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第六章:猫又

 ここまでウチの話を読んでくれてありがとう。綺麗で人望あふれる女子高生の物語を楽しんでくれたでしょうか。あなたもウチの魅力にメロメロだね!

 さて。ここからは少し毛色の違う不思議な話を。本当は今までも遭遇していたけれど、ただの夢だと思って気にしないでいた。振り返ると、この夢はとてもとても大事なことだと気づいたので、少し付き合って欲しい。まずは時計の針を巻き戻して文化祭を仕切る前に。



 *****


 知らない街の中を歩いていた。空は限りなく夜に近い曇り空をしており、周囲の建物はくたびれた灰色をしていた。一歩ずつ歩くたびに『コーン』という音が響きわたった。人の気配はなく、静寂の世界だけがただただ広がっていた。

「ここは……?」

 夢ではあると思う。こんな場所を知らないし、第一さっきベッドに入ったばかりだ。けれども、夢にしては妙にリアルで妙に生々しい感覚があった。

 とりあえずまずは眠りの世界と仮定し、漠然と歩みを進め始めた。自分の足音だけしか聞こえないから、寒々しく感じる。一つひとつの建物は別々の形を持っており、よく見たらCDショップ、雑貨屋、バーなどどこかの商店街を思わせる並びだった。『廃墟』が一番しっくりくる印象だ。

 ふと視界の隅にチョロチョロと動くものがあった。大きさはウチの膝小僧ほど。コソコソと隠れるように、建物の隙間を移動していた。気になって目で追ってみると、先方もこちらを覗いているようだった。

 と、目が合った瞬間、黒い物体はウチから逃げるように一気に駆け出した。反射的に追いかけた。すると風のように身体が動いてくれた。車で追い越すように店から店を通り過ぎていった。さすが夢のなか。都合がいいことが起きてくれる。軽快に走れるのは意外と気分がよかった。

 十字路を三つほど過ぎた辺りで黒い物体を追い抜いた。先方は元来た道を戻ろうとするも、やっぱりウチが先回りして行手を塞いだ。向こうは諦めたのかスゥっと動きを止めた。

 改めて見てみると、逃げていたそれは黒い猫だった。体毛はふさふさしており、丁寧に手入れをされた様子がうかがえる。サイズは普通の猫より大きく、どちらかというと虎の子どもみたいな印象を受ける。それだけなら只の猫だが、彼の異質なところは『尻尾が二本』ついているところだ。改めてここは少なくとも現実世界ではないと実感した。

「……」

「……」

 双方とも固まり、しばし見つめ合った。冷静に考えてみると、この子を捕まえてウチはどうしようとしてたのか。なにか手がかりが掴めるとは思えないが。

 自分で招いたにもかかわらず、今の状況に戸惑っている。とりあえず気づまりな空気を打破しようと、

「あなたは誰?」

 と聞いてみた。って、なにやってんだろう。猫に話しかけるなんて。動物が口を聞くなんて映画やマンガじゃあるまいし。

「我輩は猫又である」

 しゃべった!!

「名前はまだない」

 しかも夏目漱石みたいなこと言ってる!! 完全なファンタジーの世界に入って興奮しつつも、

「うちは香村棗。よろしく」

 と言って、手を差し出した。猫又ちゃんも鼻をピクピクさせた後、ポンと前足をうちの手に触れた。おお。よくわかんないけど猫の世界でも握手は万国共通なんだ。無駄に感動。

「ここはどこ?」

 とりあえず、なにもわかんないのは気持ち悪いから、彼にたずねた。

「わからん」

 あっさりと口にした。

「もうちょっと考えるそぶりみせてよ」

 せめて『うー』とか『あー』とかさ。そう思っていると、

「我輩、コストパフォーマンスを重視してるので無駄なことはしないのが信条だ」

 こいつ意識高い系だ。

「それに本当によくわからん。我輩は気づいたらここにいて、気づいたらブラブラしている。変とか変ではないとか比較することがそもそもできぬのだ」

 なるほど。彼にとってはここが世界の全てってことね。

「でも、ここ寂しくない? 誰もいないし。風景も色あせてる」

 まるで忘れさられた街みたいだ。

「そうか。我輩はここを気に入ってるぞ。余計なものに出会わないし、余計なものに干渉されない」

 へ、へえ。そう。世の中にはいろいろな人(猫?)っているのね。ウチのクラスにも群れずに自分だけの時間に浸りたい人もいるし。彼も一匹狼タイプかも。あれ? てことは今邪魔者?

