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最終章:兄妹

 十七年の人生の中で一番長い日は一本の電話から始まった。その日もいつもと同じように両親は出かけていて、兄妹二人での朝食だった。あいかわらず会話は少なかった。

『今日の予定は?』

『別に』

『何時に帰ってくる?』

『七時頃には』

『食べたいものはある?』

『任せる』

 熟年夫婦でも少しは言葉を付け足すだろうにと思いつつ、平常運転の休日を送っていた。パンとかぼちゃスープ、それと牛乳、食後にイチゴと一杯のコーヒーを味わっていた。

 そんな弛緩したムードの中で、ウチのスマホがブルルと震えた。ディスプレイには知らない番号からの着信が示されていた。大体は勧誘の電話か間違い電話か変な奴らからの電話と相場が決まっていたため、ウチは切ろうとしていた。

 ふと一つの可能性があることに気づいた。うざったい電話以外にもウチに電話しそうな人たちがいた。

「はい。もしもし?」

 不審者からの可能性もあったので、名前は名乗らないようにした。

『お世話になっております。剣音プロダクションの田中と申します。香村さんのケータイでよろしかったでしょうか?』

 トクン。トクン。心臓の鼓動が耳の奥まで響いた。反対に家の中で鳴っていた音が入らず、キーンとした静寂が広がっていた。

「はい。そうです」

 冷静になれ。残念ながら落選した、というメッセージかもしれない。相手方に聞こえないように深呼吸をした。

「おめでとうございます。先日のオーディションですが、無事通過しました。つきましてはぜひ最終オーディションに進んでもらおうと思います」

 このときほど意外と自分は俗っぽい、と思ったことはなかった。

「わかりました。ありがとうございます。当日はよろしくお願いします」

 言葉上は淡々としていたが、内心ではガッツポーズしまくっていた。自分の演技が評価されて嬉しいのか、それとも華やかな芸能界に足を踏み入れるミーハー根性があるのか。たぶん半々だろう。少なくとも修道僧みたいに芝居を追求する、というタイプではないみたいだ。

「では○月△日に前回と同じ場所でまたオーディションを行います。追ってメールを送りますのでご確認お願いします」

 先方は事務的な口調で連絡事項を告げた。場合によっては人生のターニングポイントになる瞬間に立ち会うと言うのはどう言う気持ちか、気になるものでもある。

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 最後まで言い切って電話をオフにした。その瞬間、

「うぃっふぃー! イエーイ!!」

 いつになくハイテンションで騒ぎまくった。隣の部屋の方に聞こえるかもしれないボリュームで喜びを表現していた。

「ずいぶんとご機嫌だね。どうしたの?」

 おずおずという感じで兄貴が聞いてきた。その声にはわずかだが硬さが混じっていた。そんな祥太の違和感を特に気にせず、

「オーディションに通っちゃった! 第二段階に進みます! 応援よろしくね!」

 テンションがおかしくなっているとはいえ、珍しく素直な気持ちを出していた。そこまでおかしいことは言っていないと思っていた。兄貴のことだからニコニコ顔でおめでとう、と口にすると予想していた。

「……」

 実際には兄貴は俯いたまま沈黙していた。床の方を凝視して、一言も発しなかった。ウチは初めて不安になり、オロオロと兄貴に目をやった。

「……お、おめでとう」

 絞り出したようなか細い声で口にした。とてもではないがお祝いの色は含んでいなかった。そしてボロボロと大粒の涙を流し始めた。祥太はウチが見ているのを気にせず、ハンカチで拭う気配すら見せなかった。

「……外の空気を吸ってくる」

 すばやい動きでコートを羽織り、あっという間に玄関の方に移動していった。一瞬迷ったが特に追わないことに決めた。人間誰だって一人になりたい時もある。そう思ったのが理由の一つだが、それ以上に兄貴の泣き顔にショックを受けた。

 記憶の限りでは兄貴は泣き顔を見せなかった。少なくともウチの前では涙ひとつ見せないタチの人だった。そんな彼が感情をあらわにすることに、少なからず衝撃を受けた。

 さっきの陽気なテンションはどこえやら。一気に冷めた気持ちになっているところにゲラ子から連絡がきた。文面を読んだらスマホをしまって、コートを羽織った。



 喫茶店に着くとすでにゲラ子は来ていた。ウチが入ってくることに気づくと、大きく手を振って、合図をよこした。さっそく席についてお冷やをもらった後、ホットコーヒーを注文した。

「さてさて。感想戦といこうか」

 ニヤリと笑ってこちらを見た。対してこちらは曖昧に頬をあげた。

「私はオーディション通りました。棗の方はどう?」

 それが言いたくて仕方がなかったようだ。

「ウチも受かったよ」

 同じく彼女に報告をした。先方は戸惑った表情をした。

「えっと。おめでどう、なんだけど。あんた、嬉しくないの?」

 ぴしりと今の気持ちを当ててきた。この子って鋭いな。

「……なんか通るかなと思ってたから」

「あんたって自信家ねえ」

 水をさすことは口にしたくなかったから、ひとまず嘘をついた。少なくともさっきまでハイテンションで騒ぎまくってた奴が自信家なわけない。

「そっちこそ、あんだけ悲観的だった割にはちゃっかり通ったのね」

「いやあ。マジで私はまぐれもまぐれ。本当にたまたま。全然登場人物の気持ちがつかめなかったもの。なんとかイメージで突き進んだ感じ」

 本当にゲラ子にとっては想定外だったのだろう。

「逆にウチは気持ちが自然と入ってきたな。一度演じたことがある、っていうのを外してもなんか一致したの」

 言葉に詰まることもなく、自分自身の言いたいことのようにセリフを発せた。そういう意味でも、オーディションに受かるのも不思議ではない、という感覚も嘘ではなかった。

「ふーん。とにかくあんたの兄貴も喜んだんじゃない? 演劇好きみたいだし」

「うーん。なんかそうでもなかったかな」

 ウチも彼は自分のことのように喜ぶと思っていた。だから祥太が涙を見せたことに、より大きな衝撃を受けたのかもしれない。

「……やっぱりなにかあった?」

 疑心をさらに深めて、彼女は探りを入れてきた。

「……ううん。なんでもない」

 それでもゲラ子に話すのにはまだ躊躇があった。兄貴のことを庇った以上に、自分の中で消化しきれていなかった。友人は軽くため息を吐いた後、

「と・に・か・く。まずは一次突破ということでお祝いだ! 遊びにいくわよ!」

 ウチの手を引っ張って店の外に連れ出した。そのままカラオケ祭りに入った。五時間ぶっ通しで歌っていると、自然と兄貴のことは脇に追いやられた。



 夕方六時頃に帰宅すると、家の中は暗いままだった。休日にふたりだけだと兄貴の方が先、ということが多いから随分珍しい。とりあえず部屋着に着替えて、自分の部屋に戻って小説を読んでいた。そのときはそのうち帰ってくるだろうと踏んで、特に何もしなかった。



 七時半頃になると小説の折り返し地点となった。まだ兄貴は帰ってくる気配になった。ひとまずLINEで何時頃に帰ってくるか連絡を入れた。数分待っても既読はつかないから、また小説を読み始めた。



 九時になったら小説を読み終えてしまった。まだ祥太は戻ってきていない。さすがに気になってしまったから電話をかけた。トゥルルー、トゥルルー。機械的な音が八回ほど鳴った後、

『ただいま電話に出ることができません。ピーっと鳴ったら……』

 無機質な女性の声が聞こえたのですぐに切った。続けて別の電話番号にかけた。

『あら棗。めずらしいわね。どうしたの?』

 そちらの方はすぐに出た。

「……母さん、兄貴から連絡なかった?」

『特にはないけど。……何かあった?』

 こちらの事情を察して、すぐに険しいトーンになった。

「こんな時間になっても、まだ帰ってこないのよ。連絡も全然ないし」

 話している声から自分が不安であることを改めて自覚した。

『わかった。私も知り合いに聞いてみるわ。あんたも心当たりがあったら連絡してみて』

 ピッと切れた。またひとり広い家のなかでボオっとした。普段親しんでいるこの場所が妙に空虚な印象を与えた。冷え冷えとした気を紛らわすために、今度はゲラ子に電話をした。幸い友人にはすぐにつながった。

『もしもし。こんな時間に珍しいね。どうしたの?』

 いつもの陽気な声が耳に入った。

「ねえ。ゲラ子。祥太から連絡ない? いま会ってるとかさ」

 藁にもすがる思いで聞いてみた。

『え。いや。とくにないけど。今年に入って久しぶりに会ったくらいだし』

 予想通りの答えが返ってきた。それぐらいしか接点がないから当然といえば当然だ。それでも思いのほか落胆が大きかった。

『……ねえ。お兄さんに何かあった?』

 異変を察知してこちらの様子を伺ってきた。ここまできたら隠したら仕方がないと思い、

「実は……」

 兄貴が行方不明であることをゲラ子に伝えた。話すごとに身体が震え、わずかに体温が下がっている気がした。

『……』

 数秒の沈黙が流れた後、

『今からあんたの家に行くから待ってなさい。変なこと考えるんじゃないよ』

 なんと言おうかグルグルと考えたが、その間に先方はこちらの返事をまたずにスマホを切った。たしかに話し相手がいるだけ気も紛れると思い直し、素直に友人を待つことにした。その間に何かヒントがないか我が家を見直すことに決めた。

