボテで、中身なんて無くていいのに。現実に近づけ過ぎようとしたせいでか、街のNPC達はみんな自分が本物の人間だと思い込んでいるようだった。そんな自分を本物だと思い込んでる偽物の中で、自分だけが本物だと気を張っているのは、思った以上にしんどかった。機械みたいに喋ってくれればいいのに、本物としか思えないのだ。
ここがゲームの中なんて、信じられないくらいだ。
「星が綺麗だ……」
寝転びながらのつぶやきは空へと吸い込まれていった。ドーナツ化現象と言うやつだろうか。夜になると周囲には殆ど人の気配が無くなり、ここが東京のど真ん中だとは思えないくらいだった。バスはとっくに営業時間外で、明日の朝まで無人だろう。来る途中で買ったアンパンを頬張り、カセットコンロでコーヒーを淹れる。どれもこれも百均で手に入れた物だった。
クレジットはまだたんまり残っていたが、携帯を持っていると妹に位置を特定されるから、折り曲げて川に捨ててしまった。現金は殆ど持っていなかったが、まあ、死ぬことはないだろう。寧ろ清々しいくらいだ。
そうして都会の夜景を眺めていたら、だいぶ気も晴れてきて、他のことも考えられるようになってきた。どうしてさっさと逃げ出さなかったんだろう? やっぱり体か? 体なのか。浅ましい気持ちはあっても、もう、知らない人間が住んでいる家になんて帰りたいとは思えなかった……
「そういや、真一郎はどうなったんだろうか」
ずっと自分の死のことばかり考えていたから、すっかり忘れてしまっていた。保険屋が言うには、弟も一緒に事故にあって現在入院中とのことだった。重傷を負ったそうだが、大丈夫だろうか? あれから結構時間が経ってしまったが、無事で居てくれればいいのであるが……
そう、自分には妹ではなく、弟が居たのだ。その弟の真一郎は、現実世界では唯一気の許せる親類だった。尤も、最初からずっと仲が良かったわけじゃない。寧ろ、弟との思い出は美しいものとは程遠いものだった。
実を言えば、甲斐には幼い頃の記憶がない。本当に小さかったころ、大怪我をして忘れてしまったのだ。気がついたら見知らぬ大人に連れられていて、彼らが自分の両親だと言われても、長い間慣れることはなかった。
そのせいもあるだろうか……? 幼い頃から甲斐は両親に、特に父親から嫌われていた。
甲斐の父・頑強はどうしようもなく凶暴な男だった。内弁慶で外ではヘイコラしていたが、家に帰るとその鬱憤を家族に向かって晴らす、そういうタイプの男だった。対象的に母・美鈴は気が弱く、依存心が強くて自分で考えることはせず、何でも父の言いなりだった。
二人とも、何故かいつも社会に対する一方的な不満を抱えていて、常に一方的に叩ける弱者を探していた。そんな二人にとって甲斐は共通のサンドバッグだったのだろう。彼らはストレスが溜まると、まだ小さな子供を理不尽に痛めつけて、その反応を見て楽しんでいた。
多分、何をやっても仕返しされることのない相手を支配することに酔いしれていたのだろう。父が暴力で甲斐を打ちのめすのは日常茶飯事で、母はそんな甲斐に謝罪しながらも、彼に耐えることを強いた。幼子が涙を必死にこらえる姿を見ることが、彼女の脆弱な心を支えていた。彼女に息子を助ける気持ちなどこれっぽっちも無かったことに気づくのは、もっと大きくなってからのことだった。
本当に幼かった甲斐にとって、日常は理解の及ばない恐怖の檻だった。まだ自分のことすらよく分からないのに、彼は自分の身を守るすべを見つけなければ、生きていくことすらままならなかった。だからひたすら考え続けた。どうして自分は父に嫌われているのだろう? どうすれば、彼に気に入ってもらえるだろう?
その方法は遂にわからなかったが、その理由は大きくなるに連れて段々分かってきた。甲斐と両親は、髪の色と目の色が違うのだ。状況からして多分、自分は母の連れ子だったのだろう。ただ、それが分かったところで、何が変わると言うわけでもなく、単に自分には何も出来ないということが、決定的に分かっただけだった。
両親の態度が露骨に変わったのは、弟が生まれてからだった。
それ以来、甲斐は父から徹底的に無視され、殴られ、理不尽な虐待を受けるようになった。両親が弟だけを連れて三人で外食することも頻繁にあった。というか、甲斐には四人で外食をした記憶はない。
極めつけは名前だ。甲斐は父からケツと呼ばれていた。フルネームの甲斐太郎を文字って『オケツカイタロウ』と馬鹿にしていたのだ。対する弟の名前は真一郎。これではお前は偽物だと言われているようなものだった。
だが、父にケツ呼ばわりされているときだけは、無視されていないのは確かだったから、それが彼には慰めになった。そうしてバカのふりをしてヘラヘラしている間だけは、父は自分のことを見てくれるから、あからさまに馬鹿にされていると分かっていても、彼にはそれが嬉しかったのだ。
本当に救いようのない幼少期だった。
だから、子供の頃は弟のことが嫌いで嫌いで仕方がなかった。
弟はまだ小さくて、自分よりもずっと弱くて、何も出来なくて、バカで、見栄えだって良くないのに、どうして両親に愛されているのか理解不能だった。この理解不能のエイリアンを、なんとかしてこの世界から消せないものかと真剣に考えていた。
だから影でコソコソ虐めていた。両親に知られたら、どんな虐待を受けるかわかったものじゃないから、彼らが居ないときを狙ってこっそりと。赤ん坊は泣くのが仕事なんだから、弟が泣いていたところでわかりゃしないだろう。なのにどうして、胸がチクチクするのだろうか?