「……」

「……」

 なんとも言えない空気がしばし流れ、

「まあまあ。せっかく来たのでお茶でもどうぞ」

 こちらの微妙な気持ちを察したのかさっとフォローしてくれた。いつの間にか目の前には掘りごたつと湯気が出ているお茶、羊羹が置いてあった。自分たちが立っている景色も、道路の真ん中から民家の中に変わっていた。薄暗さは変わらないが、さっきよりも落ち着きやすさはあった。

「ご丁寧にどうも。じゃあ、もらおうかな」

 こたつに遠慮なく足をつっこんだ。思ったよりあったかい。お茶は熱すぎず温すぎず。羊羹も抑えた甘さ。うん。いい感じ。

 猫又ちゃんも半身をコタツの中に身を入れて、すやすやときもち良さそうにしていた。確かにこれは気持ちいい。

「ああ。帰りたくないかも」

 ぼそっとつぶやくと、

「それはダメだ。お主はこの世界の人間ではない。元に戻らねば」

 物語の登場人物みたいを口にした。

「そ、そうなの」

 特にすごく居続けたいわけではなく、冗談でいったので戸惑った。すると、

「ま、まあ。来ようと思えば来れるさ。たぶん」

 すぐに言い直した。そっか。また行こうと思えば行けるのか。

「じゃあ、ちょっとばかりお別れだね」

 普通の猫にやるみたいに、小さく手を振った。たまにならよくわからない世界に迷いこむのもいいでしょう。自分の視野も広がるだろうし。とりあえず自分に納得をさせた。



 気づいたらベッドに朝日が差し込んでいた。カーテンから外をのぞいていると、雲ひとつない爽やかな晴れ空が広がっていた。部屋には今日学校に持っていくカバン、着ていく制服、開きっぱなしのファッション雑誌があった。

 廃墟もないし、こたつもない、ましてや猫又なんていやしない。

「夢……だったのかな」

 ずいぶんリアルな世界が広がってたな。視覚・聴覚・嗅覚・味覚が全部ホンモノっぽかった。口の中にまだ羊羹の味が残っているような気がした。

 しかしあれはなんだったんだろう。夢占いをしたら欲求不満だとか孤独だとか破壊的衝動とか、適当なことを言われるのだろうが、まったく心辺りがなかった。世の中不思議なことがあるものね。



 *****


 そして次に見たのは文化祭のクラス委員に決まった直後だった。この時もおっかなびっくりだったけど、次第に慣れていった。だから、彼との交流を少し楽しんでいる面もあった。



 白い影たちが街中を歩いている。ゆったりと一定のペースでフラフラと揺れながら。顔はのっぺらぼうのように何もなく、服も無個性であった。総じて印象に残らない不気味さが出ていた。うちの横を通り過ぎても目配せ一つ渡さなかった。

「あの人たちは誰? というより何?」

「知らん」

 隣にいる猫又に尋ねてもめぼしい回答はなかった。

「てかこの世界にあなた以外いないんじゃなかったの?」

 設定ガバガバじゃない。

「さあ。今までいなかっただけでこれからもいないというもんでもないし。そもそもあいつらは何者かどうかもわからない」

 確かに。生命感を欠如させていて、生きているかどうかも怪しい物体だった。むしろロボットに近い印象を受ける。

 前に来た時と変わらず辺りの景色はモノクロに染められていた。ただ居るだけで人のエネルギーを奪いそうな街。この世界の中にやつらは似合っているといえば似合っていた。

「よくこんなところに住んでられるわね」

 聞こえるか聞こえないかの声でぼやくと、

「ふん。こっちらかしたらお前はよくあんなギラギラした世界で過ごせるな」

 たしかに。鮮やかさのない場所で生活を送っていると、こっちの世界は色彩があふれすぎるものね。って、

「ウチがいる世界のこと知ってるの? あんた実は別の世界の人間?」

 こっちみたいに夢の時だけ出現するみたいなもんかな。どんなことを言うのかと思って、猫又を凝視していたが、こいつは前足で顔をかいた後、

「にゃあ」

 とだけ鳴いた。これが本当の猫騙し。はぐらかしたつもりか。

「生まれはどこ?」

「にゃあ」

「職業はなに?」

「にゃあ」

「好きな子いる?」

「にゃあ」

 いつの間にか言葉を忘れたみたいに猫語になった。無意識にポケットを漁ると硬い感触があった。

「チョコ食べる?」

「食べる」

 おい。なに普通にしゃべるんだよ。もっと粘れよ。白けた面で眺めていると、

「まあ。コーヒーでもどうぞ。チョコにはコーヒーが合う」

 目をやるとテーブルに丸椅子が出現していた。ウチと猫又の目の前には湯気の湧いたコーヒーが置いてあった。ここまでお膳立てされて諦めた気持ちになったので、手に持ったチロルチョコをこの子に投げた。

「サンキュー」

 そういったかと思うと、器用に前足で包装紙を外し、一気にチョコを食べた。お茶受けということを意識してか、ペロペロとコーヒーも舐めた。そういえば猫に対してチョコとかコーヒーとかあげていいんだっけ?


