第一章:チェーホフの銃
五限の授業が終わって、十分間の休憩に入った。さっきまで眠気を誘う先生の科目だっただけに、教室中に解放感が満ちていた。わずかな高校ライフを惜しむかのように話し声が飛び交い始めた。ウチの席の周りでも雑談の花が咲いていた。
「昨日の映画みた?」
「みたみた! F山が主演やってるやつでしょ?」
ウチもその映画を観ていた。十数年前に流行ったミステリー小説を原作にしたものだ。派手な作りではないものの、手堅さを感じさせる構成になっていた。特に犯人役の俳優が枯れた空気をいい具合に出していて、哀愁のある映画にさせていた。なので、
「おもしろかったよね。特に犯人がいい味だしてた」
こちらも感想を口にした。特に何も意図していなかったが、他の子たちは急に話をつぐみこちらを見て、ニタアと笑い出した。
「いやあ、さすが棗。目の付け所が違うね」
「枯れた男を見抜く力あるね」
「あの犯人、なっちゃんの好きそうな人だよね」
友人たちは口々に好き放題に言ってきた。たしかにウチの目の付け所は悪くないと思っている。枯れた男もよくわかる方だと思う。今回の犯人はウチの好みでもある。……なんだけど、妙にムカつく。こちらの様子に周囲は慌てて、
「ああ。ごめんごめん。棗センスいいよ。怖い顔しないで」
「怒った顔もきれいだけど、笑って笑って」
「なっちゃんの好きな人いいよねー。だから落ち着いて」
こいつらいったい人をなんだと思ってんだ。隣に座っている幼なじみのゲラ子はクククと吹き出さないような抑えている表情をしていた。それでも身体に現れているようで、明るく染めたロングヘアーをゆらゆら揺らしていた。
「まあまあ。しょうがないよ。棗は自分の顔を見ることできないし」
なんにもフォローにならないフォローをしていた。そんなにウチの顔が怖いか。試しにスマホを自撮りモードにして見てみたが、
「……これは怖い」
明らかに睨み付けているような女子高生がいた。何に対してそんなに恨みがあるんだ。なにをそんなにロックンロールになっているんだ。
不本意ながら皆様に詫びを入れようとしたところ、LINEに家族グループで通知があることが目に入った。なんの気なしに開くと、シンと身体の奥底が冷えていく様子がした。スウっと目が細くなっていくのもわかる。同級生たちはどこかそわそわし始めた。ああ。本当に近づきがたい顔をしているんだろうな。
一人ゲラ子は相変わらず、笑いを堪えたような顔をしており、
「棗。お兄ちゃんから連絡?」
一発で正解を当ててきた。自分の内心を見破られるのは腹正しいこと。しかし図星だからと無視して思われるのもそれはそれで癪なので、
「……そうよ」
と答えた。相変わらずゲラ子はニヤニヤして、
「今日はどうしたの?」
とズカズカ入り込んできた。やっぱり無視しようと思ったが、ここに来て大人気なさを見せるのは負けのような気がしたので、
「今日、兄貴が料理当番だって」
ただ単に事実を答えた。一同キョトンとした顔つきになった。
『良いことじゃね?』
というのが差し詰め彼女らの感想だろう。
「えっと。お兄さん料理下手とか?」
「いんや。料理が趣味らしく結構うまい」
周囲の困惑がさらに広がっていく。
「それじゃ、なっちゃんの嫌いな物ばかり作るとか?」
「いんや。いつもうちの好きな物を作ろうと頑張ってる」
友人たちは顔は見合わせた後、
『いよいよ良い兄貴じゃね?』
という空気が広がっていく。だから兄貴の話はしたくないのよ。ゲラ子は笑い声を隠そうともしないし。
「棗はお兄ちゃんのことが大っ嫌いなのよね?」
どこか冷やかしのニュアンスを含めて口にした。だからうちも、
「うん。大嫌い。この世で一番嫌い」
と返した。そしてまたムスッという表情をした。これでこの話題はおしまいという意思表示のつもりだ。友人たちも今度は察してくれて、また別の話題に移った。一人ゲラ子だけあきれた様子でこっちを見ていた。
ーキーン・コーン・カーン・コーン