 手始めに一番情報がありそうな、兄貴の部屋をターゲットにした。年頃の男の部屋に入るのに後ろめたさを抱きつつも、緊急事態ということを言い聞かせてそっと中に忍び込んだ。

 部屋の中は彼の印象通り綺麗に片付けられていた。床に物は置いておらず、本棚の埃は払われていて、定期的に空気の入れ替えをしているかのような匂いがあった。机の上には仕事関連の本と黒い革の日記が置いてあった。……日記? 兄貴はそんなのをつけてたんだ。身内の心の中を見るようでかなり気がひけるが、かなり重要な情報があると踏み、中を開いた。ここ最近から今日に至るところを隈なく読みふけた。



 ピンポーン。部屋にチャイムの音が響いた。ゲラ子と電話を終えてから既に三十分も過ぎてていた。ウチは玄関の方に足を運んだ。念のためのぞき穴から外の様子を伺ったところ、

心配げな顔をしたゲラ子の姿が見えた。ホッと軽く息を吐き、ドアのロックを外した。すぐさま勢いよく開かれ、

「棗。大丈夫?」

 いつものハキハキとした、けれども心配のトーンも混ざった声が耳に入った。

「って! ちょっと気をたしかに!」

 ウチの肩をぐいっとつかんで軽く揺らした。側から見るとそんなにひどい面持ちをしていたのか。まったく自覚していなかった。

「ちょっと顔を洗ってきなさい。気分を少し落ち着けた方がいいわ」

 ここは我を通す場面ではないと判断して彼女の言葉に従った。洗面所に行って冷たい水を思いっきり顔にたたきつけた。ひんやりとした触感が頭の後ろまで響いた。動きが鈍くなっていた頭が少しはマシになったような気がする。

 鏡をみると蒼白になっている我が顔が見えた。これはゲラ子が心配するわけだ。改めてリビングにいる友人に顔を見せた。

「棗……。お兄さんから連絡はあった?」

 静かに顔を振った。友人はウチと同じように沈んだ表情を見せた。

「……なにか兆候はあったの?」

「……電話でも話したけど、ウチがオーディションに通ったら急に泣き出しちゃって」

 ゲラ子は眉をひそめて、

「お兄さんのことだから、むちゃくちゃ喜ぶと思ってたけど……」

 ウチと同じ感想を抱いた。それに対する答え、というように黒革の日記帳を手渡した。

「……これって。……でも」

 やはりゲラ子も人様の日記を覗き込むのに抵抗感を覚えたのか、なかなか開こうとはしなかった。

「……読んでいいよ。いまは緊急事態だし」

「ううん……。わかった。……借りるね」

 おずおずとした仕草でページをめくり始めた。真ん中から直近の方に向かって、一枚一枚めくっていった。

 最初はざっと流し読みをしていたが、最近の記載に近くにつれて一文字一文字かみしめるかのように、じっくり読んで行った。比例して険しい顔がさらに険しくなっていった。最後の一行を読み終えたのか、ぱたんと閉じた。

「……あんた、気づいてた?」

「……本当にまったく気づかなかった」

 祥太は他人に弱みを見せないタイプだから。今の今まで感づきすらしなかった。



 日記には彼の日常生活が赤裸々に書かれていた。上司に些細なことでネチネチ言われ、繰り返し似たような作業を繰り返していた。いつも定期的な時間で帰ってきてたから残業はそこまでではないみたいだが、過剰なノルマが課されていた。特に売れもしない商品がノルマであった日には、相当苦しんでいたようだ。得意先だけではなく、昔の友人や先輩・後輩にもそれとなく物を売っていた。何度かは付き合いで買ってくれたみたいだが、次第に鬱陶しくなってきたのか、最近では会ってくれる頻度すら減ってきた模様。

 そんな仕事生活の中、帰宅時間とウチとの交流は気の休まる時間みたいだ。妹の話はなんども出てきた。その日あったことから、自分の作った料理をたくさん食べてくれたことなど。勝手に読んでいてなんだが、上司と険悪なときは引くぐらい綿密に書かれていた。

 先生とのデートも陰ながら一枚噛んでいたとのこと。元々先生と祥太は大学の演劇部の先輩・後輩とのことで、面識が既にあったとのことだ。先生はウチと言葉を交わすようになる前から、兄貴にウチが生徒であることを伝えていた。

 その後のことも定期的に兄貴に連絡していて、ウチからデートに誘われたときも祥太に相談していた。先生は乗り気ではなく、奥さんもいるから何とか断る心算でいた。対して兄貴の方がせめて遊びにいって欲しい、二回くらいはデートして欲しいというのを拝み倒してお願いしていた。先生に言うだけでなく、実際に先生の奥さん(どうやら奥さんとも面識あるみたい)にも許可をとるという徹底ぶりだった。どうりで文化祭の日に先生と祥太が面識あるように見えたわけだ。そもそも古い知り合いでちょくちょく連絡とってたわけだから当然といえば当然だ。

 基本的にウチと話す時間を持つのは苦ではなかったみたいだが、劇に関しては別だったみたいだ。元々高校・大学と演劇部に入っていて、けど一般企業に入ったことで鬱屈したものを持っていた。以前、脚本で詰まっていて祥太に不本意ながら相談した時、祥太は自分が頼られたようで興奮した。ところが妹がコツをつかんで脚本を書くことの楽しみがわかると、モヤモヤするようになった。八つ当たりにも似たものだが、かつての自分が持っていて今の自分を持てないものを持っていることに、軽く嫉妬を覚えた模様だ。

 次にウチに対して鈍痛を覚えたのは高校の文化祭だ。招待されたときは本当にどんなものが出ているものが半分、自分たちのより良いものができていないかの不安半分。そして結果、兄貴の中では過去の自分の作品より出来がいいと判断して、さらにダメージを覚えた。本人は自分が意外と器が小さいことに気づき、またさらにダメージを受けていた。

 最後まで書かれてはいなかったが、トドメは予想通りウチがオーディションに受かったことだった。思い返せばこの時には不審な点の片鱗を見せていた。オーディションを受けることを報告した時、どこか嬉しいという気配がなかった記憶があった。その時もまたもや嫉妬の方が先に出た。どこかで落ちて欲しいと願っていたとのこと。自分でもこういうときは妹の成功を祈っているとイメージしていたので、そのことでもまた苦しんでいた。



 そして結果が今日の朝。願いとは裏腹にウチはオーディションに受かってしまい、失踪したということになる。どこかで予想していたのか、

『もう疲れた……。何かあったら、この世とあの世の間を探そう。もし辿り着いたらそこで休もう』

 と、書かれていた。

「……」

「……」

 我が家は重苦しい沈黙に包まれていた。ゲラ子もなんと言えばいいかわからず、ウチはそもそも何かを発しようという気力すらなかった。

「……ねえ、棗? ここに書いてある『この世とあの世の間』ってなに?」

 そう。兄貴が心の内を直接的な表現で記していた中で、唯一非現実的で空想めいた記述をしてた箇所だった。暗に逃避を示唆していた箇所で、もう何もかもを捨てて『この世とあの世の間』に行こう、そこには良いことも嫌なこともなく、ただ平穏がそこにあるはずだからと書かれていた。そしてそこには子ども時代のウチと一緒に行ったと書かれていた。

「……あんたたち、ひょっとして心中みたいなことを」

「してない」

 さすがにそれはないし、もしそんなこと試みてたら既にこの世にはいない。

「……とりあえず、もう遅い時間だけど、一緒に見て回れるところは探してみる?」

 しばし考えてから、ゲラ子の提案に対してコクっとうなずいた。こういうときは家でじっとしているより、身体を動かしている方が精神的だろう。



 昔よく遊んだ公園、険悪な中でいったレストラン、お互いが通った学校。思い当たるところは一通り行ったが、兄貴はいない。そもそも訪れた気配すらなかった。一件一件あてが外れるごとに、神経がすり減っていった。

 最後の場所を終えた後、気分転換に二十四時間営業のファミレスに入り、スイーツとドリンクバーを頼んだ。店員が去った瞬間、二人とも脱力したように椅子にへばりついた。

「……棗。お兄さんから連絡あった?」

 ちょっとスマホを見てから、ゆっくりと首を振った。

「……そう」

 またガックリと椅子にもたれかかった。これで手がかりはゼロになった。店を回っている中で、両親が警察に会いに行ってるとのことを聞いた。ウチらができることは全部やった、という形になった。ひとまずは甘いものを食べて、蓄積した疲労を紛らわそうとした。

