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悪魔の叫び

心臓が口から飛び出しそうと言うのはこんな状態だと初めて知った。人間は自分の事より他人の事の方が責任がのしかかってくるのも今日知った。

九回裏ツーアウト満塁。三対一。俺の高校南雲高校は最終回逆転のチャンスを迎えていた。甲子園へあと一勝。最終バッターは俺。

「一番ショート五十嵐君」ウグイス嬢が俺を呼ぶ。緊張で喉がからから。多分、十六年間で一番息が臭い状態だと思う。いつものルーティーンでバットを立たせて両手でバットを持ち屈伸する。それからバットの端を持って腕のストレッチ。ゆっくり打席を均し、打席の前に立つ。心臓が飛び出してきそう。軽く気持ち悪さをおぼえる。逃げれたらどんなに楽だろうか?

ピッチャーはプロ注目の150キロ左腕。名前は何だっけ?

とりあえず、左対左。相性は最悪。まだ心の準備も出来てないのにピッチャーはキャッチャーのサインにうなずく。仕方なしに俺はかまえて球を待つ。

でかい体ででかいモーション。ピッチャーは日本人らしからぬ長い脚を上げて俺に球を投げ込んでくる。

回転は丸見え。150キロってこんなもんなんだ。ボールだと思ってる球がストライクゾーンをかすめる。

確かにこれは高校生の球じゃないね。キレとノビが半端じゃない。ただ、打てない球じゃない。タイミングは計った。さっきの球の感触を忘れないように打席で一回足でタイミングを取って、反復する。ヨシこのタイミング。次は確実に打てる。

また長い脚を上げて投げ込んでくる。回転はカーブ。外側から俺の方に食い込んでくるカーブ。どんだけ曲がるんだよ。しかもさっきのまっすぐとは球速が多分30キロくらい遅い。もうすっかり俺の脳裏にはカーブのイメージが刷り込まれてしまった。野球はタイミングのスポーッとはよく言ったものだ。セオリー通り速い球の後は遅い球。しかも投げるのは超高校級の投手。でもだいぶ喉の渇きが薄れていき、わくわくしてくる。エンジンがかかるのが本当に遅い。

打席を軽く均し、かまえる。190センチの怪物を172センチの俺が退治したらみんな驚くかな?

思わず笑顔になる。俺は集中力がだんだん高まってるのを感じた。

長い足が上がり、白球がミットめがけて投げられる。回転はまっすぐ。しかもど真ん中。打つ瞬間ショートとサードの間があいているのを確認し、そこに流し打つ。金属バットがボールを弾く音。狙ったコースに球が行く。ガッツポーズはあえてしない。ポーカーフェイスの方が格好いいから。

俺は悠々と一塁へ走る。

「アウト」俺の頭の中は「?」で一杯になっていた。どういう事。

打球が飛んだ場所を見た。サードが泥をほろっている。

あのあいた空間に放った打球をこいつは取ったんだ。

俺の負け。そしてこの瞬間南雲高校は甲子園を逃した。


バスの中は静まり返っていた。先輩たちの俺への目が厳しかった。視線が痛いってこういうことなんだろう。一番後ろの席に身を縮めて座った。誰も俺の隣に座るやつはいない。三十分のバスの旅は俺の心をずたずたにした。誰も俺の話題を出さない。

学校につき一年の俺は荷物を持ち、部室に走って行く。

全員が部室に集まると監督の萩原が話し始めた。

「今日は残念だった。非常に惜しい試合だったが、最後にあのプレーをされてしまってはしょうがない。みんな良く頑張ったし、俺に良く着いてきてくれた。三年生ありがとう。では解散」そう言ってそそくさと萩原は部室から出て行った。

「五十嵐以外はグランド整備。五十嵐は部室に残れ」キャプテンの森。

「はい」と一年43人、二年39人が一斉に言って、外に出る。

最後の一年の秋田が部室から出ると三年35人は俺を取り囲んだ。

「最後の大会を台無しにしてくれたな」森がいつもに増してでかい声を出してくる。背番号十。俺が入ってくるまでは正ショートだった。だから余計むかつくんだろう。

「すみません」あれは俺のせいじゃないですっていうのは言わなかった。

「謝ったら甲子園行けるのか?」副キャプテンの七海がしゃしゃり出てきた。こいつは誰かの下について威勢を張るしかできないクズ。

「すみません」謝って甲子園に行けたら政治家みんな行けるだろ?