でも暫くして、弟を虐める必要もなくなってしまった。母は依存心の強いタイプで、能動的に自分で何かを出来る人じゃなかった。だからだろうか、早いうちから子育てを放棄してしまったのだ。病気だ。
こうなっては兄も弟もない。母はいつも何かに怯えるように足踏みをし、家のカーテンを全部引いて、暗い部屋の中から外の様子をこっそり窺っていた。その母が家事をしなくなったから、必然的に家にある食料が少なくなった。
父は外で食べてくればいいから今までとそう変わりはないが、しかし自分はそうはいかなかった。父が気まぐれに買ってくる食料に、甲斐の分なんて期待できない。だから生きていくために、彼は何でもやらなければならなくなった。
母の代わりに弟の世話をし、その母の食事の面倒も見る。それが出来ることがわかると、彼らの世話が甲斐の仕事になった。こうして家事を取り仕切ることで、彼は食事を得ることが出来るようになった。まだ小学生の彼には苦痛でしか無かったが、生きるためにはそうするしかない。そして憂さ晴らしに弟を殴っていたのだ。
でも、そんな関係もいつかは終わる。中学に上がったころ、甲斐は小学生の弟にコテンパンにやられた。言い訳をするなら、栄養状態の差だと思う。自分は同い年の中でも際立って体が小さく、逆に弟は大きかった。
自分よりずっと年下の弟に力で負けるなんて屈辱でしかなかったが、やり返そうなんて思えなかった。逆にいつも虐めていたから、これから弟にやり返されるんじゃないかと思って怖かった。だからビクビクしながら、慌てて弟に優しくするようになったが……そんな甲斐のことを、弟は決して責めなかった。
それ以来、逆に家事を手伝ってくれるようになったり、父の虐待から守ってくれることもあった。彼の中でどんな変化があったのかは分からない。ともあれ、それが救いでもあり、苦痛でもあった。
自分はずっと弟のことを虐めていたのに、どうして彼は優しくしてくれるのだろうか。父の顔色ばかり窺う日々は、それから弟の顔を窺う日々へと変わっていった。
思えば、甲斐は両親に優しくされた記憶がない。幼い頃の記憶が、文字通り存在しないから。でも弟のことなら、彼が生まれた時から何もかもを覚えている。彼の人生には、常に自分が存在したのだ。そして自分の人生にも……
そう考えると、この理不尽しかない家の中で、弟だけが唯一自分の家族なんじゃないか? そう思えてくるようになった。
こうして彼は、いつしか弟に依存するようになっていた。弟を守ることが、ひいては家族を支えることになり、彼の生きる希望となった。
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パタパタと傘を叩く音が耳障りに響いていた。ふと気がつけば体が芯から冷えていた。ぼんやりしている思考の中で、自分がベンチに横になっていることにようやく思い至った。いつの間にか雨が降っていた。
いつ頃から、いや、どれくらい眠ってしまったのだろうか。体はブルブルと小刻みに震えていて、指先がかじかんで握るとビリビリとした痛みが走った。頭はボーッとして上手く回らない。熱でもあるようだ。
昔からそうなのだが、嫌なことがあると、突然、気絶するように眠ってしまうことがあった。治さないとと思っているのだが、なかなか体が言うことを聞いてくれない。自分のことなのに、まるで他人事のように思っていると、何か違和感を覚えた。
そう言えば、雨が降っているのはわかるのに、それが降り注ぐ感覚がない。それに、さっきから聞こえてる一定のノイズは、まるで傘の下にいるような感じがする……
「お兄ちゃん。こんなとこで寝てたら風邪引くよ?」
そう思って見上げたら、妹が佇んでいるのが見えた。インディゴの男物の傘を少し前方に差し掛けて、大きくて赤い瞳でじっとこちらを見つめている。暗闇に浮かび上がる白い顔は、まるで幽鬼のようだ。
身震いがして顔を背ける。すると傘の端っこの方が視界を追いかけてきた。自分が雨に濡れるのも構わず、甲斐が濡れないように気を配ってのことだろう。それは分かっているのだが、感情は擦り切れたジャージみたいに毛羽立っていた。
「……どうして、ここがわかったんだ?」
「どうしてって、探したんだよ、あちこち」
「携帯は捨てた。俺の居場所はわからないはずだ」