「……」

「……」

 いつもは何かしら口を開くゲラ子も、この時は何も話そうとはしなかった。ただただコーヒーとショートケーキをつついていた。

「……こうなるとは思わなかった」

 弱っている時に、ウチは人恋しくなるのかもしれない。ついつい目の前の友人にこぼしていた。

「……私も」

 そんなウチにゲラ子は合わせてくれた。

「……なんていうか、優しくてもタフなタイプの人だと勝手に思ってた。いつもニコニコしていたから」

 そう。祥太は変わらず笑顔が多かった。いつも小さなことにイライラしてるウチと対照的だった。

「……たぶん。棗の前だとそうだったんじゃないかな。妹に弱っているところを見せたくなかったんだと思う」

 女の子の前ではナイトでいる、そういうキザったらしさの心意気はたしかにありそうだ。

「……じゃあなんで、行方をくらましたんだろう」

 あの人は自分の心意気を意固地に突き通しそうなのに。

「……きっとナイトでいることに、ちょっとだけ疲れたんだよ。祥ちゃんは真面目だからさ。身体と心が悲鳴をあげているときに無理しちゃったんだよ」

 人間誰しも何処かしらで演じている部分がある。あの人は他よりもそのきらいがあった。手を抜けばいいののに、どこか『優しいお兄ちゃん』という役割を徹底的にやろうとしていた節がある。


 そこまで良い妹じゃないのに。


 ぶっちゃけ自分の顔は可愛い方だし、スタイルも演劇をやっているからイケている。年頃の女子だから服を買うのが好きで、華やかな雰囲気を心掛けている。外面は確かにかわいい妹だ。それは認める。

 それでも、それ以上に性格に難がある。愛想は悪い方だし、ネガティブな方にものを見る傾向がある。自分勝手でマイペースで、たぶん動物でいうと猫に近いところがある。そしていつも兄貴に対して喧嘩口調で接していた。何かにつけて文句をいう、揚げ足をとる。その度に笑顔でいたが、絶対にキレて良い場面が多々あった。立場が逆だったらブチ切れていた。

「……こんなことになるぐらいだったら、兄妹なんかにならなければよかった」

 お互い赤の他人のままでいればよかった。子どもの頃は仲がよく、けれども年を重ねるごとに疎遠になっていくような。大人になったらすれ違っても気づかず、もしかしたら気づいて会釈ぐらいはするかもしれない。張り合いはないけど、兄貴は追い詰められることのない関係になれればよかった。

「……そんなこと。……言っちゃダメだよ」

 ゲラ子がゆっくりと、噛み締めるようにいった。友人をみると今までにみたことのない表情をしていた。凪いだ海のような優しい顔。

「……そんなこと言ったら祥ちゃんだけじゃなく、棗も追い詰められちゃうよ。そんなのダメだよ」

 ウチが追い詰められる?

「そんなことはないと思うけどな」

 誰かを精神的に攻撃することはあれど、そのことに対して自責の念を負わないのが香村棗の特徴だ。

「ううん。そんなことあるよ。棗は祥ちゃんと同じで優しくて真面目だから。肩の力を抜かないと祥ちゃんと同じようにポキッと折れちゃうよ」

 まるで小さな子に話しかけるかのような穏やかな調子だ。華やかな彼女がそんな声を出すと、水が染み渡るように胸に響いてくる。

「ウチはやさしくなんかない!」

 だからこそ痛かった。ゲラ子の見ているウチと本当のウチ。全然違っている。この子が見ている通りの自分だったらよかったのに。「……実は私ね。棗と祥ちゃんが羨ましかったの」

「ウチらのことが羨ましい?」

「うん。二人ともすごく仲がいいから」

 仲がいいって。そんな。

「……ずっと喧嘩ばかりしてたのに? 喧嘩するほど仲がいい、って種類のものじゃないよ」

 いつもギスギスしていたくらいだし。

「祥ちゃん、いつも料理作ってくれるし。棗の劇をちゃんと観てくれるし。いつもクリスマスにはプレゼント買ってくれるし」

 少なくとも兄貴は優しいことは確かだ。それでもウチはそれにふさわしい態度を取っていなかった。

「棗もいつもそのことを私に自慢してくるし。いつもことあるごとに祥ちゃんのことを話してて」

 何かあると確かに棗に話していた。

「あと棗も毎年毎年、祥ちゃんにクリスマスプレゼントを買ってたでしょ。ウチも手伝ったことあったし」

 そういえば何年か前に一緒にデパートを回ったっけ。

「もう三軒ぐらいハシゴして。すぐに決めちゃえばいいのにって実は思ってたんだ」

 ああ。確かにウチはその時期になると誰かを人柱にして、プレゼント選びをしてたっけ。

「それくらい、その人のことに時間を使えるんだなって。それって幸せなことだなって」

 ……。

「だから私もそんな関係の兄妹があればいいのになって。まあ、私の場合はそんなホイホイ兄ができなかったからさ。さっさと彼氏つくって買わせなきゃなって思ってるけど」

 いつものゲラ子らしい冗談を言った。

「棗のそういうところはちゃんと伝わってるよ。大丈夫だよ。祥ちゃんは棗のお兄ちゃんだから」

 ウチのお兄ちゃん。

「さっ。これから祥ちゃんを探しにいくから。涙を拭って一呼吸おこう」

 反射的に頬に手を当てると湿った感触があった。ああ。ウチは泣いていたんだ。もう泣いていいんだ。

「……ヒック。うう……。ひっく」

 そう思うと涙が止まらなかった。今まで堰き止めていた気持ちが溢れてきた。

「ぁああ……!!」

 友人の前では取り付くことができず、みっともない姿をさらけだした。やっと祥ちゃんが去った寂しさを素直に表すことができた。もう堰き止めることはできなかった。そんな時に友人は慰めるわけでもなく、フォローするのでもなく、優しい表情でじっとウチのことを見守ってくれていた。



 一通り泣いて泣き止んだら、改めて今できることは何か考えた。

「ヒントはこれよね。最後に書かれてる『この世とあの世の間』ってやつ」

「うん。この部分を読むとウチも昔いったことあるみたいなんだよね」

「だよね。でも棗は覚えてないと」

「うん。まったく。こんな禍々しいところに言ったら嫌でも記憶に残るし」

 兄妹になる前はちびっこで行動範囲の多寡なんてしれてるし、家族になってからは険悪状態で旅行なんてほとんど行かなかったし。せいぜい行ったところなんて夢か幻かわからないヘンテコなところしかないし。って。

「……ひょっとして、マヨヒガ?」

「マヨヒガ? なにそれ?」

 怪訝な表情で友人は聞いてきた。

「えっと。『遠野物語』という民話を集めた本があるんだけど、そこで出てくる不思議な場所みたい。兄貴がいうには人の気配はするけれども、誰も姿が見えない場所、というところみたい」

「なにそれ。気味悪い」

 身体を抱いて震える仕草をしたあと、

「っで。その怪談めいた場所がなんで今でてくるわけ」

「実は……。ウチら小さい時に行ったことがあって……」

「は?」

 典型的な『この子、なにいってんの』というぽかんとした表情をされた。ごもっともとしか言えない。本人ですら夢の話だと思って忘れていたんだから。

「えっと。長い話になるんだけどね」

 ひとこと置いてから、子ども時代の不思議な冒険の話をした。電車に乗ってたらいつの間にか異界に紛れ込んだこと、明らかに不気味な雰囲気の森を通ったこと、変な民家に紛れ込んだこと、そこでお婆さんと出会ったこと(『人いるやん』というツッコミをゲラ子から受けた)、ご飯をご馳走になったこと、帰りにお土産として栞をもらったこと。

「で、これが栞。結構長持ちしてるんだ」

 葉っぱの模様をした細長い深茶色の栞を見せた。

「あんたがよく使ってる栞ね。へえ。これが大切なお兄ちゃんからの初めてのプレゼントね」

 いつもの軽い話し方が戻ってきて、少しホッとした。後半の方は何言ってるか聞こえなかったけど。

「ひょっとしたら祥ちゃんはそこに行ったのかもしれないね。本人にはなんか思い入れがあるっぽいし。たしか電車に乗ってたら、ひゅっと行っちゃったんだっけ?」

 言い方になんかすごい注文をつけたいが、

「うん。そう。気づいたら乗客が誰もいなくなって、気味の悪い駅に着いた」

 久しぶりに思い出すと、よく帰ってこれたなと思う。そういう意味では半分あの世に触れてたかもしれないと思う。

「それじゃ、前と同じことをやってみよう! えっとあのオレンジの電車の終点まで行けばいいんでしょ?」

 あっけらかんと言った。

「あのねえ。普通に電車に乗ってて変なところに紛れたら、この国では行方不明者だらけになるでしょ」

 そうなったら誰かしらが気付くし、何かしらニュースなりなんなりが起きてるはず。

「でも棗は迷い込んだ記憶があるし、祥ちゃんも覚えてる可能性があるんでしょ?」

「うっ。まあ、そうなんだけど」

 夢と見紛うほどのあやふやな記憶だが。

「だったら可能性はゼロじゃない。どうせ八方塞がりで警察待ちなんだから試してみようよ!」

 握り拳を作らんばかりの勢いで、熱烈に主張していた。

「……じゃあ、行くだけ行ってみようか」

 実を言うとウチも残る選択肢はこのマヨヒガだけだと思ってた。ゲラ子とわかれたあと、一人でオレンジの列車に乗って、子どもの頃と同じ場所に行けるか試そうとしていた。友人もやる気満々なので、一緒にいくことに決めた。……本音を言うとあの不気味な場所に一人で入るのは辛いものがあった。