注意:両方とも絶対にあげてはいけません。

   十分に気をつけてください


 まあ、いいか。自分から食べてるし。猫っぽいけど猫っぽくないし。そもそも本当の猫はしゃべらないし。

 こうして前の時と同じように一人と一匹でボケッとした時間が過ごした。暗い風景とキモい生物が歩き回っていることを気にしなければ、穏やかな時間が流れていると言えた。そう言えば今日は文化祭の準備でずっとバタバタしてたな。

 リラックスしてみると肩が重い気がした。だいぶ凝ってんのかな。親父くさいとは思いつつも、トントンと自分の手で叩いた。一緒に相手してくれている彼(彼女かも)が不思議そうな顔で見ているので、

「ちょっと肩が張ってね。ずっとパソコン触ってたから」

 と言ってから、

「今ね。芝居の脚本書いてるんだ」

 わずかに自慢するトーンを混ぜた。猫又はぴくっと目を軽く動かし、

「……どんな内容だ?」

 興味を持ってきた。この世界に劇とかあるのかと思ったが、設定ガバガバ空間だからなんとでもなるのだろうと一人納得した。

「えっとね。『合言葉は甲子園優勝』ってお話知ってる?」

 そんなに有名じゃないから分からないかも。と思ってると、

「ああ。知ってるぞ。タイトルに甲子園と着いてる割には全然野球せず、ひたすらヤクと女の話ばっかな三流小説だろ」

 確かに間違ってない。ポイントはちゃんと押さえてる。けどなんだろう。ずいぶんチャチな話に聞こえる。ウチらはこんな話に青春の情熱を捧げるのか。

「ま、まあ。物は言いようよね。書き方次第でどうとでもなるし。高校の文化祭で殺伐としたものを演ってもしょうがないし」

 猫又は皮肉めいた笑みを見せた。ウチはそれには気づかないフリをし、

「あんたって物語を作ったことある? 結構たのしいわよ。思い通りの人物を作り、思い通りの舞台を作り、思い通りの流れを作る。まるで自分が神になった気分になれるわ」

 はじめに天と地を創造した、ってね。話し相手の方を見ると、地面の方をじっと見つめていた。まるでウチに表情を隠したいみたいに。

「ふーん。そんなもんなのか」

 と口にした。それから数秒くらいの間をあけて、

「羨ましいな」

 と、付け加えた。



 いつの間にか自分の部屋で朝を迎えいたのも前と同じだった。今日は曇り空のためか、寝足りない感覚が身体に残っていた。

「……夢。……でいいんだよね?」

 フロイト博士に話しても難しい顔をされるのがオチだと思う。いったいウチは何に対して欲求不満なんだ? 猫成分が足りない? 話し相手が足りない? 慰めてほしい? そこまで欲求不満な気はしないんだけど。てかどうせだったら渋く枯れた男を出してほしいんだけど。ひねくれた猫モドキじゃなくてさ。



 *****


 そして文化祭の直前にまた猫又と出会った。その時の場所はどこかの田舎っぽいところだった。これが重要なのだけれど、彼との会話の中でウチは懐かしい記憶を思い出すこととなった。



 目の前には青々とした田畑と茅葺き屋根が並んでいた。あちこちに鶏が駆け回り、牛がモオっと鳴いていた。初夏の風が肌を撫でて、心地いい空気を身体中で感じていた。

 一つ気になるとしたら『全く人の気配がないこと』だった。直感的に誰も住んでいないことがわかった。見捨てられた街というのが当てはまる言葉だろう。

 ひとまずブラブラと歩いてみた。道は常に整備されていた。家々からは夕餉の匂いが漂っていた。……ここなんかデジャブあるな。

 目の前に鶏がトコトコと歩いていた。いたずら心で近寄ってみると、バサバサ羽ばたいて遠くの山に飛んで行った。コッコー。コッコーと山並みに響き渡った。

「……鶏って飛べたっけ」

 誰に言うでもなく呟くと、

「飛べるわけないだろ。常識ないのか?」

 後ろからツッコミが入った。びくっとして振り向くと、尻尾が二本の黒猫がウチを見ていた。

「……驚かさないでよ」

 不思議なことに慣れてきたとはいえ、突然の出来事というのは心臓に悪い。

「あんたは本当どこにでもいるのね」

 毎回毎回会う場所が変わっている。本当の住処というのはあるのだろうか。

「なに。人生とは旅のようなものだろう。当て所なく歩くのはなんらおかしいことではない」

 猫のくせに詩的なことを言っていた。先方は尻尾を左右にブラブラさせながら歩き出した。ウチも目的地が特にあるわけではないので、付き従った。

 どうやらここは一種の集落のようだ。進むごとに建物の間隔は狭くなっていき、野菜を売っている店やお酒を売っている店、家具を売っている店などに彩られていた。一通り生活できそうなコミュニティとして整っていた。ぼおっと眺めていると、

「旅行したくなるなあ」

 縁側でご飯食べたり、夕涼みしたり。都会では味わえない生活ができそうだな。さあっと流して眺めていると、ひとつの店舗が目に入った。土産屋のようなところで、店内には多種多様な雑貨が置かれていた。

 ウチは惹きつけられるように入った。中をゆっくり見渡すとクシやけん玉、地酒といった定番の物が置いてあった。どれも落ち着いた暗めの色をしており、新しさを感じさせる光沢があった。奥のコーナーに本の栞が置いてあった。金属を薄く加工したタイプで、葉っぱの模様をしていた。軽く手に取って眺めてみたら、

「ああ!!」

 今度は猫又がびくっとしてウチを見た。

「どした?」

 先方が尋ねた。ウチは鞄をごそごそとあさって今読んでいる文庫本を出した。そこから挟んでいる栞を取り出し、並べられている物と見比べた。猫又もうちのと商品のを見比べたあと目を丸くし、