「それはもう、愛だよ、愛。長年の付き合いがあるから、なんとなくかなあ?」
そんなことで見つかるのであれば苦労はないだろう。甲斐は眉を顰めると、自分の体を手で弄った。何か気づかないうちに仕掛けられていたのだろうか。それとも、ゲームの仕様か何かだろうか。妹はそんな甲斐に向かって言った。
「今日は朝から様子がおかしかったから、仕事仲間に見といてって頼んどいたんだよ。お兄ちゃん、失敗しちゃったんだって? あれじゃ仕事にならないって、先方怒ってたよ」
先立つ物が欲しくて、仕事を受けたのが仇となったか……金も得られず、これでは殴られ損ではないか。甲斐は舌打ちした。
「きっと疲れてるんだよ。こんなとこで寝ててもさ、良いことなんて無いから、早く家に帰ろう?」
妹は甲斐の腕をぐいぐいと引っ張っている。甲斐はそんな妹の手を乱暴に振りほどくと、
「いい加減にしてくれ! ここまでしたら分かるだろう!? 僕は君と一緒にいたくないんだ。だから家を出たんだ。分かれよ!!」
「……どうして、そんなこと言うの?」
彼は狂ったように叫び声を上げた。
「どうもこうも、ここはゲームの中なんだよ! 君は、僕の妹なんかじゃなくて、ゲームが用意したただのNPCなんだ! あいつもこいつも、どれもこれも、この世界は全部嘘っぱちで、どこにも本物なんて存在しないんだ!
大体、こんな犯罪者しかいないような街が、どうやったら破綻せずにやってけるんだ? 兄妹でセックスしてるのだって……普通に考えて、おかしいだろう!? ずっと、おかしかったんだ!! なのにそんなおかしな赤の他人のいる部屋になんて、いつまでも居られるわけがないだろう! 君といても、全然気が休まらない。君といると、辛いんだ。だからもう、放っておいてくれ!!」
ぜえぜえと、肩で息をしている甲斐のことを、妹は少し遠巻きに、痛いものでも見るような目つきで、うっすら笑みを浮かべながら見つめていた。それはどうしたら良いのか分からないといった困惑の表情であったが、甲斐には突き立てられた刃物のように冷たく映った。
ズキンと心臓が痛み、呼吸が荒くなる。まるでその視線に気圧されるかのように、甲斐はふらふらとよろけてバランスを崩した。そんな今にも転びそうな兄に、妹は慌てて駆け寄ってくる。しかし、彼は彼女のことを突き飛ばすと、
「いい加減、鬱陶しいんだよ!!」
ドンと両手で押した肩が、信じられないくらい軽かった。彼女は甲斐に突き飛ばされると、為す術もなく転がっていった。傘が宙に舞い上がり、一回転して着地した。そんな軽業師みたいな物体とは裏腹に、妹の方は不格好に尻もちをついた。
ザザザッと地面を擦るスカートの裾が破けて、白い太ももが露わになった。水たまりが跳ねて、強かに腰を打ち付けた彼女の顔が苦痛に歪んだ。地面についた手のひらからは、じんわりと血が滲んでいる。
見上げる瞳は怯えを孕んでいた。でもそれは一瞬のことで、彼女はまるで自分のドジを笑うかのように、すぐにまた兄を気遣うような苦笑を浮かべると、
「あいたたたた……えへへ、お兄ちゃん。疲れてるんならさ、そんな無理して仕事はしなくていいから……だから、今日は帰らない? 一度しっかり寝て、難しいことは、それからまた考えようよ?」
地面に座ったままの妹が手を伸ばす。それは起こしてくれと言うジェスチャーではなく、迷子の兄を連れ帰ろうと差し伸べた腕であった。それくらい、彼にも分かった。
「もし、私がいたら落ち着かないって言うなら、お兄ちゃんが落ち着くまでどっかいってるからさ。ね?」
その姿が、子供の頃の弟と重なって見えた。弟が自分より弱いと分かっているときだけ強気に出て、弱い者いじめで憂さを晴らして……でも、そんな弟にやり返されて、恐れ、怯え、恥じたと思っていたくせに……自分はあの頃と何一つ変わっていないではないか。
彼女は、そう、NPCだ。確かに人間ではないかも知れない。
でも、だからなんなんだ? それで、そのNPCに八つ当たりして、一体何になると言うんだ?
挙句、労われて、取り乱して……何をしているんだ、本当に……
彼はため息をつくと、妹の腕を引っ張った。自分がこれからどうなるかは分からないし、不安になるのも仕方ないことかも知れない。でも、だからと言って、当たる相手は間違っちゃいけないだろう。少なくとも今日はそう思うことにした。