「謝ってすむ問題じゃないんだよ」森がそう言って俺を羽交い絞めにする。

それをきっかけに一斉に俺の腹に足や拳が飛んでくる。さすがに鍛えてるだけあるな。結構いたい。てかかなり痛い。

何分殴られていただろう?腹筋も疲れてきた。

森が最後に俺の左わき腹に蹴りを入れてリンチ終了。鈍い嫌な痛みが俺を襲った。

七海がうずくまってる俺を立たせる。抵抗する力も残っていない。しかも相手はウェイトトレーニング大好きプロテインが主食の七海君。俺の非力な力では太刀打ちできない。

もう諦めて俺は七海に体をあずけた。俺のロッカーの扉が開けられる。

扉とロッカーの間に俺の左の小指を挟め、ロッカーの扉で俺の左小指を固定する。

「やれ」七海ちゃんの掛け声で三年生が順番ロッカーの扉を蹴る。鈍い音が規則正しく部室に響きわたり、三年生たちはにやにや笑ってる。俺は蹴られるたびに小指の感覚がなくなってるのを感じた。終わった時にはきっと折れてるだろうな?

二周目突入。森がげらげら笑いながら扉を安ども蹴る。もう左小指の感覚は全くない。

「もう離していいぞ」そう森が言って、俺は解放された。もう動く気力もなかったが、部室が怖かったので気力を振り絞って俺は荷物を持って部室を逃げ出した。三年生はげらげら笑っている。


自転車に乗って一番上の兄貴の経営している整形外科に向かった。左小指はあり得ない方向に曲がっている。

受付の渚ちゃんんに「兄貴いる?」と言うと内線ですぐに確認してくれた。

「五十嵐先生は今大丈夫ですか?はい。今一樹君が来てまして。はい。解りました。」渚ちゃんは受話器を置いて「今手術が終わったところだから待合室で待っててですって」と美きりの笑顔を俺にくれた。