チャイムが鳴り響いたため、各々が席についた。慌ててカバンから教科書・ノート・筆記用具を取り出した。うちも次の国語の教材を机の上に並べた。各々が準備し終えたところ、ちょうど良いタイミングで先生が入ってきた。
「起立」
クラス中に椅子の音が響く。
「礼」
全員頭を下げる。
「着席」
また椅子の音が響きわたった。それぞれがルーチーンワークをこなしたのを見届けてから、先生が話し始めた。
前回勉強したのはうんぬんかんぬん。今日勉強するのはうんぬんかんぬん。それなりに真面目なウチはそれなりに真面目に聞いていた。とはいえ国語の説明は基本つまんないので、裏でこっそり今度の劇の脚本を読んでいた。これも国語みたいなもんだし。
「それじゃ、順番に読んでもらうか。今日は九日だから出席番号九番から」
ちっ。うちの近くじゃないか。しょうがないから真面目に国語の教科書を見えるところまで持ってきた。確か今日読むのは中島敦の『山月記』か。……漢字が多い小説だな。
生徒たちはダラダラ順番に読み始めた。今時の高校生らしく惰性的に読む者多数。途中漢字の読み方がわからず、教師のフォローを受ける者多数。そんな中で友人ゲラ子に順番がまわったところ、
「その声は、我が友、李徴子ではないか?」
朗々たる声が響き渡った。まるで唐の時代の役人を思わせる調子があった。クラス中の視線が一気に友人に注がれていた。おおかた『さすが演劇部』という感想だろう。ゲラ子は周囲の視線を受けても涼しい顔をしていた。
彼女が座ったところで、こちらも朗読箇所を確認した。ゲラ子はうちの席の近くだからすぐに順番は回ってくる。クラスメイトたちは期待に満ちた目でうちを見ていた。
『こいつも何かやってくれるのでは?』
と思っているのだろう。クラスメイトのまなざしが集まる中、セリフがまわってきた。それもさっきの友人に対する回答という箇所が。静かに立ち上がって一泊置いた後、淡々としたトーンで、
「如何にも。自分は隴西の李徴である」
担当箇所を読み上げた。瞬間、失望の空気が流れるのを感じ取った。周囲はゲラ子みたいに多少過剰な言いっぷりを期待したのだろう。
「香村、おもしろくねえよ!」
ご丁寧にヤジを飛ばしてくるクラスメイトまでいらっしゃる。
「山田さん、静かにしなさい」
で、先生に注意される。残念でした。ご要望に沿ってあげません。クラスメイトたちは一気に興味がなくなったのか、元の弛緩した雰囲気に戻っていた。ふう、と安堵のため息をつくと、ひとりゲラ子はこちらを見てニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
授業が終わったらゲラ子は真っ先にウチの席に来た。
「いやあ、棗のセリフよかったよ。李徴子っぽさが出てたよ」
「……そう? ただの棒読み状態だったと思うけど?」
とりあえずすっとぼけてみるが、
「またまたあ。狙ったくせに。李徴子はひねくれたへそ曲がりっぽいから、口数は多い方ではない。で、あの場面は虎であることがバレて、ゲロるか逡巡しているところ。だから結果的に抑揚のないトーンになったと。微妙に声の震えもためらっている様子を出してたしね」
模範回答だ。百点だ。考えていることをまるっきりトレースしているよ。この子は現代文が得意だろうな。んが、そのまま認めるのは悔しいところではあるので、
「あんたの方はダメね。ちょっと仰々しい。クラスメイトへのリップサービスのつもりだろうけど、あまり変な癖は付けない方がいいよ」
思い当たる節があるのか、ゲラ子は今度は苦笑を浮かべた。よし。勝った。これで相子だ。何の勝負をしているか不明だが、妙な満足感を得ることはできた。
放課後。うちとゲラ子は多目的室の中でジャージ姿になっていた。目の前には後輩の男の子が一人。彼が言う。
「ゲラ子さんを殺したのは棗さん、あなただったんですね」
「……」
彼の追求に対して何も答えなかった。
「えっ? 私死んだの?」
友人は緊張感に沿わない驚きの声を上げた。