「全く同じだな」

 ボソリとつぶやいた。ウチのほうは何年も使っているから、若干色あせが目立っている。ふとこの場所について思い出した。なぜ既視感を覚えたのかと言うとなんてことはない。以前ここに来たことがあったのだ。



 小さい頃は父と母と三人で仲良く暮らしていた。両親はよく遊びに連れてってくれ、たくさんの物を買ってくれた。愛情の定義はたくさんあるけど、ウチはオーソドックスな愛を受けていた方だと思う。

 ウチの父親と兄貴……いや祥太の父は昔からの友人らしくてかなり仲良かった。その流れでウチら二家族は一緒に遊ぶことが多かった。祥太は歳がそれなりに離れていたものの、丁寧に接してくれた。大人たちがいないときによく面倒を見てくれ、一緒にごっこ遊びに付き合ってくれた。ウチもウチで人当たりのいい歳の離れた男友達にベッタリだった。……あるときまでは。


 近い時期にウチの母親と祥太の父親が死んだ。それぞれ交通事故。月九かよ。中学生が書いた脚本でももう少しマシなストーリーを考えるだろ。それほど現実離れな展開が起きた。

 父とウチは魂が抜けたように呆けていた。心の支柱がなくなったことで、お互い張り合いがなくなった感じだ。葬式が終わった後も、機械的に生活をしているようだった。家にゴミは散乱し、家具には埃が溜まっていた。母が生きていたら、誰かしらが綺麗にしていた種類の汚れだった。

 ウチは幼いなりなにこのままではダメだと思っていた。亡くなった母さんが悲しむとか殊勝な気持ちではなく、直感的に道を外れる匂いを嗅ぎ取ったのだろう。ある日の食事の時に脈絡もなし、

『ウチらは生き残ってる! 生き残ってる限り精一杯生きなきゃ!』

 ここ最近みたドラマか漫画のセリフを借用した。半分はヒロイック的な感傷が含まれているのだろう。父は、

「ああ。そうだな」

 何を考えているか分からない半笑いを浮かべた。そのときの自分もどう捉えて良いのか判断に迷っていた節があった。それでも父の動きには幾ばくかの精彩さはで戻ってきた。ペースはまだ鈍いが、定期的に掃除をするようになった。多少の清潔さが部屋に戻ってきていた。ぎこちないながらも、やっと自分たちの生活が戻ってきていた。


 母が亡くなってから幾ばくかの日時が過ぎた頃。母の死と同じくらい、ウチの人生を変えたイベントが起こった。ひょっとしたら母の死よりも大きな出来事だったかもしれない。

 ある日、父は近所のイタリアンレストランに連れてってくれた。家族三人だった頃はよく誕生日とかで使ってた店だった。ウチはそこのスパゲティが好きだった。着いて十五分くらいは他愛もない話をしていたが突然、

『棗。じつは今日会ってもらいたい人たちがいるんだ。その人たちと一緒にご飯を食べていいかな?』

 おづおづと聞いてきた。自分で言うのもなんだが、ウチはドラマが好きな女子だけあって、マセていたガキだったと思う。すぐに再婚の話だと察しがついた。内心ではふたりで暮らしていきたいが、父親の姿をみる限り我が家には『母親』が必要なのではないかと一方では感じてもいた。だから、

『うん。いいよ。一緒に食べよう』

 元気に明るく承諾した。せめて良い子を演じようという気持ちで。

 しかし、現れた男の子と女の人を見て、メッキはすぐに剥がれた。特に男に対しての動揺は激しいものがあった。席についたのは祥太と祥太ママだった。見知った顔が再婚相手とその子どもというのは想像以上にショックだった。

『棗。紹介はいらないよね』

 祥太と祥太ママはにこやかにうちに挨拶をした。対してこちらは仏頂面のままでいた。祥太に対しては憎しみに満ちた目を向けていた。なにか裏切られたような感覚をその時から抱いた。


 両家は会食イベントを合意と取ったのか、トントン拍子で話が進んだ。いつの間にか父と祥太ママは結婚して、ウチらは一つの家で住むようになった。

 新しい母親はウチにすごく気を使っていた。どんなものが好きか、どんなテレビが好きか、どんな人形が好きか。事細かに聞いてさりげなくプレゼントしてきた。と言って媚るような嫌らしさはなかった。

 母とはいざこざはなかったが、兄貴に対しては問題ばかり起こしていた。何かあると口ごたをし、些細なことがあったら喧嘩腰になり、わがままを言いまくった。そのたびに彼はにこにこと受け止めるだけで、何もやり返してこなかった。年長の自分がしっかりし、不安定な妹の気性に優しく接しようとしたのだろう。それがまたウチの火に油を注ぐ結果となった。

 いつの間にか憧れの近所の祥ちゃんではなく、大嫌いな兄貴として見るようになっていた。


 ギスギスした中で事件は起きた。いつものように兄貴に対して口答えをした。その日はいつもよりも陰湿な、ネチネチした種の口答えだった。兄貴は相も変わらず我慢していたが、父の方の堪忍袋の緒が切れた。机をダンと叩いて、