「はい」渚ちゃんの笑顔で俺は少し疲れが消えた気がした。

十分くらい待ってると白衣を着た兄貴が笑顔で登場した。

「どうした?」俺の小指を見て兄貴が言った。

「ちょっとね。これ見てもらえる?」小指を兄貴に向けて言った。

「良いよ。今ちょうど手空いたから。渚ちゃん、第三手術室今空いてるよね?」

「はい。今日はもう手術は入ってません」

「了解。」俺の渚ちゃんに笑顔を振りまく。

「まずは、レントゲンを撮ってからだな」急に兄貴の顔が医者の顔になる。

「あぁ」兄貴のギャップにそう答えるしかなかった。

「じゃ、ちょっとこっち来て」俺をいざなうように兄貴は前を歩き始めた。俺は黙って兄貴の後をついていく。

レントゲン室は地下にある。一番奥の「4」と書かれた扉を開けて、兄貴は中のレントゲン技師に話しかける。

「今、大丈夫?左手なんだけどさ」扉に顔を挟めて、兄貴はレントゲン技師と話をする。

「はい、大丈夫ですよ、今準備しますからちょっと待ってください。」確かに聞こえた声は男の声だったが、かなり高音。一瞬モスキート音だと思ったくらい。

「ありがとう」そう言って兄貴は扉を閉めた。

「すぐ準備してくれるって」兄貴は扉の前のソファーに腰を下ろす。俺も「ありがとう」って言って兄貴の隣に腰を下ろす。

座った瞬間力が抜けて、兄貴のいない方に倒れこんでしまった。

「大丈夫か?」兄貴の声が遠くに聞こえる。

「だ、大丈夫。ちょっと疲れただけ」ちょっとってのは俺の見栄。本当は死にそうに眠かったし、小指も脇腹も心配で仕方なかった。

「準備できましたよ」モスキートが扉の隙間から顔を出す。

「はい」兄貴は俺を立たせるために体を支えてくれた。何とか自力で立とうとしたが少ししか力が入らなかったが、兄貴は涼しい顔で七十三キロの俺をお姫様だっこしてくれた。

医者ってこんなに力要らなくね?俺の家は俺以外みんな筋肉も身長もすごい。軽く兄貴がうらやましく感じた。

寝ながらでもレントゲンがとれるようにベッドを隣に用意してくれていた。モスキートはなかなか使える。

兄貴は俺をベッドに乗せて、体を触診し「左わき腹も痛いんじゃない?」と言った。

「うん」それしか言葉が出なかった。

「了解。田中ちゃん、脇腹のレントゲンも頼むわ。こっち」そう言って兄貴は俺の左わき腹を指さす。

「解りました」モスキート田中は俺の手にレントゲンの機械をセットしながら言った。

「まずは、左手から撮影しますね。」そう言って、モスキート田中は隣のガラス張りの部屋に兄貴と入って行った。

「ではじっとしててください」そう言われても動けないから大丈夫。

一秒くらいで一枚目が終わった。続けて、三枚撮って、モスキートが機械を調節して、またガラスの部屋に行く。

何枚か、手の裏と表を撮影し、左手の撮影は終わった。

次に兄貴に支えられて、左わき腹を撮影した。

レントゲンを撮り終えて、出来上がるまで兄貴の部屋、つまり院長室で仮眠をとった。体が鉛になってしまったかのように重たくて、院長室のソファーに座った瞬間眠ってしまった。多分人生最速。一秒で就寝。

「起きろ、起きろ」何度か俺の頬を叩く手の感触が感じた。俺は体を起こして「おはよ」と夢現の状態で言った。

「寝ぼけるなった。とりあえずこれ飲め」そう言って兄貴は紙コップに入った冷たい緑茶を俺の前に差し出した。俺はそれを手に取り、乾いた喉に流し込んだ。お茶が乾いた喉を潤すのを感じる。だいぶ目が覚めてきた。それと同時に小指と脇腹の痛みが蘇ってきた。思わず顔を歪めてしまう。

「大丈夫か?」俺の背中に左手を回し、兄貴が聞いてきた。

「ここに来てる人で大丈夫な人いるの?」無理に笑顔をつくってみせる。

「確かにそうだな。それ飲んだらさっそく手術だからとりあえずシャワー浴びてこい」そう言って兄貴は立ち上がった。

「どこで浴びたら良いの?」飲み終わった紙コップを右手で握りしめ潰し、兄貴を見上げた。

「隣の部屋にシャワーついてるから勝手に使って良いぞ」そう言って兄貴は部屋を出て行った。

院長の机の後ろに戸があって、そこから隣の部屋に行けた。

部屋に入ると下足場があって俺はそこで靴を脱いでフローリングの床に足をおろした。

靴下をはいていても少しだけ床の冷たさが感じられた。クーラーがかなりきいてる感じがしたが暑がりの俺にはちょうど良かった。

目の前にはでかい液晶テレビがあり、その下にハードディスクレコーダーがあった。

俺は窓際の戸を開けて鍵を閉めた。そこで弓フォームを脱いで鏡で自分の体の傷を見る。殴られたところが赤黒くなっている。腹、脇腹、背中に無数の痣があった。ため息をついてお湯の温度を四十五度の熱めにセットし、俺は浴槽の戸を開けた。

浴槽は生活感の無い、使われた形跡が全くない状態だった。白いタイルの床にシャワーのお湯が温まるまで水を出す。手で温まるお湯を確認し、シャワーのノズルを固定場所に置く。お湯は無機質に流れ出る。