「凶器のナイフからあなたの指紋が検出されました」
後輩はどんどん証拠を提出してくる。
「えっ! 私を殺したのは棗なの? どうして?」
何も知らない被害者は一人大騒ぎしている。……死者が話しかけてくるのはうるさいな。黙って死んでてほしい。
「っくく」
ウチは犯人らしい悪っぽい笑い声を出した後、頬を吊り上げて刑事役の後輩に視線を向けた。
「ええ田中くん。ゲラ子を殺したのはウチよ。動機はそうね。彼女がうざかったから。いつもニヤニヤ笑っているし、人の内心見透かしてくるし、距離ちょっと近いなと思うし。だから殺したのよね。不思議ね。友だちだと思ってたんだけど、いなくなると清清するものね」
「棗……。そんな……」
ゲラ子は泣きそうな顔をしてうちを見ていた。田中くんは沈痛な表情で目を床に落としていた。
「棗さん、あなたを逮します」
手錠を取り出そうとしたその瞬間、ウチは田中くんの胸元にナイフを刺した。
「グハッ!」
反撃する間もなく地面に倒れ込んだ。後輩を見下ろしつつ、
「ダメよ犯人から視線をはずしちゃ。文字通り命取りになったわね」
もう参考にならないアドバイスをしてあげた。後輩くんは白目を向いたまま、まるっきり動かなくなった。あたりは一瞬静寂につつまれた。
「さあて。これからどうしようかなあ。二人も殺しちゃったしなあ」
考え込むために上を向いた。気分的には曇天が広がっているが、当然中は薄汚れた天井が存在していた。良くも悪くも崖っぷちに追い込まれちゃったから、いっそ自由気ままに旅してみようかしら。そんな未来予想図を浮かべていると、
「グッ!」
ゲラ子がウチの首に渾身の力を込めた。払い除けようとするも、万力のように固められて外れる気配はなかった。
「なんで……ウチに触れる……」
途切れかけながら言うと、
「信じてたのに……。棗は私の友達だって信じてたのに……。こうなったら、あの世で弁解を聞かせてもらうわ。一緒に逝こうね」
二人とも足から崩れ落ちた。腕はピクピクして、田中くんと同じく白目になった(さっきのいいなと思ったので真似させてもらいました)。ゲラ子は呆けた顔でうちを見下ろし、
「これで私も棗と同じように手を染めてしまった。これからどうなるんだろう。せめてもう一度あの子と話をしたい。あの子の真意を直接聞かせてもらいたい。私は棗とはやっぱり友だちだと今でも思っているから」
沈黙が流れた。後輩もウチも一言も発しなかった。多目的室にはぎこちなく、やるせない空気がただただ流れていた。
「はいはい。おしまい」
手を叩きつつゲラ子が宣言した瞬間、一気に緊張感がほどけた。演者はそれぞれさっきまでの修羅場は嘘だったかのような笑顔を見せた。
「いやあ。棗さんとエチュードをやるといつもドロドロした展開になりますよね」
後輩を苦笑いしつつ感想を述べ、
「そうよ。もっと幅広げなさいよ、幅を」
ゲラ子も軽く苦言を呈した。すみません。返す言葉もありません。
ウチらは演劇部の稽古の一環でエチュード(即興劇)をやっていた。台本通りに演じるのではなく、その場で考えたセリフや動きをしていくのだが……。
「棗は本当暗い。この前もキャバ嬢が男を破滅させる設定だったよね?」
「うっ……」
「あなたの事、愛してるわ。その心に嘘はないの。でもお金のないあなたの事は愛せないわ。ごめんネ☆」
「うっ……。うっ……」
「で。結局最後は田中に殺されてるし。今回とほとんど一緒じゃん」
「うっ……。うっ……。うっ……」
痛いところをついてくる。本当はもっと幅広いタイプの役を演じた方がいいのだろうが。演じたい人たちの中に幼気な少年とか騙された男、株のディーラーとか色々考えているはいるが、エチュードが始まると反射的に『嫌な女』の芝居をしてしまう。たぶんアドリブが弱いんだろうな。
「まあ。そこが棗のいいところなんだけどね。嫌な女が板についているとなんというか」
「……」
「本当にぶっ殺したくなる女をやると右に出るものはいないですよね! シンデレラとかだと義姉とか本当に似合いそうですよね!」
