睡魔に負ける小悪魔
四月二日、午後一時半。
「……なぁ、さっきマリセンは『参考になるもの』を置いておいた、って言ってたよな?」
「うん。間違いなく。」
部室の机の上、昨日ボギーらが帰った後に万里香が置いていった本に、落ちている財布を見つけてしまった時のような、無視するわけにはいかないが処理に困ったときの視線を二人は向けていた。
「この本が、今俺たちが行き詰まっている指令を達成するために役に立つ、ってことだよな…?」
「万里香先生を信じるなら、そう。」
生唾を飲み込み、それに手を伸ばすボギー。
その本…いや、雑誌の表紙には、『デュクシィ』という大きな文字と、ドレスを着た女性の姿が印刷されている。
「もしかしてマリセンにもついに……?」
「直接言うのが恥ずかしくて、すごく遠回しに言ってる可能性は捨てきれない。でもボビン。」
「家庭科は苦手だ。そして俺はボギーだ。」
「あいはこれ、単に間違えただけだと思う。」
「………どうしたノリが悪いぞ。」
「だってまだ眠いんだもん…。おまえと遊んでやれるほど元気チャージできてない…。」
「遅くまで音ゲーしてるからだ。」
「見ても無いのによく言う。」
「違うのか?」
「違わんけど。……ふぁぁ、あ……。ん~……。」
さっさと万里香の言う「何か」を作って提出してしまいたい衝動に、ボギーは駆られていた。タスクが一つでも溜まっていると、何をやるにもそのことが浮かんでしまい、集中できなくなる、なんてのはよくある話だ。しかし、ボギーはそれによって過剰にストレスを溜めてしまう体質で、後回しという言葉があまり好きではなかった。
「おい、人をダメにするクッションでダメになってるそこの人。」
「もうダメ人間なのであいはダメだ。ダメェ~~。」
今日もふわふわな見た目も相まって、ダメ人間と羊のハーフが誕生していた。
今のボギーはさながら牧羊犬。なんとかしてこのダメ羊を誘導しなければならない。
差し当たっては、絶対に間違えてここに置かれてしまったであろう結婚情報誌を万里香に返却し、本当のお役立ちアイテムを受け取らねばならない。
「ほぉら、ダメ羊ちゃん、エサでちゅよ~。」
「雑誌で釣れると思うな。あいは紙を食べたりせんし、……くぁぁあ……そもそも…羊じゃない。」
羊は手紙をもらうと中身を読む前に食欲が勝ってしまうやばい動物だと、幼い頃に母から聞かされていたのに!と、ボギーは大げさに困るふりをしてみせる。しかし本当に羊さんは眠いようで、おどけるボギーを全く意に介していない。…いつものおふざけで釣るのは諦めて、別の手段を考えなければならない。
「では、これならばどうだ。」
「……もーうるさいなぁ…。あいは眠……んな、そ、それは購買のおばちゃんお手製の、『超レア一日十個限定手作りフルーツサンド』……!?……ぐぅ…、こしゃくな真似を……!」
普通であれば、学校が開く朝8時半~9時の間に完売してしまうような代物である。だが、おばちゃんが家で作ったそれを運搬するためのクーラーボックスから陳列し忘れていたものを、運よく昼頃に登校したボギーが手にしていたのだった。
甘いもの、特に、メイドバイ購買のおばちゃんのものに関しては目が無い閣下は、その性格上この競争率圧倒的ナンバーワンのそれを、まだ一度も食べたことがない。
ボギーは一度だけ別のクラスの友人に一口分けてもらった事があり、それを閣下に自慢した帰りになぜかケーキをおごらされた、というエピソードも付け加えておこう。
「……分かった。それをくれるなら多分、その、元気はチャージされる。」
「本当にちゃんと手伝うんだな?」
「致し方なし。」
眠気と戦いながら、非常に不服そうな顔で両手をボギーへ差し出す閣下。それを寄越せ、と。
「先にこれ、マリセンに返してからな。」
「…うぅ…。」
うなだれながらも、目の前にある幻のフルーツサンドには抗えない閣下は、ゆっくりとクッションから起き上がり、ゾンビ映画よろしくふらふらな足取りでボギーの後をついていくのだった。
***
「うわ。」
いつも万里香が山積みの書類と戯れている第三職員室へ向かう途中の廊下に、ボギーの顔を見るや、心の底から嫌悪するような目を向ける少女が立っていた。
ボギーの身長は172センチ。後ろをのらりくらりとしている閣下が155センチなのだが、その少女は161センチと、女子高生にしてはやや身長が高めである。
フリクリ部の二人は、まだ授業の始まっていないこの時期にも制服がユニフォームなわけだが、少女が所属しているのは漫画研究部であり、その活動真っ只中である彼女は、汚れてもいいようにラフな格好をしている。ちなみに今日は某有名カジュアル衣料品店で買ったと思しき、シンプルなピンク単色の長袖Tシャツにジャージ姿だ。
「うわ、とはご挨拶だな。よう、元気か師匠。」
「…あたしは君を弟子にした覚えはないんだけど。」
お前が嫌いだとはっきり表に出しながらも、会話をしてくれる辺り本当にいい人だとボギーは感心する。力尽きて背中にしがみついたまま涎を垂らし始めたこの小悪魔にも、ぜひ見習ってほしいものだとため息をつきながら。