『なんで棗は仲良くできないんだよ! お前の兄だろ! 家族なんだから少しは大事にしろよ! そんなに嫌なら出てけよ!』

 いつもは温厚な父もつい口走っていた。売り言葉に買い言葉でウチも、

『じゃあ出てくよ! こんな人と一緒に暮らせない! 今までお世話になりました!』

 部屋に戻って片っ端から荷物と財布を持って、家を出て行った。後ろから母の止める声が聞こえたが無視した。そのまま夜の帳の中を歩いて行った。

 青い月に照らされながら近所をテクテク歩いていると、次第に冷静になっていった。兄貴も好きで我が家に来たわけではないし、年上だから喧嘩をそう簡単にはできるものでもない。こっちは反撃できない相手を一方的に痛めつけていた形になる。ちょっと卑怯だったのではと思い始めていた。戻って謝ろうかなと思い始めた時、

「こんな時間に外に出るのは危ないよ」

 当事者その一がうちの目の前に現れていた。軽装であることをみると、急いでうちを追ってきたのが見て取れる。

「俺は気にしてないよ。父さんも話してくれたらわかってくれると思うよ。もう帰ろう」

 両親から追いかけるように言われたのか、自発的に後を追ったのか。彼の性格だと後者だろうな。

「帰ってやるか! あんな家!」

 また兄貴との器の違いが見せられて、退くに退けなくなった。家出の気分を盛り上げて歩き出した。こうなったらどこにでも行ってやる。言うほど縛られた記憶はないけどウチは自由だ。

「じゃあ、俺もついてくよ!」

 あんたが来ちゃ家出の意味がないでしょ! 口にすると負けなような気がしたので、何も言わずにまた歩き出した。目的地は街の中心にある駅だった。テキトーに乗ってテキトーなところで降りようと打算していた。いま思えば何の計算もしていなかったが。


 残高も確認せずにスイカを改札にタッチし、下りホームを歩いた。兄貴はうちに対してついていくと決め、けれども同時にくっつき過ぎないことを決めたようだ。走ったら追いつける程度の距離感を保ったまま、列に並んでいた。

 オレンジの線がトレードマークの電車に乗った後も、兄貴は二人分ほど間隔を空けて座った。車内にはボチボチと人が乗って行った。とにかくうちは終点までは居ようと心に決めた。そこがどこかは知らなかったが。

 酔っ払い・学生・サラリーマンでそれなりに賑わっていた車内も、都心から離れるにつれて一人また一人と乗客が減って行った。ついにウチと兄貴だけになった。外の闇も濃くなり、ガタガタという音だけが空虚に響いていた。

「肌寒くなってきたね」

 気づいたらウチの方が声をかけた。家出した当の本人が心細くなってしまった。

「そうだね。冷えるね」

 誰かが答えてくれると多少は暖かくなるのが不思議だ。また無言状態になり、外の風景をただ眺めていた。いつのまにか建物は見えなくなり、代わりに木々が窓の主役になった。そういえば最後の駅に着いたのはいつだろう。もうずっと止まらず走り続けているような気がする。

 不安になりかけた頃にようやく終点にたどり着いた。ホッと息を吐き降りて行った。途中、兄貴がちゃんとついてきているか何度も何度も振り返った。もちろんうちの後ろにいて、目があうとニッと笑った。内心安心したがまたプイッと前を向いて先に進んだ。

 駅の外は何もなかった。コンビニとかホテルとか居酒屋とか何かはあると踏んでいたが、目に入るのは原っぱと、奥深くまで広がる森だった。

『ここはヤバい』

 直感的に思った。現代日本の風景では絶対なかった。なにかおかしな場所に紛れ込んだ。漫画や映画みたいな展開だが、自然と納得していた。そして心細さと体の震えが急速に襲ってきた。やだやだ。帰りたい。家出なんてしなければよかった。暗闇とは原始的な恐怖を催すものだと理解した。

 そんなときに左手にホワっと熱が広がる感覚があった。見てみると兄貴がおずおずとウチの手を握っていた。いつもと同じようにニコニコと笑いつつ、

「見て。あっちの方に明かりがあるよ。誰かが住んでいるかもしれない」

 遠くの向こうには微かに光が見えた。それは住居の灯火と言えなくもない種類のものだった。ただ明かりを目指すには怪しげな森を超えなければいけなかった。

 後ろを振り返る。駅はもう消灯していて、誰かが来る様子もなかった。始発の列車はしばらく来る気配もなかったし、そもそも始発という概念があるのかすらも怪しかった。退くも地獄、進むも地獄という状況だった。

 兄貴の表情を見る。彼は待つよりも遠くの光に期待をかけていた。

「……じゃあ。向こうに行ってみよう」

 ぼそっと、消極的な賛意を示した。

「オッケー。レッツゴー」

 そういってウチの手を握ったまま、ゆっくり前に進んで行った。遅れないようにトコトコとついていった。周りには誰もいないが、側からだと普通の兄妹に見えるだろう。

 改めてじっくりみると、兄貴の背中は思ったよりも広かった。よく遊んでくれる祥ちゃんは、ずっと年上だったことも思い出した。こうしてウチと祥太のささやかな冒険が始まった。