「……」
後輩と友人に好き勝手に言われているうち。言い返す事はできないし。すべて本当のことだし。別に昔からひねくれていた訳ではないのですよ。シンデレラに憧れた純真無垢なときもあったのですよ。この前みた夢の頃のようにさ。
そうして心の中でたそがれていると、当然一緒に遊んでた王子様のこともつられて思い出した。で。あの時の王子様は誰かというと……。
気付いたらスウっと目が細くなっていたのだろう。田中くんが落ち着かない様子でうちを見ていた。反対にゲラ子はいつものニヤニヤ笑いを浮かべていた。ちっ。しくったかな。
「そうだねえ。棗にもおてんばお姫様な時があったよねえ。王子様にお城に連れてってくださいって迫った頃もあったよねえ。あのときの棗ちゃんかわいかったよねえ」
舐めるようにネットリした口調でいたぶってきた。先輩の情報に田中くんが食いつき、
「へえ! 棗先輩にそんな乙女なときもあったんですね」
「そうなのよ。それがね……」
ゲラ子が調子に乗って機密漏洩しそうになったので、
「だ・ま・れ」
口止めさせていただいた。田中くんが肩をびくっとあげた。ゲラ子ははっはっはっと笑い、
「ごめんごめん。まあ、過去は過去だよね。今とは関係ないよね。失礼失礼」
ったく。これだから幼なじみは面倒だ。黒歴史を知りすぎている。本件については垂れ流さないよう更に釘をさそうとすると、
「そういえば今週ぐらいから文化祭の準備が始まりますよね? 先輩たちに話とか来てますか?」
後輩があからさまに話題をそらした。ゲラ子も渡りに船とばかりに乗り、
「いやー。まだよ。明日のクラスタイムで話し合う予定。つつがなく終わるといいんだけどねえ」
っち。逃げられたか。次にあったときには覚えてろよ。内心吠えつつ、
「ねえ。面倒だよね。ウチらに何も降ってこないで欲しいよね」
こちらも気にはなっていたので話の輪に混ざった。我がT高では文化祭で二年生が劇をやるのが定番となっている。脚本・演出・もちろんお芝居すべて高校生のオーダーメイド。これが案外しっかりしていて、毎年参加者に評判になっている。
つまり、当然その分だけ生徒たちも身を粉にする必要があるということだ。春から秋にかけて他のイベントを二の次にして準備を進めるもの。中心人物たちの労苦は相当なものだろう。そこに演劇部員が担当となったら、ほぼほぼ全ての仕事が丸投げされることは目に見えてる。というか、毎年先輩方は馬車馬のように働き、げっそりやつれている(それでも変わらず部活のほうに顔を出すから恐れ入るばかり)。ただまあ、
「ウチとゲラ子は大丈夫だと思ってる」
「えっ。どうしてですか?」
田中くんは軽く驚いた表情を見せた。
「別にこちとら賑やかグループにいるわけじゃないからね。仕切りたがりの人たちは別にいるし」
体育祭とか合唱祭とかで無駄に前に出たがる子たちがいた。イベント好き人なたちは大体決まっていて、特に変動はなかった。今回も何も言わずにしゃしゃり出るだろう。
「それに先輩方で人前に出たがりの人たちでしょ? 目立ちたがりと言うかなんと言うか。ナルシスト系というか。勝手に仕事を積んでいるところあるじゃない?」
「あー。たしかにそうですね」
大きな声で陰口を言うと、
『おーい聞こえてるぞ、おまえら』
予想通り先輩方のツッコミが入ってきた。基本に充実ありがとうございます。
「だからウチらは大丈夫よ。部活に専念できるわ」
「本当ですか?」
「ええ。本当よ。文化祭に時間を取られることはないわ。『絶対に』ないわ」
力強く田中くんに説明した。彼はわかったようなわからないような、どこか釈然としない表情をしつつも、コクコクとうなずいた。
ただ傍らではゲラ子が我ら二人を見て、いつものニヤニヤ笑いをしていた。いつも彼女の笑顔にイラッとされることが多いから、ついつい気になった。
「どうしたの?」
無視してもよかったが、当方としても気にならないといえば嘘になる。友人はもったいぶって、
