MEMORY・4 私は彼女が嫌い
4月13日水曜日 午後4:10
白い壁と長い通路。
差し込む日の光に照らされて、私は主人の横を歩く。
昔と違う目線、色彩のせいか、周りに映る全てが新鮮。
この身体になって数年経つが、未だに慣れることはない。
人の話す言葉も主人に教えられた。
難しいので多用はしたくないが、それでも人の言葉が分かるというのはなかなかに興味深い。
頭脳自体が適応対象じゃないけれど、意外と詰め込めば覚える物だというのが不思議である。
「キキ、次の予定をお願いします」
横から主人の声がした。
声を分析し、私に伝わるように変換する。メモリから予定を検索し、日本語に変換して声にする。
「六時、診療。それまで休み」
「そうですか。それでは葵さんの病室でゆっくり……」
主人が私に振り向いたところで、館内放送が流れ始めた。
――城内先生、城内先生。至急、第三手術室にお越しください。繰り返します……――
「おやおや、休憩はできそうにありませんね」
少し残念そうに肩をすくめ、主人が私に振り向いた。
「第三手術室……行きましょうかキキ」
「了解です真一」
私は主人に付き従って歩きだす。
昔から、今の主人の後ろに付いていくのはいつものことだった。
その頃は今の姉さん……朧月絵麗奈に飼われていた。
足を骨折したせいで主人に治療され、破傷風で死んだのは未だ記憶に残っている。
すでにあの頃の体は土の中でバクテリアの餌になっていることだろう。
だけど主人に対する恨みはない。
主人は私を殺そうとしたわけでなく、生かそうとしただけで、運悪く傷が化膿しただけだ。
むしろ主人には感謝すらしている。
死に瀕したはずの私が、今ここで二足で立っている。
これは全て妹が欲しいと言った姉さんと、この身体を作り上げ、私の意志を宿してくれた主人のおかげ。
主人は頭がいい。
人間の雄としてはどうか分からないが、少なくとも私たち猫にとって主人は魅力的な部類に入る。
私に生殖能力が健在であればすぐにでも抱かれるというのに、残念ながらこの体にはついてないらしい。今だ実験段階らしいので作成次第搭載してくれる予定だ。楽しみである。
ただ、人間の知識を得た今でも、主人に雌が寄り付いてこない理由が分からない。
あれだけ仲の良かった姉さんでさえ、交尾意識は持ち合わせていないようである。優秀な雄なのに。
唯一可能性があるとすれば……
「おや……葵さん」
私たちの目の前で病室のドアが開き、一人の少女が壁に付いた手すりに手をかけながら頼りない足取りで現れた。
「城内先生?」
彼女は視線を明後日の方に向けたまま、主人に声をかける。
「どこかに行かれるのですか?」
「え? あ、はい……その……」
口籠る赤坂葵。
白く透き通るような肌に可愛らしい顔、眼にかかる揃った長い髪。
頭頂部が跳ねてアンテナが二本でているようなのはたぶん寝癖だろう。
殆ど寝たきりだからこの寝癖はすでに彼女の個性になっているようだ。
どうやらこの女、主人に交尾意識を持っているようだが切りだせずにいるらしい。
人間の交尾意識は本当に理解できない。
交尾したいなら誘えばいいだけなのに。
だけど、私は葵が嫌いだ。
人見知りで、初めて会うものには警戒心を露にしている。これは生物として尊敬に値できるとしてもだ。病気はダメだ。
眼が見えないなど同情の余地もない。
生まれてからずっと眼が見えないそうだが、これでは狩りもできはしない。
狩りが出来ないから自力で生きることも不可能で、誰かの世話にならないと生きられない。
私達によってはあまりにも生存に向かない存在である。
パジャマをぎゅっと掴み、顔を赤らめた葵は、小さく声をだす。
「ト……トイレ……です……」
まるで媚を売り相手に構われようとする小動物のように、小さく身を硬くする。
「そうですか、一人で大丈夫ですか?」
主人は優しすぎる。なぜこのような死んでいくだけのものに手を差し伸べるのか?
私には理解できない。
でも……それが人という生物なのだろう。いつか、私にも理解できるのだろうか?
「は、はい。城内先生も、第三手術室でしたっけ? そ、その、がんばってくださいね」
何をがんばれというのだこの人間は。
「ええ、ありがとうございます」
主人も訳の分からない言葉にお礼を返す。
本当に人間の言葉は理解できない。
この会話で二人は何かを理解しているのだから謎である。
「それでは失礼します。城内先生」
「はい、また時間ができれば覗いますよ」
そう言って主人と葵は反対方向に歩きだす。
私は知っていた。
葵は眼は悪いが耳はいい。視力を補うために聴力が異常発達したらしいのだ。
だから、私たちが自分の病室の前を通ることに気づいてでてきただけ。
ほら、主人が通路の角に消えるまで立ち止まって待っている。
トイレだって尿瓶で済ませているはずだ。
それなのにいつもタイミングを計ったようにでてくる。
食えない奴だ。ああいう手合いは味方にしたら頼りなく、敵にしたらネチネチと、だから私は葵が嫌い。
「キキ?」
曲がり角の向こうから私を呼ぶ声がする。
無言のまま自分の病室のドアの奥に消えていった葵から眼を離し、私は主人のもとへと駆けだした。