 森の方からホーホーとふくろうの鳴き声っぽいものが響いていた。がさがさと小動物が動く音も鳴っていた。それでも原っぱにいるウチらに近づいてくることはなかった。

 ゆっくり一歩ずつ確実に。慎重に慎重を重ねて自分たちは奥へと進んでいった。何かが出た場合には剣も銃もないけれど、それでも気休めにはなった。

 一時間か二時間か、ひょっとしたら三十分も経ってないかもしれないが、うちらは森を抜けて、建物を見かけることができた。明かりの出元はここのようだ。外見は『集落』というのが似合っており、まるで日本昔話ようだった。

 モクモクと夕飯の煙が上がっていた。パチパチと魚を炙っている音が聞こえた。どこかから味噌の香りが漂っていた。それでも不思議なことに『誰かいる』という気配は全くなかった。

 この場所は温かさと不気味さが混ざった何とも言えない場所だった。ウチは警戒感を解くことができなかった。隣の祥ちゃんを見上げた。彼もこの集落の中に入っていくか決めかねているようだった。ウチの目をみてどうしようか考えてる風だった。自分の見解を述べようと口を開けかけた時、

「おや。お客さんとはめずらしいね」

 二人して反射的に後ずさった。目の前には一人のおばあちゃんがいた。ジブリの映画に出てきそうな割烹着をまとって、目元と口元には人の良さそうな笑顔が出ていた。それでも現れてきたときに足音が全くなかったのが気にかかっていた。

「お嬢ちゃんたちはとこから来たんだい?」

 知らない人に個人情報を教えてはいけない、と学校で習ったが、

「……M野から来ました。C線に乗っていたら、ここに迷ってしまって」

 現実とは異なる次元の世界であることは第六感で理解したから、コミュニケーションを取る意味でも素直に話した。

「おおそうかい。遠いところからよく来たねえ」

 確かにいろんな意味で遠い場所に来た。この懐かしい空気と温和なおばあちゃんに影響されて、緊張の糸がふっと緩んだ。それにともない、グウという腹の虫が鳴った。慌てて打ち消すように、

「ちょっと兄貴」

 人のせいにした。向こうも『え? 俺?』という戸惑った表情を見せた。

「ははは」

 老婆は短く軽快に笑った後、

「まあまあ。長旅で疲れたろ。せっかくだからご飯にでも寄っておいで」

 といって、茅葺き屋根の家に入って行った。中からは出来立ての夕餉のにおいが流れていた。すごく美味しそう。でもすごく怪しそう。日本昔話だったら絶対おばあちゃんが化けるやつだよ。でも、後ろの森は森で狼に食われそうな気配があった。

 隣の祥太とまたアイコンタクトを取る。『どうする?』

 兄貴もウチの目を見る。

『中に入るしかないだろう』

 満場一致でお招きに預かることとなった。おばあちゃんに続いて、昔ながらの建物に足を踏み入れた。

 中はさらにノスタルジーを抱かせた。高い天井に囲炉裏、串に刺された魚。経験したこともないのに、かつてここで暮らしていたと思わされた。

「まあまあ。お茶でも」

 すうっと日本茶を出された。こんな夜更に飲むと眠れなくなるのでは。無粋な言葉が頭に浮かんだが、そもそもこんな状況で寝る方がどうかしてると考え直した。素直に飲んでみると、熱すぎずぬるすぎず、ちょうどいい温度になっていた。まるでこのタイミングでウチらが来るのを分かっていたみたいに。

「おばあちゃん」

 意を決してうちは口を開いた。

「ここってどこ?」

 聞いてどうなる、というものでもないし、分かってどうなる、というものでもない。それでも何らかのとっかかりは欲しかった。

「ああ。マヨヒガだよ」

 マヨヒガ? どっかで聞いたことのあるフレーズだ。頭の中で探していると、

「確か『遠野物語』に出てくる場所でしたっけ? 人気のいない古い家とか」

「そうそうそれそれ! あんた若いのによく知ってるわね」

 ぺちぺちと兄貴の肩を叩いた。いやいや。人いるやん人。祥太も同じ感想を持ったのか、触れられた場所の感触を確かめながら、

「えっと。おばあさんは目の前に存在しているように見えるのですが」

 おずおずと切り出すと、

「そうよ。当たり前じゃない。あんたたち、 ひょっとして何も見えないのに話しかけてたの? それ悪い霊に取り憑かれてるからお祓いした方がいいわよ」

 いかにも霊っぽい人に力説された。お前が言うな感が半端ない。

「と。ご飯できたわよ。食べていきな」

 いつの間にか目の前に御膳が並んでいた。ホクホクの加薬ご飯にジャガイモと玉ねぎの味噌汁、鮎の塩焼きに豆腐とナスの味噌田楽。ウチの貧困な田舎のイメージをそのままにしたような感じだ。


「「いただきます」」


 祥太とウチは手を合わせてから、ご飯に手をつけた。食事は辛くもなく薄くもなく、ちょうどよい濃さで、箸がみるみるうちに進んだ。

「おいしいな」

「うん。おいしい」

 どこの家庭でも飛び交う言葉を、久しぶりにウチらはかわした。建物の雰囲気も相まって美味しく感じられた。ひょっとしたら今までで一番うまい晩ご飯かもしれない。父さんと母さんがいたら、みんなで感想を言い合っていただろうな。

「ここはね。探し物を探すための場所なんだよ」

 おばあちゃんは唐突にさっきの続きを口にした。探し物を探す? 頭痛が痛いみたいに重なってない?