「いや。『チェーホフの銃』ってあるじゃない?」
と言った。えっとたしか、
「物語の中で銃が登場したら、必ず発砲されなければならない、だっけ? 伏線はちゃんと回収しろ、みたいな意味だと思ってた」
「そうそう」
こちらの回答に首肯して、またニヤニヤとした。
「……なにが言いたいの?」
「いや。今風の言葉でいうと。フリにならなければいいわね」
といった。そんなバラエティ番組じゃあるまいし。
「ダ○ョウ倶楽部みたいなことあるわけないでしょ」
やんわりと注意した。テレビみたいなことが簡単に起きてたまるか。
「だといいわね」
それ以上は何も言わなかった。うーん、引っかかるなあと気に揉んでいると、
「まあ、それは置いといて。棗はこのエピソードはひとまずここでお終いにしとかなくちゃいけないんじゃない? 今日は早めに予備校の日でしょ?」
友人が注意を促してくれた。気がついたら大半の部員は下校していた。
「ホント!? いけない!!」
先輩方に頭を下げて急いで帰宅準備を始めた。備品をバッグにつめ、服のシワを伸ばし、髪を整える。もちろん化粧を軽くすることも忘れなかった。
「って。なんで予備校いくのに化粧が必要なんですか?」
無粋なことを言う田中くんに対して、ゲラ子はエルボーを繰り出した。
「おいお前。いいことを教えてやる。女の化粧に男は口出すなや」
ナイスフォロー! センキュー!
親愛なるマイフレンドに親指をグッと立てて、慌てて多目的室を後にした。視界の隅でゲラ子が呆れ笑いをしているが、頭の中で無かったことにした。
そこそこ広い予備校の教室にて。今日最後の授業が終わり、生徒たちはさっさといなくなっていた。残っていたのはウチと予備校講師の二人だけ。質問者の列の中に一番最後に割り込んだ成果が出た。
「ねぇ。せ・ん・せ・い」
目の前には軽く無精髭を生やして、適度に崩したスーツを着て、枯れた雰囲気を醸し出した大人の男性が一人。
「昨日なにしてたの?」
「そんな昔のことは覚えてねえな」
「今度の日曜に会える?」
「そんな先のことはわからねえよ」
もう。ハンフリー・ボガードみたいなこと言って。すごく似合う。うっとり。
「まるで『カサブランカ』みたいですね。うちってイングリッド・バーグマンに似てません?」
「その辺にいる町娘Aだろ」
「先生っていけず!」
そんなところもまた素敵だけど。
「おおい香村。三文芝居は興味深いがここまでにしてくれ。予備校の講師ってのは残業代が出ねえんだよ」
と。これ以上困らすのはイケナイな。早く本題に入らないと。ノートを開いて今日の授業で理解しきれなかった部分について質問する。
「この分の構造ってどうなっているんですか? なんかグチャグチャしていて」
なんかポイントがあるはずなのに、うまく言葉にできなくて悔しい。それでも先生は辛抱強くうちの質問を聞いてくれて、
「ああ。これな。thatで区切ればOK。どうだ?」
なるほど! 絡まっていた文がスッキリし始めた。
「次に。補充問題で間違えて。toとforの違いがよくわからなくて。見分け方のコツとかあります?」
「それは簡単だ。toは機械的に送るイメージ、forは気持ちをこめて送るイメージだな。Present for youってよく言うだろ?」
たしかに。言われてみればそんな感じがする!
「ありがとうございます。あ、いつもうちは先生に対してforを込めてますよ☆」
「……」
先生の目がチベットスナギツネみたいに乾いていた。そのまま帰る準備をされようとしていたので、
「ああん。待ってください。最後にひとつだけ!」
マジで聞きたかったことを質問した。
「最近リスニングの点数が伸びなくて。先生は昔どうされてましたか?」
そう。これが難しい。じゃあ、どうやってあげようとするかというと、分からないところがある。
「俺か? 月並みだがNHKのラジオ英会話を利用してたな。たまに洋楽とか短編小説とかが流れて息抜きにもなってたな」
ラジオか。いいかも。なんか勉強してるっぽくてかっこいい!