「…相変わらず気持ち悪いな君は。その距離感で閣下ちゃんと付き合ってないってのは、色々と不誠実だと思わないの?」
「不純だとでも?」
「ああそうだとも。」
「…俺も悩んでるって毎度言ってるはずなんだけど。」
「そんなことは知らないよ。誰が見ても付き合ってる、最近はなんかそれ以上にも感じるけど……。とにかく、君たち二人の関係は傍から見てると本当に寒気がする。…あたしだけじゃないんだよ?」
ボギーは苦笑した。
周囲の勝手な評価と、それを否定できない自分の立ち位置に。
「…そういうところだよ。やっぱりあんたは俺の師匠だ。」
「残念だけど、あたしは弟子を取らない主義なんだ。何度も言ってるようにね。…ま、漫画を描きたくなったんだったら、考え直してやってもいいけど。」
決してボギーにそんな日は来ない事を知っている師匠は、いつも通りの冗談を述べて、ボギーの肩に顎を乗せて安らかに眠る少女の顔を見た。
「……ほんっと、ぜーんぶ冗談だったらよかったのにね。」
「なんか言った?」
「いいえ、君に言いたいことはとっくの昔に枯れ果ててる。」
「俺は師匠ともっと話したいけどね。」
「……ばーか。」
強気な性格が少し滲んだ可愛らしい顔立ちの師匠は、べーっと舌を出し、低いところで一つにまとめられた髪を揺らしながら、漫研の部室へと戻っていった。
思っていることをきちんと正面からぶつけてくれる彼女のことを、ボギーは本当に尊敬している。
ばーか、というそのたった一言でさえ、ボギーにとっては正当な評価で、自己嫌悪を和らげてくれる大切な魔法のおまじないなのだ。
「あ、くそ、こいつ無意識に涎をこすりつけてやがる……。」
「……うえへへ……ふるーちゅ…さんどぉ………。」
夢の中でふるーちゅさんどぉを食べているのだろう、むにゃむにゃと口を動かしている。
「…まだ食ってないだろ……。」
仕方なく部室へ引き返し、背負って歩くには少し重いリュックサックを、クッションの上にゆっくり下ろす。念のため、後で小言を言われないよう、クッションからでも見える位置にフルーツサンドを置いてから部屋を出る。
「まぁ職員室から帰ってきても、この調子じゃあ起きてないだろうけど…。」
***
――全の傍観者たる天の声は、したり顔でこう語るのだった。
「ボギーにとっての『だらしなく口を開けて眠るふわふわ少女の寝顔』は、小能見万里香にとっての『フリクリ部』と同義である。」
と。
***
「ななな、なぜお前がそれを持ってるんだ!?……あ、すみません!!」
自由創作部:通称フリクリ部顧問、小能見万里香は、私立和ノ平高校第二校舎、その三階の階段脇に構える第三職員室の中で、顔を真っ赤に沸騰させていた。
理由はボギーの手の中のものと、静かな職員室で大きな声を上げてしまったことに対する羞恥の二つ。
「なぜって、マリセンが部室に置いていったんでしょう。多分昨日俺たちが帰った後に。」
心当たりしかない、と頭を抱えて悶える万里香。
「で、本当は俺たちに何を見せたかったんです?」
「…うぅ…ああ、これだ。…………さあブツをこっちに渡せ。」
「やばい奴じゃん……」
万里香はボギーが差し出した結婚情報誌を奪い取り、大切そうにカバンへしまう。代わりにカバンから取り出した本には、でかでかと『フリクリ部』と書かれた画用紙が貼り付けられおり、結構しっかりと製本されている。中身をパラパラとめくってみると、大量の写真や日記のような記述がまず目についた。
「マリセン、これは?」
「フリクリ部の顧問に代々受け継がれる、部の活動日誌のようなものだ。本来記述するのはお前たちの役目だが、今は私が代筆している。」
「そりゃまたどうして。」
「なんだ、そんなにこれに書き込みたかったか?」
「いえ、全く。」
「安心しろ、お前らには今年の入学式以降から書いていってもらうことになるからな。」
「そのままマリセンが続ければ痛って!!!」
万里香の上履きは、去年就任する直前にネットで購入したナースシューズだ。最初はおしゃれにパンプスでも、と考えていたのだが、新活応援セールでかなり安く買えたのでこれはこれで満足している。そのシューズの丸い先端が、今見事にボギーのすねを直撃している。
「せめて太ももの辺りにしろって毎回言ってるだろクソ…!…っ痛ぇ……。」
「お前が素直にならないからだ。嘘は良くない。」
「今の会話のどこに嘘があった!?」
「とにかく、それを二人で見て、それっぽい部の紹介を考えろ。なるべく早くしろよ?」
「…そのつもりだよ。」
言われなくとも、とボギーは嘆息し、部の活動記録を持って職員室を出た。
***
夢の中、少女は幸せそうにフルーツサンドを食べている。
一袋に二つ入りのそれを、少女は一つしか食べていない。
夢の中には、少年もいる。
少年は、少女と談笑しながら、もう一つのフルーツサンドを手にしている。
――そんな光景を、少女は遠くから眺めているのだった。