 終電近くの下り電車はスーツ姿の人々であふれていた。みな一様にやつれた表情をしており、ぽつりぽつりと寝込んでいる人も見えた。ゲラ子は思わず、

「……なんか祥ちゃんがドロンしたのもわかるかも」

 周りに聞こえない程度に同情のトーンを込めてつぶやいた。

「うん……。あの人、ストレス溜め込みそうだし。こんな感じになんか疲れちゃったのかもね」

 普段は気にも留めないサラリーマンが目に入り続けた。こうしてみると自分が将来この輪に混じるのは全然想像できそうになかった。そもそも耐えられるかすら怪しいものがあった。

「ゲラ子。働くのって大変そうだね……」

「そだね。私らは今のうちに自由を謳歌しておこうね」

 なぜか二人で残された青春に対する堅い決意を抱いた。

「っと。冗談は置いといて。この路線に乗ってたの? 終点複数あるけど、どれ?」

「……覚えてない」

「えっ。マジ?」

 当たり前だ。小学生がT川とかO梅とかそんな駅名を認識してるわけない。終点付近は行ったことがない駅ばかりだし。とはいえ、

「なんか。後の方になってくると山が見えていたと思う。だから街中の駅じゃないと思うな」

 家出した張本人が言うのもなんだが、真っ暗で一体どこに向かっているのか不安な気分になった。

「まあ、幻想の中かもしれないけどね」

「うーん、となるとコイツとかコイツは違うな。ココも意外と周りは明るいし」

 世間では比較的都会と言われている駅を指して除外していた。

「いちばんありえそうなのはこれよね」

 ひとつの駅を示した。O月駅。他県まで伸びている電車で、たぶんオレンジの電車の中で一番遠い駅のひとつだ。

「少し前にね。家族と八○岳に登りにいったのよ。そのとき通過したんだけど、ホンッッとになにもないのよ。山・山・山。見渡す限り緑が萌えてたのよ。終点近くなのになにもないんだとびっくりしたわ」

 そ、そこまでか。自分の普段乗る電車がそんなとこまで通るとは。それよりも、

「今乗ってるのがO月行きじゃない?」

 行き先板を見ていると、まさに終点駅として書かれていた。

「あら。ラッキー。じゃあ、とりあえずこのまま終点まで行ってみましょう」

 ということで、ウチらはこのまま最後まで乗車することにした。一か八かの賭けとなるが。しっかし、改めて見ると遠いな。


 ウチらが乗ってきたときは混雑していたが、郊外に出るにつれて空いてくるようになってきた。T川を越える頃にはウチらもシートに座れるようになった。乗客はほぼ全員座っており、一同寝ているかスマホを弄っているかのどちらかだった。外はもう街明かりが見えず、ただただ真っ暗闇が広がっていた。久しぶりにみても不気味だな。

「ずいぶん都会から離れたね」

 薄寒さを紛らわすために、隣の友人に声をかけた。

「そだね。あまり夜には乗りたくないね」

 同意してくれた。ゲラ子も同様の気味悪さを抱いていたのか、

「あんたって不思議なことをしょっちゅう経験してたの?」

 そのまま話しかけ続けてくれた。

「いや。そんなことないよ。いたって平凡な人生を歩んできたよ」

 異界に迷い込んでたら命がいくつあっても足りない。そういえば夢の中で猫又に会ったこともあったっけ。あれはとりあえずノーカンでいいか。

「ふーん。私は一度もなかったな。そんなこと」

「……まあ、普通はそうでしょうね」

 そう頻繁に起きていたら不思議が不思議でなくなってしまうし。

「なんか。うらましいな」

「うらやましい?」

 意外な言葉が友人の口から出た。

「なんか。そういうのいいなって。ちょっと扉を開けたら違う世界に紛れ込むって言うのが。夢があるというか」

 どうやらウチの言葉だけを聞いて、ジ○リのような絵を想像したみたいだ。

「繰り返すようだけど、あまりいいもんじゃないわよ」

 ちゃんと訂正しないと無駄に期待値を上げかねない。

「ふふ。そういうのをひっくるめてよ」

 こういうのは言葉をいくつ重ねても伝わらないだろうな。ウチは周りを見た。短く深呼吸して、

「よかったじゃない。不思議な世界をあんたも味わえるよ」

「えっ?」

 いつの間にかシートで熟睡していた人、スマホを触っている人は消えており、車内はウチら二人以外には誰もいなくなかった。外の風景も電灯含めて全くあかりが見えない状況となっていた。そして行き先表を見ても次の駅の表示が出ず、そもそも何も映っていなかった。車内の空気からして、日常とは違う肌触りがしていた。

「……感想は?」

「……B級ホラー映画を観てるみたい」

 かたい表情で口にした。この段階でウチと同じ感覚を持っていただけるようでよかった。わーいと変なところに紛れ込んだら、それこそ行方不明になりかねない。

「っで、とりあえずこれに乗り続ければ、マヨヒガ近くの駅に辿りつけんだっけ?」

「そう。ウチも兄貴と心細い気持ちのまま乗ってた記憶がある」

「うーん、戻りたくなってきたわ」

「旅は道連れということで最後まで付き合ってもらいます」

 引き続きウチらがたごとと揺れる電車に乗っていた。次の駅に着くような時間が経っても、全く停まる気配は見えなかった。スマホの画面を見ようとするも真っ暗。電源ボタンを軽く押しても長押ししても起動する気配はなし。ゲラ子の方を見せてもらうと、同じようにタイミング良くバッテリー切れ。

「……ホント、お約束をなぞってるわね」

「ウチらはこんな台本を書かないようにしようね」

 それから体感時間で三十分ほど電車に揺られた。時間を確認できるものは何もなく、ただただ身体から発せられるシグナルで推測していた。緊張感が薄れれる中、突如徐行し始めて車内の揺れもゆっくりしたものになった。無変化に飽きていたウチらはすぐに立ち、扉近くの方に足を進めた。

 列車の進行方向にぼんやりとした灯りが見えてきた。近くに連れて光の強さが大きくなり、周りの風景も微かに見れるようになってきた。

「あれは……駅?」

「……みたいね」

 建築物がはっきりと見えるように比例して、電車のスピードも落ちていった。やっとこそさ停止すると、スルスルとドアが開いた。ウチらはこのタイミングを逃さないように、即座に外に出た。


ーーぷしゅー


 ホームに降り立ったところ、瞬く間に電車は移動し始め、あっという間に暗闇の中に姿を消した。ホームには自分たち以外に降りた客はいない。なんという駅か示す看板はない。自販機や売店やら生活感を抱くものはあるはずがない。そこはかとなく薄寒い空気が充満していた。

「いやあ、一度でいいわな。この空気」

「まだ中間地点だよ。こっから結構歩くよ」

 テクテクとホームの外に出た。子どもの頃と変わらずコンビニやらカラオケやら、現代日本を思わす建物は何もなかった。遠く向こうの方に微かな光が見える程度だった。

「あそこがマヨヒガ。あそこに向かって歩くわよ」

 目の前にはマヨヒガに続くための原っぱが広がっていた。間を挟む形で、いかにも何かありそうな怪しげな森が広がっていた。改めて見ると、よく生きて帰ってこれたな。

「……らじゃ」

 もうここに来る前の元気はゲラ子から消え失せていた。それでも健気にウチにひっついて、ついてきてくれる心意気は示してくれた。

「……それじゃ、行きます」

 かつては引っ張ってもらった場所は、今度は引っ張っていく形で足を踏み入れた。足元は現実世界の山と同じように、ざくっざくっとした土の感触があった。一歩一歩確実に進んでいき、転ばないように注意した。

 森からはホーホーとふくろうの鳴き声っぽいものが響いていた。がさがさと小動物が動く音も鳴っていた。あの頃は気づかなかったが、余裕を持ってみると森の方から監視されてるような視線を感じた。当然、そっちの方を見て相手を確かめるほどの度胸はない。正直逃げ出したいほどた。