「最近だと洋画を英語字幕とかで観るのもいいかもな。特に一回みたやつとかだと、あらすじも知ってるし」
たしかに。それは良さそう。本当に趣味と実益を兼ねられるし。試してみよう。
「興味ってのは最も優れた教師だ。香村って確か演劇部だろ? 映画好きそうだからこのやり方がいいんじゃね?」
覚えてくれてたんだ。身体の芯がほのかに暖かくなるのを感じた。
「ご丁寧にありがとうございます。英語って難しくて」
「だろうな。人間は興味があることと必要なことしか必死こかねえからな。英語できなくても生きていける日本人だとそうそう身につかねえよ」
予備校講師がそれを言うか。
「どこの大学でも重要な気がしますが?」
「いい大学に行きやすくなるって意味ではな。でも別の教科を頑張ればある程度カバーは効く。世界の国でいうと英語ができなきゃまともな大学や会社に入れねえっというあからさまな階級社会なところもあるからな。この国だとかわいいもんさ」
「クールですね。じゃあ、なんで先生は英語を教えてるんですか?」
「そりゃ金になるからに決まってんだろ。政府やら企業やらが煽りまくってくれてるおかげで、当分おまんまの食いっぱぐれもねえからな」
「夢も何もないですね」
「大人になるってのはそんなもんさ」
そんなもんなのか。味気ないものね。そんなうちの反応を見た先生は、
「ま、まあ。ほら。あれだ。英語は全世界の共通語みたいなもんだ。科学やビジネスの世界では『ヘタクソな』英語でコミュニケーションとってるんだ。できるに越したこたあねえよ」
ぎこちない笑顔で取ってつけたようなフォローをした。そして、
「さあさあ。今日はここで店じまいだ。帰ってちゃんと予習・復習しろよ」
うちに帰宅を促した。時計をみるといい時間になっていた。ずいぶん先生を拘束しちゃったな。予備校の終わりを名残惜しく思いつつ、この後の兄貴との食事を思うと気が重くなった。
家に帰ると暖かい空気と良い匂いが漂っていた。台所の方からはリズムカルな包丁の音と水の流れる音が響いていた。ああ。相変わらず準備がいいことで。険しい顔になっているのを自覚しつつも、
「……ただいま」
聞こえるか聞こえないか、できれば聞こえないで欲しいボリュームで言った。瞬間、包丁の音が途切れ、
「おかえり」
エプロンで手を拭きながら、うちを出迎えに玄関に寄ってきた。。ちっ。あいかわらず耳ざといな。
短く切った黒髪、剃り跡が見当たらない顎、くりっとした目。けれどどこか柔らかさもある目。夢で見た男の子がそのまま成長した姿がそこにあった。
「ご飯できそうだけど、すぐ食べる?」
「……たべる」
そうしないとすぐ冷めるでしょ。そんなことでいちいち気をつかわないでよ。
「よかった。じゃあ、すぐに用意するよ」
いそいそとまた台所に戻っていった。うちは自分の部屋に戻り、ベッドにバッグを置いた。軽くため息をついた後、Tシャツとスウェットに着替えた。
ここでグダグダして困らせてやりたい衝動に駆られたが、自分ですぐ食べると言った手前、それはダサいと思いリビングに向かった。兄貴は既に席についてウチを待っていた。
テーブルには明太子スパゲティ、ハンバーグ、サラダが並んでいた。うちの好物をメインに作ったのがすぐにわかって、またイラッとした。
「いただきます」
「……いただきます」
静かながらも食事の挨拶をして、皿に手をつけ始めた。
「学校はどう?」
「……ふつう」
「授業ついてけてる?」
「……ぼちぼち」
「演劇たのしい?」
「……まあまあ」
兄貴はコミュニケーションを取ろうとするも、こちらは反抗期の子どもよろしく素っ気ない返答をした。
「……」
「……」
取りつく島のないウチを見て、先方もこれ以上は暖簾に腕押しと察して何も口にしなかった。沈黙がリビングに広まっていた。聞こえてくる音はナイフとフォークが皿にあたる音のみ。……なんかしゃべってよ。こっちは話したくないけどさ。なにも音がしないのも苦痛じゃない? うちが何様なことを考えていると、向こうは忖度してくれたのか、