流れ出るお湯に頭を入れる。温かいお湯が傷にしみて顔を歪めてしまう。

痛みにも慣れて、シャンプーをし、体を洗う。ボディーソープを流し、歯を磨く。少しだけ目が覚めてきた。浴槽から出て、短い髪を拭き、体全体を拭く。白いバスタオルに水が吸い込む。髪はすぐに乾き、兄貴の用意してくれた下着とスウェットにはき替える。ユニフォームはそのまま脱衣所に置きっぱなしにして、俺はそこを出た。

もう夜が近づいていた。窓からは夕日が俺を赤く照らし、全てを赤く包んでいた。

院長室から出ると、兄貴はソファーで寝ていた。兄貴を起こさないように兄貴の机の椅子に腰を下ろす。椅子が軽くきしむ音がする。

「おはよ」兄貴は椅子のきしむ音で起きたみたいだった。

「起こした?ごめん。」俺は椅子から立ち上がり、兄貴の近くに行く。

「いや。もう起きようと思ってたから」兄貴は体を起こしよっこらしょっと言って起き上がった。

「だいぶ目が覚めたよ。ありがと」軽く伸びをすると脇腹に鈍い痛みを感じた。

「そうか、もう少しで手術の準備出来るからそろそろ手術室に行くぞ」立ち上がって伸びをし兄貴は欠伸を抑えるように口に手をあてた。

「解った」小指を見る。痛みは慣れたのか痛くなくなっていたような気がした。

二人で部屋を出て、一階の『手術室3』に入り、手術台に横になって、兄貴を待った。

兄貴は十分くらいで手術室に現れた。緑の服にマスク姿といういでたち。ドラマで見るあの格好。普段見ない兄貴のその姿に俺は少し兄貴を見直した。

小指に麻酔の針が刺される。少し痛みで顔を歪めてしまう。

「大丈夫か?」麻酔下部を見ながら兄貴は行った。

「ちょっと痛かっただけだから大丈夫」

「そうか。三十分くらいで麻酔効いてくるから」そう言って兄貴は小指が俺に見えないように衝立を立てた。

「兄貴、それどけてくれない?」俺は衝立を見ながらそう言った。

「どうしてだ?」首をかしげて俺に聞く。

「ちゃんと見ておきたいんだよ。俺の体だしさぁ」俺の良く解らない理由でも納得してくれたらしく、兄貴は解ったと言ってそれをどけてくれた。

兄貴の子供の話とか奥さんの話とか奇妙な患者の話とかを聞いて、麻酔が効くのを待った。

兄貴の話はどれもくだらない内容だったが、その話術のうまさでどれも本当に楽しい話のような気がした。兄貴は部屋にある時計を見て小さく「よし」と言って、俺の指を触って「痛くないか?」と聞いてきた。俺は触られてる感覚はあったが、痛くは無かったので「痛くは無い」と言った。

部分麻酔って変わってるって思った。本当は痛くないのに、メスが当たると痛く感じたりする。それは俺が手術個所を見てるからかもしれないが、視界が痛みを感じてるのかもしれない。例えば、テレビで事故の映像が流れると顔を歪めてしまったりするのと同じなんだろう。

兄貴は慣れた手つきで俺の指を復元して行った。手術は三時間くらいで終わり、緊張から解放された俺は手術台の上で寝てしまった。夢か、現実かわからない状態でもはっきり脇腹の痛みは感じられた。


「おはよ」起きたら目の前に母さんがいた。

俺は白い八畳くらいの部屋のベッドで寝ていた。母さんは俺の寝ているベッドの隣で丸い椅子に座りリンゴをむいていた。

「おはよ。ここどこ?」大体の見当はついていたが、一応聞いてみた。

「ここ?満の病院の個室だよ」母さんはリンゴの皮をむき終えて、慣れた手つきでリンゴを掌で八等分にしようとしていた。

「そうっか。寝ちゃったんだ。てか今何時?」

「今かい?今は十一時二分だよ」割ったリンゴの芯を取って、奇麗に皿に盛り付ける。

「部活行かなきゃ」俺は体を持ち上げて全身の体の痛みに顔を歪めてしまう。

「夏休み中は休みますって母さん監督さんに電話しといたから。あんたは体治す事に集中しなさい」そう言って俺の体をベッドに戻す。

天井をボーっと眺めているとこの世界には自分しかいないような気がした。寝がえりをうつと左脇腹が痛んだ。俺は反射的にその分に手をやった。寝巻の下に何かの感触が手に感じられた。