「……。ぅぅ」

 それでもここまで付いてきてくれた友人がいて、その友人がウチを頼りにして前に進もうとしてくれている。そう考えると逃げるわけにはいかなかった。そして不思議なことに、誰かに後ろに付いてきてもらうと、ささやかな勇気が湧いてくる。なんとかこの森を抜け出せるんじゃないかという、根拠のない自信が出てくる。ひょっとしたら祥太はウチがしがみついていたから、飄々とした顔をしていられたんじゃないかと今になって思う。



 体感的に一時間くらい歩いたところで、見覚えのある集落にたどり着いた。今日も家々からは夕餉の煙が空に延びていた。辺りはお腹が空く匂いが漂っていた。そして小さい頃と同じように、生活感はあるけれど人の気配が全くしなかった。

「……なんか、懐かしい匂いがするね」

 さっきまでのオドオドはどこかへ去っていき、いつものハキハキさを取り戻して藁葺きの民家を見渡した。今まで住んだことのないのに、かつてここで遊んで暮らしていた。そんな不思議な感覚を催させてくれる。

「……変わってないな」

 小さい頃に迷い込んだ頃と同じ景色が広がっていた。祥太がいたらなんていうかな。って、そうだった。

「祥太を探さなきゃ」

「おっと。そうだった」

 感傷に浸るのは後回しにしなければならない。早く兄貴を見つけなければ。とはいえ、どこにいるんだろう。ひとまず数件の家の前をキョロキョロしながら歩いていると、

「こんなところにはお兄ちゃんはいないよ。お嬢ちゃん」

「うわっ!!」

 心臓が縮む思いがした。目の前をみると老婆が一人いた。以前と同じ割烹着をまとっており、目元や口元には人の良さそうな笑顔が現れていた。そして相変わらず登場するときにはなんの音も聞こえなかった。

「お、おひさしぶりです」

「久しぶり。元気だったかい?」

 こっちの緊迫感を把握してるのかどうかわからないが、ゆったりとした声で話しかけてきた。調子を狂わされていると、

「挨拶もそこそこで悪いんだけど、ばあちゃん。この子の兄貴がどこに行ったか知らない。ひょっとしたらここに来てるかもしれないんだ」

 おばあちゃんと顔見知りでないため、ゲラ子は臆せずガンガンと探りを入れた。さっきまでのしおらしさはあっという間に消えていた。対して目の前の老婦人は、

「ああ。知ってるよ。ついさっき見かけたしねえ」

 さらっと答えてくれた。

「ウソっ!? ありがとうございます!」

「いったいどこにいたんですか!!」

 にらんだ通りの結果になり、一気に色めきだった。

「ええ。どうしようかしらねえ」

 ぶん殴りたくなるようなのらりくらりをし始めた。

「ばあちゃん、殴っていい?」

 友人はダイレクトに口にしていた。

「ちょっと!? 重要参考人に対して何言ってんの!!」

 慌てて彼女の頭を抑えて、一緒に謝らせさせた。

「いいのよいいの。若いときは血の気が多い方が楽しいからねえ」

 こちらの温度感を一向に意に介した様子をみせなかった。

「あの。すみません。ウチら急いでいるんです。兄が危ない目にあっているかもしれなくて。お願いですから、居場所を教えてください」

 かつてないほどの誠意と必死さを込めて情報提供を依頼した。

「安心せい。あの子はまだ無事じゃよ」

 ゆっくりと語りかけるような音色で口にした。

「ホントですか!!」

「ああ。じゃからあんたらもご飯を食べにおいで。出来立てホヤホヤじゃよ」

 後ろを向いて古民家の方へ歩いて行った。

「ちょっとばあちゃん!! ウチらにそんな余裕はないよ!」

 友人は若干怒鳴るように口にした。ウチは彼女の肩をグッと抑えて、

「イニシアチブはあの人にあるんだよ。お願いだからそんな喧嘩腰にならないで」

 言い聞かせるように呟いた。ゲラ子はむすっとした顔をしつつも、

「……わかったよ」

 渋々ながら従ってくれた。内心でほっと一息しつつ、

「大丈夫。勘なんだけれどあの人は信じていい気がするんだ」

 たぶん。

「……はあ」

 友人は疑わしげなジト目をこちらに見せた。それでも何も言わず、老婦人の後をゆっくりとついて行った。



 不平・不満が溜まっていることを露骨に出していた友人も、おばあちゃんの家に入ると好奇心旺盛な少女に戻ってキョロキョロしていた。

「うわぁ。いい匂い」

 焼き魚の香りが居室中に充満していた。真ん中にある囲炉裏を見ると、細長い魚が挿してあった。

「ばあちゃん。これなに?」

 さっきまでの攻撃的な雰囲気はすっかり消え、なれなれしく話しかけていた。

「ああ。これは鮎だよ。近くの小川で取れたんだ」

 この辺に川なんてあるんだ。

「おいしそう!」

「すぐ用意するか待ってなさい」

「はーい」

 早くもくつろいでいるゲラ子。ウチよりも親しそうだ。ひょっとして実はこの家の出身なんじゃないのかと疑問に思うほどだ。もう炉端に座って、手を温めたりもしている。

「変わり身が早くない」

 ついつい呆れた声が出てしまった。

「へへっ。なんかここ甘えたくなるような空気があってさ」

 言わんとすることはわかる。自分も子どもの頃に来た時も、最初の家出の怒りは何処かへ消え失せ、兄貴と旅行に来たような気分になっていた。

「嬢ちゃんたち。できたよ。お食べ」

 家主がウチらの膳を運んできた。二人は慌てて立ち上がっておばあちゃんから物を受け取り、自分たちの前の席に置いた。

 老婦人自身の前にも膳が置かれた。三人に行き渡ったのを確認したら手を合わせて、

「いただきます」

 と口にした。ウチらも続いて、

「いただきます」

「いただきます」

 と挨拶をした。そして生涯二回目の謎食事会が始まった。目の前には鮎の塩焼きにナスの煮付け、山菜の天ぷらに何かの肉の紙焼き、白米にわかめと豆腐の味噌汁が乗っていた。一口ナスの煮付けを食べる。

「……おいしい」

 なにで取ったかはわからないけれど、繊細な出汁の味がした。鮎の方は中がほかほかでさっぱりした風味があった。少しは大人になったからわかる。絶対にこれ滅多に食べれない料理だ。

「ばあちゃん。ご飯おかわり」

 厚かましくも友人は早くも次の白米をねだっていた。ばあちゃんは心持ちうれしそうにお櫃からご飯をよそっていた。

「ほい。たくさんお食べ」

「ありがとう! いくらでも入っちゃうよ」

 そしてまた勢いよくご飯を口の中に入れていた。

「……太るよ」

「うるさい」

 ウチの小言も軽くいなされた。人の姿を見ていると影響されるもので、自分も余計にお腹が空いて、いつもよりも速いペースで箸を進めていた。

「あの……。ウチもおかわりください」

 人のこと言えず、結局もらっていた。

「いいよいいよ。どんどん食べな」

 気にせずによそってくれた。

「棗。太るよ」

「大丈夫。ウチいくら食べても変わらない体質だから」

 とりあえず今は。未来のことなんて気にせずに、ひとまず現在を楽しめばいいのよ。友人はすぐに気にしなくなり、ナスの煮付けをおいしそうに食していた。

「いやあ、ホントおいしいよ。旅館とか民宿とか開けるんじゃない」

 調子のいいことを言っていた。

「いやあ、やってみたいのは山々だけど。ここは観光地じゃないし、普通の人はなかなか来ないとこだしね」

 そうだった。旅行気分にひたりまくっていたけど、ここは怪しさ満点なとこだった。

「たしか……。『探し物を探すための場所』でしたっけ」

 おぼろげながら思い出してきた。子どもの頃にも聞いた記憶がある。

「へえ。よく覚えてたね」

 驚いたのか驚いたフリをしているのか、よくわからない声で言った。

「なくし物だったり欲しいものだったり。そんなものがある人がふらっと迷い込むところさ。滅多に人なんて気やしないよ」

 一口お茶を飲んで、ほうと息をついた後、

「それが今日は一気に三人とはね。こんな日もあるんだねえ」

 祥太のことだ。一気に身体中の筋が緊張した。

「えっと。兄もここで食事をしていったんですか?」

「そうだよ。まあ。あの子はずっと塞ぎ込んでいたけどね」

 やっぱり。ちくっと胸が痛んだ。

「兄は『この世とあの世の間』に行くって書き置きしました」

 老婦人は目を丸くし、

「へえ。そんなこと言ってたんだい。お兄ちゃん賢いねえ」

 書き置きの内容とあっていたんだ。

「どういう意味なんですか? ここは探し物を探すための場所じゃないんですか」

 全然イメージが違う。おばあちゃんは表情をそのままでお茶を飲み、

「文字通りの意味だよ。ここは不安定なところだから。あっという間に『死者の国』に流れてしまうからねえ」

 それ以降、口をつぐんだ。ってことは兄貴もあっちの世界の方に紛れ込む可能性があるってこと?