「せっかくだからレストランみたいに音楽かけてみようか」
ミュージックプレイヤーをこちょこちょといじり、BGMをリビングに流した。聞こえてきたのは落ち着いたピアノの音としわがれた男性の声。ドーリー・ウィリアムズが歌う『As Time goes by』だ。
どうせうちに気を使って選んだのでしょう。なんかモヤモヤするものの、兄貴と口を聞くよりもはるかにマシなので、何も言わなかった。うん。たらスパは程よい塩辛さだ。
それなりに気に入ってる曲を聞きながらの食事だったので、イライラは少なくて済んだ。全部食べ終わったので、
「……ごちそうさま」
と、つぶやいた。兄貴は嬉しそうな表情をしていた。問いただしたい気持ちもあるが、口を聞くのもうざったいのでそのまま自分の部屋へと戻った。
「……ふう」
ベッドに転がる中で、今日一日中の疲れが抜け落ちる気配がした。安堵のため息をつきつつ、スマホをみると着信履歴が表示されていた。相手は……お母さんか。微かに肩が強張るのを感じつつ、すぐに電話した。
『はーい。もしもし?』
相手はすぐに出た。
「あ、……お母さん。さっき電話があったけど、どうしたの?」
『やあねえ。棗げんきかなーって思っただけよ。ちゃんとお兄ちゃんと仲良くしてる?』
さっきの冷めたリビングの光景を浮かべつつ、
「うん……。ちゃんとやってるよ。今日も二人でご飯たべたりもしたよ」
嘘を交えないで話した。先方はクックッと笑った後、
『それはよかったわ。お父さんの仕事の都合で、これから私たちいないときが多いけど、ちゃんとやってね』
暗澹たる気持ちが胸の中で渦巻いた。とにかく言葉の端に出ないように留意しつつ、
「うん……わかった。……お母さんも元気でね」
模範的な回答をした。
『ありがとー。祥太のことよろしくね!』
そしてプツっと音が切れた。
「はぁ」
やっと一息つけた。今日一日いろいろあったけど、待ちに待ったプライベートの時間を満喫しようと心に決めた。カバンから今読んでいる恋愛小説をとりだした。使い込んでいる葉っぱを模したしおりを置き、ベッドにぐてっと横になりながら、ペラペラとめくっていった。
物語は東南アジアで不倫している男女の話だ。向こうの蒸し暑い空気感と悪いことしてる感が面白くて、ページをめくる手がとまらない。途中、登場人物が愛について述べている詩があった。ちょうどこの本と同じタイトルだったから興味深かった。
人間は死ぬとき
愛されたことを思い出すヒトと
愛したことを思い出すヒトとにわかれる
私はきっと愛したことを思い出す
ウチはどっちになるだろう。性格的にはたぶん『愛したこと』を思い出しそうな気がする。だが、もしあの人に目一杯愛されたとしたら……。それだけで死んでもいい気がする。
って、十七歳の子どもの時点で考えても答えは出ないわな。十年後の宿題ということで今は置いておこう。
そんな誰に訊かれているわけでもない問いに対して答えが出たところで、頭の上にピコンと電球が光った。年季の入った栞を間に挟み、急いでスマホを開いて先生にLINEを打った。
『先生、ウチはいま本を読んでるんです。XXXって小説なんですけど、とっても面白いです。不倫の話なんですけど、雰囲気や言葉が独特で』
ここで一区切り。一旦送信して、
『その中で印象的なフレーズがあって。先生って、死ぬときに愛されたことを思い出しますか? それとも愛したことを思い出しますか?』
夜のテンションで送った。どんな返事をするのかなと無駄にドキドキしていた。すぐに通知が来たので開いてみると、
『しらね。さっさと寝ろ』
と書いてあった。もう。イケズ。面白くないのでさっさと寝よう。明日の教科書をカバンの中に入れ、小説も元に戻し、着替えやパジャマを手にもってバスルームに向かった。