「なくし物だったり欲しいものだったり。そんなものを探してる人が、ふらっと迷い込むところさ。強く願えば入れるというわけでもなく、偶然ぽっかりと出会う場所だね。あんたたちはラッキーだったんだよ」

 そう? ブキミな世界にはいって寿命が縮む思いをしたわよ。今だって実はあんたが山姥でした、ていう可能性はゼロじゃないし。

「その。迷い込んだ人たちってどうなったんですか?」

 この場に飲み込まれず、兄貴は聞きたいことを聞いていた。祥太って意外と緊急時に頼りになるタイプだったんだ。

「おっと。これは個人情報保護の観点から答えられないね」

 ……いやいや。ちゃんと開示してよ。なに急に現代用語だしてんのよ。そこ重要でしょ。今後ウチらが取って食われるか無事に帰りましためでたしめでたしになるかかかってるんだからさ。

 兄貴も渋い顔をして老婆を見ていた。そんなウチらを見てあははとまた笑い、

「安心しな。取って食おうなんざは考えてないさ。ご覧の通り飯は豊富にあるしな」

 そうフォローした後、

「一つ言えることは、そう悪い場所じゃないってことさ。ここに来る人はそれなりに迷ってくるが、帰るときはそれなりに納得して日常に戻ってくよ」

 言葉を額面通りに信じるなら、どうやら無事に帰れるらしい。まだ油断はできないが、少しは安心していいようだ。それよりも気になることがある。

「ウチらが探し物をしてる、ってどういう意味ですか?」

「僕も気になりました。我が家は裕福とまではいかないですが、そこまでお金に困っていることはないので」

 二人して尋ねると、老婆はまたクククと笑みを浮かべた。

「それこそ、個人情報保護の観点から答えられないよ。というよりも、自分の胸に手をあてて考えることだね。自分のことについて悶々と悩むのは若いうちにやった方がいいよ。おばあさんからの大切な助言さ」

 そううそぶいた。つまりノーヒント。見事に煙に巻かれた。しばらく待っていても目の前の人? は何も言わなかった。

 このまま無言のときが過ぎた後、

「まあまあ。それは家に帰った後の宿題さね。そろそろ帰る頃だろ。夜が明けるしいい頃合いだろ」

 気づいたら兄貴もウチも全て食べ終わり、膳は空になっていた。よくわからないけれど、これで解放となる模様だ。結局何だったんだろう。

「おおそうだ。せっかくここまで来たんだ。なんか買っておいで。うちは雑貨屋でもあるんだよ」

 そう言って奥の部屋へと進んでいった。そんな場所があるなんて全然気づかなかった。おばあさんの後についていくと、中には色とりどりの品が並んでいた。中にはクシやけん玉、地酒と地方のお土産屋さんに見かける品が並んでいた。

 ふとその一角のコーナーに目が入った。葉っぱを模した細長い栞が置いてあった。落ち着いた深茶色をしており、この家の雰囲気に溶け込んでいた。しばらく見とれていて、ときおり手にとって眺めたりした。

 兄貴はウチが持っているものと同じデザインのものを指で示し、

「これください」

 そういいつつ、財布を取り出した。

「あいよ。990円ね」

 つまり千円ね。安く見せようと店側がよく使うテクニックだ。意外と俗っぽいな。兄貴は老婆に野口英世を一枚渡して、十円玉と栞をもらった。そしてそのまま栞をウチに差し出した。

「ほら。プレゼント」

 予想もしなかった展開に戸惑った。今日は誕生日でもないしクリスマスでもない。そもそもヘンテコリンなことに巻き込まれているのは、ウチが癇癪を起こして家出をしたせいだ。まったく兄貴が気を使う必要なんかない。

 いつもだったら何かにつけて突っかかっていたウチも、今日は素直な気持ちが芽生えていたのか、こんな展開になった後ろめたさがあったのか、

「……ありがとう」

 と、だけいい受け取った。そのまま無くさないようにポケットにしまった。

「よかった」

 独り言のように兄貴はつぶやいた。その意味について聞きたいけど、聞かないほうがいいと思った。ウチはその時もらった、ちょっとしたお土産をみつめていた。考えてみればそれは祥ちゃんからもらった初めてのプレゼントだった。



 現実世界に戻った兄妹はそれから仲良く暮らしました。めでたしめでたし。……とはならないのが、リアリティってものかもしれない。

 あの後、ウチらはノコノコと家に帰った。仏頂面で待ち構えた父と、オロオロと子どもたちの顔を見渡していた母に謝罪の言を述べた。兄貴の方からも許してくれ、というフォローをした。父は短く、