「兄は何に悩んでいたんですか!?」

 気がせいて尋問するように言った。老婦人はうろたえずに、

「それは言えないね」

 どういうこと。

「近頃個人情報保護とか、守秘義務とかいろいろあるからね。おいそれとは口にできないねえ」

 メガネをクッと上げる動作をした。

「急にこのばあちゃん、俗っぽいこと言い出したね」

「……前からそんなとこあったんだ」

 せっかくなのに雰囲気ぶち壊しだなと思った記憶がある。

「それに……。そういうことはお嬢ちゃんが直接聞かなきゃダメだよ。でないと本当に取り返しがつかなくなっちゃうよ」

 本当に取り返しがつかなくなる。ん? てことは、

「兄貴はまだ大丈夫なんですね?」

 おばあちゃんは明後日の方向を向いて口笛を吹いた。露骨に素知らぬフリをしている。口笛がうまいのがまた地味にイラッとくる。

「あの子は今、向こうの山にいるよ。そこで一人になって考えている」

 あの山? 言われてみれば集落の奥に山が見えたな。あの人はそこにいるんだ。

「おばあちゃん、あそこにウチを案内して」

「あいよ。だけど準備があるからちょいとお待ち」

 腰の方に手をあてながら立ち上がり、奥の部屋へと消えていった。

「よかったね棗。なんとか祥ちゃんに会えそうだね」

「うん……」

 いよいよとなったら、急に背が硬くなってきた。会って何を話せばいいんだろう。たぶんウチが原因だから会いたくないかもしれない。それに話したとこで一緒に帰ってくれるのかな。もう仲直りできないかもしれないな。そもそも仲良くなかったからしかたないのかな。ウジウジとネガティブの壺にはまっていると、


ーーばんっ!


 背中を強く叩かれた。隣を向くと友人がニッと笑った。

「心配しないの。祥ちゃんはあんたのこと大好きだから、絶対に戻ってくるよ」

 根拠があるようなないような自信をみせた。何と答えればいいか迷ったので、とりあえず曖昧な笑みを見せた。

「お待ちどうさま。山はいま雪が降ってくるからね。寒いからこれ着てきなさい」

 そういってダンボールをどさっと置いた。ありがたやありがたや。どうんなものが入ってるのか期待してみると、

「……うん?」

 オレンジとスカイブルーのダウンジャケットが入ってあった。ロゴには聞いたことのあるブランド名が記されていた。あとは手袋とか諸々の登山用品が置いてあった。

「あん。どうしたんだい?」

 ウチらの戸惑った様子を見て、怪訝な声をお婆さんはあげた。ゲラ子が、

「いや……。てっきり時代劇で見るよな藁っぽいものが渡されるのかと思って」

「そうそう。あとなんか頭にかぶる笠とか」

 老婦人は可哀想な人を見る目をして、

「あのな。あんたらそんな古い服もらったって、どう着るかわからんじゃろ。そもそも今時そんなもん売ってらんじゃろ。もっと常識というものを持ちなされ」

 ……なんだろう。すごい正論なんだけど、この人にだけは言われたくない。友人も同様で再びブスッとした表情をしていた。

「ほれほれ。さっさと着て。兄ちゃんを探しにいくいく」

 そう言って急かしてきた。確かに今はそんなこと考えるより祥太を探す方が先だ。ちゃちゃいと着なきゃ。

 もらった服に袖を通すとホワッとした温もりが染み渡った。ウチらの準備が終わるのを見届けると、おばあちゃんは戸を開け外へで行ったので、ウチらも後を追った。



 集落は穏やかな気候だったが、山の麓では雪がはらはらと降っていた。頬を刺すような冷気が吹き荒れており、オレンジのコートにギュッと身体にひっつかせた。

 老婦人は軽快な足取りで進んでいき、登山に慣れていないウチらがぎこちないながらも後を追う形となった。目の前には灰色にくすんだ雪山がそびえ立っていた。

「あんなところに兄貴はいるんだ……」

「ほんと。よく行けたよね」

 麓に来ただけで既に疲労の色が出ている二人には、この山を登るのは不可能に近いように思われた。

「ほれほれ。もう少しで入り口じゃぞ。がんばれ。がんばれ」

 薄寒い空気に合わない陽気なエールが聞こえてきた。

「うっし!」

「あとちょっと!」

 演劇で鍛えた底力を見せつけるように、一歩一歩力強く前方に進んでいった。次第に目の前を見通す余裕が出てきた。ん? あれは……?

「到着っと。ん?」

 たどり着いたところには簡素な神社が広がっていた。ぽつんとお守りや破魔売り場があり、手を洗うための水が流れていた。社殿があり、さらに山の方に長い石段が広がっていた。

「ここは……」

「このあたりの地域の神様を祭ってるところさ。御神体はあの山の頂上に置いてある。兄ちゃんはあそこにいるよ」

 兄貴がこの石段を登ってったのか。まるで天国に続いていくかのように長い階段だ。気合をいれなきゃな。


ーーすう。はあ。


 軽く息を整えた。気が折れないように、後ろ向きなことを考えないように。ここまで来たらもう引き返してはいけない。まっすぐにいかなければならない。

「ゲラ子、悪いけどこっから先は一人で行かせて」

 友人の戸惑った表情が見えた。

「こんな雪の中を? 危ないじゃない」

 自分もどうかしてると思う。石段があるとは言え、なんかあれば命を落としてもおかしくはない。

「それでも。ここはワガママを言わせて。これはウチと兄貴だけで話をしなくちゃいけない、ウチでカタをつけなきゃいけない話だと思うんだ」

 そうしなければ、収まるところに収まらない。たとえ収まったとしても、もっとも大切な何かが壊れたままになっている予感がする。

「……そうしてあげたい。……私だってそのほうがいいとは思う」

 噛み締めるように友人は口にした。

「……でも、心配だな。強い風がずっと吹いてるし。もし一人で行かせて転落したりしたら……」

 本気で心配そうな声を出していると、

「それには及ばん」

 ここにきておばあちゃんが割り込んできた。

「こいつが嬢ちゃんを見張っとるけい。安心せえ」

 髪の毛を一本抜いてフッと息をかけた。そして空に投げると一羽のカラスになった。

「すごい……!」

 カラスは雪の中をびくともせず自由自在に飛び回った。いったん瞬きするともう黒い点ぐらいにしか見えなくなっていた。

「これだと安心じゃろ?」

 おばあちゃんはゲラ子の方を見て言った。

「う、うん……。まあ……。わかったよ」

 不思議な力を見せつけられたから納得せざるをえない。そういう口調ではあった。そしてウチの方に顔を向け、

「ちゃんと帰ってきてよね。助けに行く人が巻き添えになるほどバカバカしいことはないからね」

 いつになく真剣な眼差しでウチを見た。自分もしっかりと答えなくちゃと思い、

「わかった。いの一番に自分の安全を考えるようにする」

 同じく今までにない真剣な目をしてゲラ子を見た。そしてアメリカ映画みたいに親指をグッと立てた。

「ふふっ」

 友人はぎこちないながらも少し笑った。そしてウチと同じように親指を立て、

「グッドラック!」

 と口にした。

「がんばれ!」

 つぎにエールの言葉を受けた。ウチはコクっと二人に向かってうなづいて、

「うん! いってくるよ!」

 石段の方に向かって早歩きで向かって行った。風は少し強くなり、吹雪に似た景色が広がっていた。首筋には冷たい粒がチリチリとついた。いよいよ終わりに近づいてきた。

「ふう」

 石段の前に来た。ちょうど山頂に向かって一直線に伸びており、近くでみると圧迫感があった。フードを奥深く被り息を整えたら、一気に早足で上り始めた。最初の一歩を踏み締めると、もう引き戻されるような感覚はなくなっていた。ただ前へ前へ。横の景色も鳥の鳴き声ももう気にせず、山頂に一直線に上がって行った。『探し物を探すための場所』か。あのとき言ってた意味がやっとわかった。小さい頃になくしかけてたものは『兄妹の灯火』だ。

 本当の本当はウチだって祥ちゃんと仲良くしてたかった。甘えたかった。あたりまえじゃない。ウチの大好きな大好きな祥ちゃんだよ。そんな子と毎日暮らせるなんて、こんなに嬉しい楽しいことないじゃない。ずっとずっと、素直に演劇遊びをしていたかった。

 でも、やっぱり母さんが亡くなってからの、新しい家族のはダメだった。あまりにも母さんが可哀想だと思った。父さんと再婚しようとするあの人を心の底では嫌いだった。

『父さんを奪うな!』

 そんな言葉をグッと抑えた。わかってる。そんなことを言っても何も解決にならないことを。ウチらが生きていくためにも、父さんを支えてくれる人が必要なことを。必死に抑え続けてた。

 だから代わりに祥ちゃんに八つ当たりをしていた。自分の怒りをぶち当てるように、母さんに対する気持ちを消さないように。半分はお兄ちゃんに甘えている気持ちもあった。この人ならどんなにワガママを言っても許してくれる。どんなにひどいことを言ってもウチの味方でいてくれる。そんな気持ちがあったから平気でひどいことを言った。

 あの人だって傷ついていたのに。本当だったら祥ちゃんだって大声で泣きたいはずなのに。祥ちゃんだってお父さんを亡くしたばっかだったのに。ごめん。祥ちゃん。

 注意が散漫になってたのがいけなかった。石段は滑りやすくなっており、つい足を取られた。

『やばっ』

 頭を石段にぶつけるかと思った瞬間、何かがウチの頭をグイッと持ち上げてくれた。おかげで間一髪で怪我を避けられた。

「誰?」

 振り向くとカラスが何食わぬ顔でバサバサと飛んでいた。この子が助けてくれたんだろうな。

「……ありがとう」

 礼を述べると、

『いいってことよ』

 とでも言うかのように軽く首を振り、雪空の中に溶け込んでいった。本当に不思議なことだらけだな、ここは。

 改めて前を見ると大きな朱色の鳥居が聳え立っていた。石段はほぼほぼ終わりに近づいていた。いつの間にかこんなところまで来ていたんだ。

「……はあ。……んはあ……」

 改めて意識するとだいぶ呼吸が乱れていた。全く休まずにそれなりのスピードで登ると疲れるわけだ。

「それでも……」

 やっと着いた。この奥に祥ちゃんがいる。ひゅっと少し心を落ち着けて、色あせた大鳥居の中を潜った。


ーーひゅうひゅう


 山の上は下界と比べて格段に強く冷たい風が吹き荒れていた。おばあちゃんに登山ウェアを借りなければ絶対に凍え死んでいた。

「っと。祥ちゃんは?」

 目の前にはだだっ広い景色が広がっていた。石畳が体裁を整えるかのように敷かれていた。あたりにはゴツゴツとした岩が置いてあった。奥の方にゆらゆらとうごめく黒い物体があった。まるで猫の様にふさふさした毛を持ち、まるで昔の妖怪のように二本の尻尾を持ち、

「って!?」

 あれは猫又じゃん。いつもいつもウチの夢に出ていた。なんであいつがここに? 祥ちゃんはどこ? 頭の中が混乱しつつも、とにかく彼の元に近づいて行った。

「ちょっとあんた何でいるの?」

 彼に向かって声をかけると緩慢にこっちを向き、

「ちかづくな!!」

 周りに響く大きな声で一喝した。肌がビリリと痺れ、思わず足を止めた。彼の方に目を向けると目を覆いたくなる状態になっていた。複数の箇所に切り傷が出来ており、そこら中に血が流れていた。呼吸も荒く、一息吸うたびに大きく身体が揺れていた。

「ちょっとあんた大丈夫!?」

 また一歩進めようとすると、

「ちかづくなっつってんだろ!!」

 いつになく荒々しい口調で、はっきりと拒絶を示した。その目は明確に憎しみの色が混ざっていた。そして彼に近づこうと思っても、何かに押し返される様な力が働き、一歩も前に進むことができなかった。その瞬間にウチは悟った。

「あなた。祥ちゃんだったんだね……」

「……」

 ずっと不思議に思ってた。頻繁に夢の中に出てくるのもそうだけど、どっかに親近感やデジャブを覚えていた。今思えば単純な理由だ。毎日顔を合わせている人なのだから、それは慣れ親しんだ感じがあるだろう。彼はウチの言葉に対してもYesともNoとも答えず、ただじっと見ていた。

「ねえ。帰ろうよ。父さんと母さん心配してるし。ウチだって寂しいし」

 少ないボキャブラリーを使ってなんとか説得しようとしたところ、


「どうせ思ってないだろ」


 冬の水のように冷たい言葉を浴びせられた。

「いつもウザったそうにしてたし、愛想のカケラもなかったしな。どうせ俺のいなくなったのを清々してるんだろ?」

 攻撃的な口調に希望もない後ろ向きな発言。いつもの祥ちゃんからは聞くことの出来ない種類のものだった。本当はこんなことを考えてたのか、今は追い詰められたからこんなことを言っているのかはわからない。

「……本当だよ。本当にウチは祥ちゃんに帰ってきて欲しい」

 かすれた小さな声をなんとか出しても、

「嘘だね。信用できないね」

 ぴしゃりと否定した。そして悪意のある言葉を吐いた後、より痛みを覚えたかの様にうごめいた。強い言葉を吐くごとに自分を傷つけているかのようだった。そっか。ウチはこんなことをずっと祥ちゃんに言ってたんだね。祥ちゃんはずっとナイフのような言葉に耐えていたんだね。

「……いつもの祥ちゃんじゃないみたい」

 勝手に祥ちゃんのイメージを祥ちゃんにおしつけている。こんなこと言ってはいけないことぐらい分かる。それでも反射的に口にしてしまった。それに対してお兄ちゃんは自嘲するように笑い、

「ふん。いつもの俺か。それはいつも社畜のようにすり減らされてる俺か。それとも才能もなく演劇の世界に入れないくせに妹に嫉妬してるイタいピエロか」

 その目はどこか疲れている風に見せていた。ウチを傷つけるかのように吐く言葉に対して、ウチ以上に祥ちゃんが傷つけられている様だった。

「……良いよな。お前は。演技うまくて綺麗で華があって。なんでお前ばっか恵まれてるんだろうな。……俺だって真面目に頑張ってきたのによ」

 こっちだって楽してきたわけじゃない。そう答えるのは簡単だ。それでも祥ちゃんの頑張ってきたのを見ると何にも言えない。少なくとも彼の台本には一種の真剣さが見られた。ボロボロになった紙には何度も何度も熟考した後が垣間見られた。一冊だけじゃない。学校の図書室には何冊も置いてあった。

 もしそれの結果が出なかったら? ウチがお兄ちゃんの立場にたったら誰かを呪わずにはいられないかもしれない。

「……もし生まれ変わったら。……もう少し要領よく生きていける人間になりたいな」

 俯きながらぼそっとつぶやいた。そして彼の身体がスウっと薄くなっていくのを感じた。直感的にヤバさを感じた。

『この世とあの世の間』

 これが祥ちゃんが書き残した場所だった。不可思議の空気から言っても、死の世界にすぐにいけると考えてもおかしくはない。となると今、祥ちゃんはこの世から去ろうとしてる? ヤバイ。なんとか止めなきゃ。でもどうやって? さっきみたいに言っても取りつく島はなかった。ただすりぬけていくだけだ。じゃあ、どうする。なにか方法はないか。

 悩んでいるうちに祥ちゃんの身体はどんどん透き通ってきている。なんか言わなきゃ。なんでもいいから言わなきゃ。黙ったままだと絶対に後悔する。とにかく頭に出てきたことを口にしなきゃ。そうして発したセリフは、

「……ありがとう」

 だった。これには先方も予想外らしく、チラッとこちらを見た。言ったウチもびっくりした。

「……脚本を教えてくれてありがとう。なんとか満足いくの書けたよ」

 まるで死にゆく人への別れの挨拶みたいだ。

「……祥ちゃんはすごいね。ウチはいつも助けられたよ」

 おそらくウチは半分あきらめている。

「……小さい頃、家族になっときからずっとそっけない態度とってたけど、本当は仲良くなりたかったんだ。……だって大好きな友達と兄妹になれたんだから」

 ひょっとしたらこれが最後の別れかもしれない。だったら伝えられることは出来る限り伝えよう。

「……前にマヨヒガに迷い込んだとき、すごく頼りになるなって思ったんだ。ウチはビクビクしているのに祥ちゃんは堂々としててさ。今日来て思ったんだけど、本当は祥ちゃんも怖かったんじゃないかな」