「わかった。これからはちゃんと仲良くしなさい」

 と言って、娘をまた招き入れた。明らかに母は安堵した表情をしていた。これ以降、ウチは兄貴に対して突っかかることもなくなったが、かと言って兄妹っぽく親しくするということまでもいかなかった。素っ気なく冷たい返事で接するようになり、必要最小限しか言葉を交わさない方向になった。

 父の方もそこについて言いたいことはあるが、個人の心の中ということで必要以上のことは口にしなかった。母は呆れたように思いつつも、気難しい年頃の娘に対してこう接するだろう、という丁寧な態度をとった。そして相変わらず祥太はニコニコ顔を崩さず、ウチの摂氏零度に対しても鷹揚に受け止めていた。



「……てなことがあったのよ」

 マドレーヌから過去のことを思い出すように、ひとつの栞から溢れるように記憶が蘇ってきた。そばにいた猫もどきに対して取り留めなく話していたが、彼は律儀にじっと最後まで聞いていた。

「なるほど。それでここに見覚えがあったのか」

 小さい首をぐるりと回して呟いた。

「そう。今となっては何だったのか思い出せない。内容が内容だけなのに、夢だったんじゃないかって思ってたのよ」

 そしたらひょんなことから再会した。それでもおばあちゃんの方は今日は見かけなかった。

「ところで。さっきの話をきくかぎりだと、ここは探し物があるものが来るところみたいじゃないか。今日も何か探してるのか?」

 当然の疑問を口にしてきた。

「そうそう。それそれ!」

 この子に言われるまですっかり忘れていた。

「今度の文化祭に劇をやるのよ。その役のコツを考えてたら、いつの間にかここに来ちゃったのよ」

 そう言う意味では探し物をしていたものだ。

「前に言ってた脚本を担当してる、ってやつか」

「うん! よく覚えてるね!」

 本当に馬鹿みたい大変だった。大道具はスケジュール通りに進まないわ、男子が協力しないわ、なかなか役の読み合わせができないわ、音響がしっくりこないわ。先輩方の数々の苦労を骨身にわたって味わう日々だった。でもそのおかげである程度のクオリティの物はできた。

「ホント、あなたにも見にきて欲しいな」

 普段の部活では特に呼びかけとかしないが、この時ばかりはたくさんの人に声をかけていた。猫又は渋い顔をして数秒考えた結果、

「じゃあ、行けたらいくわ」

 ウチは大声で手を叩きながら爆笑し、

「よろしく! T校の体育館でやるから!」

 とだけ伝えた。猫又は渋い顔を崩さないまま、

「行けたらいくわ」

 もう一回、口にした。



 *****


 そして直近の文化祭の終わった後の夢。裏寂しい気持ちを抱きつつ、この時には何か引っ掛かりを覚え始めていた。それは何かというと。



 濃紺の空がどこまでも広がり、橙色の提灯が辺りを飾っていた。そこかしこに屋台が広がり、老若男女が浴衣姿で歩いていた。もっとも全員お面をかぶっているため、どんな表情なのか伺えなかったが。


ーーぴーひょろぴーひょろ

ーーカンカンカン

ーーぴーひょろぴーひょろ

ーーカンカンカンカン


 祭囃子が響き渡っていた。にぎやかさと一抹の寂しさが混ざった音色だ。

「なに辛気臭い顔してるんだ」

 いつの間にか猫又が隣にいた。二本のしっぽをプラプラ揺らしながら、それでも少し疲れた顔していた。

「祭りが終わっちゃったなって思って」

 ここ数ヶ月にわたって力を入れてたことがなくなり、ぽっかり穴があいたような感覚があった。

「これから何を頑張ればいいのかなって」

 燃え尽き症候群ってたぶんこんな感じなんだろうな。

「……今まで熱をあげてたんだ。少しくらい羽を休めてもバチは当たるまい」

 そう。別に強制されたわけではない。成り行きとはいえ自主的にやったことだ。そもそも高校生の本分とはいえない。なんかこれでいいのか。

「なあに。まだ若いんだ。まだまだイベントはたくさんあるさ」

「あら? まるでかなり人生経験を積んできたような言い方ね」

 猫のくせに。

「……一般論だ。気にするな。そんなことより劇よかったな。面白かったよ」

「ホント!? よかった! すごく大変だったのよ」

 って。

「あんた観に来てたの?」

「……ああ」

「だったら顔みせればよかったのに」

 普段どうでもいいところで現れるぐらいだったらさ。

「そんなことわかったら苦労はしないさ」

 どうやら猫には猫なりに深い事情があるみたいだ。不満気な表情で、傍に向かってブツブツいっていた。

「えっ。なに?」

「何でもない」

「そう。ならいいけど」

 二人で当てどなく縁日の行方を眺めていた。さっきの彼が言ってたのが実は少しだけ耳に入っていた。

『ちゃんと目があってたぞ』

 だった。



 *****


 以上でこの不思議な話は一旦終わり。青春小説の気分で読んでいた中で、変な話をしてごめんなさい。けれど、今振り返ると猫又との交流がこの後の話のプレリュードになることに気づいた。だから、今までのお話を覚えていて欲しい。


 これから始まる終盤の伏線となるのだから。

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