 あなたはウチのお兄ちゃんだものね。妹の前だからかっこつけてくれたのかな。

「……」

 先方は表情を変えずにこっちを見続けていた。どんな感想を持っているのか、推測するのは難しかった。

「……先生にフラれた時も黙ってこっちの話を聞いてくれていて。プレゼントくれたりして。あのときの料理おいしかったよ。ううん。いつもいつもおいしかった」

 兄妹だろうが恋人だろうが結局は他人の人生。コントロールはできないし、コントロールはすべきでもない。

「まだまだウチには足りないものがたくさんあるけれど、それでもウチの人生に祥ちゃんが居てくれてよかった。そのことは心の中の自慢なんだ」

 そのことが当然のようにウチは猫又の近くに歩を進めていた。そばによっても彼は何も言わず、何も動かなかった。ウチは公園の猫にするように優しく頭を撫でた。

「もし生まれ変わったら多分ウチのことを忘れちゃうかもしれない。けど……。ときどきウチのことを思い出してもらえると嬉しい」

 せめてコントロールできる自分のことは精一杯にやろう。後悔しないように。明日もなんとか生きられるように。だから祥ちゃんには今まで言えなかったセリフを口にした。

「……」

 お兄ちゃんは三秒くらい言葉を探した後、

「……お前は俺の人生になんの影響も与えなかったよ」

 ぽつりと口にした。

「……そっか」

 ウチだけだったんだ。かけがえのない兄弟だと思ってたのはウチだけだったんだ。祥ちゃんに取ってはウザい女でしかなかったんだ。そうかもしれないと頭の片隅で考えていたけど、本当に口にされると受け止めることができなかった。

「……っ。っく……」

 こらえ切れずに涙が流れた。もう取り付くことはできない。みっともない顔をさらけ出した。祥ちゃんは痛みに満ちた目でウチを見て、

「もう……。ほっといてくれよ」

 猫のように弱々しい力で軽く押し出した。いつもだったらなんともないものでも、予想していなかった分、しりもちをついてしまった。持っていたカバンを落とし、あたりに荷物をばらまいてしまった。

「演技がうまいからな、お前は。何を信じたらいいかわから……」

 途中で話をいいかけ、地面の方に目をむけた。サイフ、ハンカチ、iPodなどと一緒に落ちてる、文庫本に特に注視していた。栞は外れて、少し離れたところにあった。

「……」

 注意深くじっくり眺めた後、

「……まだそれ持ってたんだな」

 祥ちゃんも覚えていたんだ。初めてくれたプレゼントのことを。

 猫又はゆったりと起き上がり荷物の散らばったところに歩んでいった。恐る恐るといった緩慢な動きで、そっと栞を撫でた。しばし、無言でいたのち、小さな瞳からツーっと一滴の涙が流れた。そしてお兄ちゃんの身体から強い光が発せられた。

「ちょっと大丈夫!?」

 慌てて近寄ろうとすると、まるで花火みたいにパッと閃光が広がった。あまりのまぶしさに反射的に目を覆った。辺りからは鳥の羽ばたく音と、小動物のギャーギャーという鳴き声が響き渡った。ウチの身体はすうっと浮き上がり、どこから空に登りあがる感覚があった。

「いったい何!? どうしたの!!」

 さんざん喚いてはいるものの、怖くて腕で目を覆ったままだ。身体はゆらりゆらりと振り回されたのち、キューっと吹き飛ばされる様に動き出した。

「ンギャーーーーーーーーー!!」

 絶叫系が好きなウチでもさすがにこれは怖い。誰が聞いてるかもわからないが、日常生活では言えない様な大声を出しまくった。ああ。こりゃウチが先に死ぬかもなあ。せめてオーディションに受かってからあの世に行きたかったなあ。俗物的な願いを最後にして、スウっと意識が遠のいていった。



 目の前にはどこまでも桜の木が広がっていた。ひらひらと舞い散る花は月並みだが吹雪を思わせた。遠くに小川があるのか、ちょろちょろと水の流れる音が耳に入った。小鳥も何匹もいるのかチュチュという鳴き声もときどき聞こえた。

「……ここはあの世かな」

 こんなのどかな場所にいると、ふとそんなことを思い浮かべてしまう。

「……いや。すくなくともまだ死んでないみたいだよ」

「うわあ!」

 左前には祥ちゃんが家出したときの姿で立っていた。猫又のときみたいに痛々しい傷はなく、きれいな姿のままだった。

「どうしてわかるの?」

 別にウチと同じ知識しか持ってないはずなのに。

「いや。単純に身体の感触があるし。それにほら。あそこに見える山って、俺たちがさっきまでいたところじゃない?」

 お兄ちゃんが指さした場所は、確かにウチが必死こいて登った山だった。あの形には覚えがある。よくまあ遠くまできたもんだな。

「……」

「……」

 そして互いに沈黙。そりゃそうだ。さっきまであんな修羅場を二人で演じてたんだ。すぐに戻れる方が無理あるだろう。

「……」

「……棗ちゃん、急に家出してゴメン」

 祥ちゃんはぐっと深く頭を下げた。こういうところはやっぱりお兄ちゃんだな。

「うんうん。ウチも昔、家出したことあったし。お相子。それにこっちこそゴメン。祥ちゃんの気持ちを意識しないで、はしゃいじゃってさ」

 先方は真剣な目をして、

「とんでもない。一次でもオーディション通るなんてすごいことなんだ。喜ぶべきときはちゃんと喜ばなきゃ。これは一緒に祝える度量がなかった俺の問題なんだ」

 さっきまでの荒れた感じはなく、きっちり・はっきり口にした。生真面目な言い方はまさに祥ちゃんっぽかった。

「それに……。今度コンクールに脚本を応募してみようと思うんだ。……実は棗ちゃんが楽しそうに書いてるのみてて。俺も書いてみたくなっちゃって」

 恥ずかしそうに頬をかきながら口にした。

「いいね、それ! 祥ちゃんの書くものに興味あるな。書けたら読ませてよ!」

「うん。感想はお手柔らかにね」

「わかった。しっかりダメ出しするよ」

 意地悪な笑みをニマァと浮かべて答えてやった。お兄ちゃんは性格の悪い妹をみて、苦い笑いを浮かべた。

「……ありがとう棗ちゃん。助けてくれて」

 殊勝な顔をして礼を述べて。すぐにさっしがつき、

「大丈夫だよ。こんなとこに旅行に来れて。なんだか不思議な冒険をした気分」

 終わり良ければすべてよし。なにもかも解決した今となれば、ちょっとした物語みたいなものだ。

「そういってもらえると助かるよ」

 その表情には完全に憑き物が落ちた感じだ。一歩ずつ前に向かって歩いて行こう。そういう決意を感じさせる顔をしていた。

「……にしても、お姫様に助けられるだなんて、ナイトしっかくだな」

 素面な表情でファンタジックな言い回しをした。

「っぷ。あははははははは!!!!!!!」

 ギャップがおかしくて、失礼になるくらい大声で笑った。

「……なにもそこまで笑わなくても」

 顔をかすかに赤らめながら憮然としていった。

「っくく。ゴメンゴメン。……まあ、良いんじゃない。ほら。ここ最近は男女の立場が逆転したお話が多いし。今っぽいじゃん」

 あっけらかんとした感じでいった。

「だったらいいけど……」

 フォローされた立場にもかかわらず、釈然とした顔でいた。

「さて。これからどうしようか」

 気を戻して祥ちゃんが今後の方針を口にした。確かに。ここははっきり言ってどこにいるのかわからない。どう帰るかわからない。

「たしかにね。いったんあの山のほうにいってみる?」

 現実的なことを提案してみると、

「おーい。なつめー。しょうちゃーん」

 奥の方からゲラ子とおばあちゃんが歩いてきた。もう彼女たちは登山服は来ておらず、当初みたときの状態だった。

「二人とも。ケンカは済んだ?」

 ニヤニヤした表情で聞いてきた。それはいつものウチをからかうときの色をしていたので、素直に答えるのが憚られた。

「うん。終わったよ。迷惑かけてごめんね」

 我が兄は生真面目にも友人に謝罪をした。

「ああ。いいですいいです。そこは。棗にこれから一週間ジュースおごってもらうし」

 長すぎね? 三日で良くね。バイト代をあんたに貢ぐ気ないんだけど。

「まあ。それは置いといて。帰るわよ。ばあちゃんが出口に案内してくれるって」

 隣をみるとおばあちゃんがピースサインを見せた。

「ありがとう。棗ちゃん。行こうか」

「……うん」

 せっかくだからどっかでお菓子を買って、ここで花見したい思いはあるが。仕方ないか。こうして四人そろって帰路に向かって歩みを始めた。

『……にしても、お姫様に助けられるだなんて、ナイトしっかくだな』

 さっき祥ちゃんが言ってたセリフを頭の中で反駁していた。そして、心の中で返事をした。

『祥ちゃんは今までナイトでいてくれたじゃん。今回がお姫様でも全然お釣りが来るよ』

 昔よりも少し小さな背中をみてそんなことを思った。歩きながら現実世界でやろうとすることを考えてみた。まずはもうちょっと甘えてみることと、何かしてもらったらしっかりとお礼を言うことから始めようかな。

 これからもよろしくね。この世で一番大好きな人。


―FIN―

[あとがき]


最後まで読んでいただきありがとうございます。個人的な話で恐縮ですが、この話は当時の自分の中でつめるだけ詰めた作品でした。ですので、書き終えるまで非常に時間がかかりましたが、反面書き終えての感慨も一押しでした。ここまでよんでいただいた「あなた様」に何か響くものがあれば幸いです。


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