「おはよ」兄貴がさわやかな顔で病室に現れた。俺は左手を腹の上に戻した。

「おはよ」兄貴の顔に向かって作り笑いをする。

「どうだ、体長は?」手に持ったバインダーに何かメモを取りながら兄貴は言った。

「全身が軽く痛むくらいかな?」軽くは嘘だったがそれ以外は本当。

「そうか、打撲だからしばらくは痛いはずだけどすぐに治るから。左脇腹は二本肋骨にヒビ入ってたから二ヶ月はコルセットしといてね。絶対バットは振っちダメだから」笑顔でそう言われると怖くて絶対バット振る気にはなれなかった。

「これコルセットかぁ。何か色々ありがとね。母さんも心配かけてごめんね。」俺は頭を下げた。

「何言ってんの、子供はそんな心配しなくていいのよ」と母さんは照れながら手を横に振った。

「そうそう。ガキがそんな心配するな」兄貴はそう言って、俺の左腕についている点滴を確認し、何かまたメモを取った。

「でも、本当にありがと。で、いつ退院できるの?」母さんが俺の寝ているベッドを起こすためにベッドの前側のレバーをくるくる回している。

「そうだな。退院は今日出来るぞ。でももう一日泊まっていけよ。うち結構可愛い看護師いっぱいいるし」兄貴は俺に体温計を耳に当てて言った。

「そうする。背の低い細身の胸の小さい娘いる?」笑いながら聞いてみた。

「景子ちゃんはどうかな?」そう言って兄貴は俺のまくら元のナースコールを押して「景子ちゃんいる?」と言った。

ナースコールから「私ですが、何か御用ですか?」と声がした。

「弟が会いたいって」

「私にですか?」

「そうそう、景子ちゃんに」

「ここはクラブじゃありません病院です」俺はその発言はもっともだと思い聞いていた。

「確かに。でも俺院長だし。俺に免じて着てくれよ」兄貴は全く懲りていない様子だった。

「解りました。カルテ整理し終わったら行きますから待っててください」そう言って景子ちゃんは受話器を強く叩きつけるように元に戻した。

「着てくれるって」

「解ってるけど、良いのあんなことして?」

「良いの。俺院長だし。」

「それ職権乱用って言うんじゃないの?」母さんの的確な突っ込みが入った。

 景子ちゃんが来たのは十三時五分だった。兄貴も母さんも帰った後だったので何だか照れくさかった。

景子ちゃんと呼ばれるその人は本当に小柄で多分身長百四十五センチくらいで、細身の目の奇麗な小顔の色白のまさに白衣の天使と呼ぶにふさわしい人だった。

「私に会いたいって本当に言ったんですか?」景子ちゃんはそう尋ねて、点滴のチェックをした。

「言ってないですよ。てか言ってても本当の事は言いませんけどね」俺は笑った。

「確かにそうですけど。でも、私は会いたかったですよ」そう言いながら愛そうの良い大きい目で俺を見た。

「兄貴の弟だからですか?」てれ隠しで言ってみた。

「そう。いつもあなたの事聞かされるからどんな人か見てみたかったのよ」そう言って景子ちゃんはベッドの隣の丸椅子に腰を下ろす。

「兄貴が俺の話するんですか?」驚いて聞いた。

「良く、ナースセンター来て自慢してるんですよ。『俺の弟はすごい。絶対甲子園に行ってスターになる』っていつも言ってますよ」その顔には嘘は無いと思えるくらい奇麗な笑顔だった。

「あの兄貴がそんなこと言うなんて信じられないですけどね」首をかしげる。

「そう?でも、甲子園のスターになるにはちょっと小柄ね?」

「良く言われます。でも脱いだらすごいですよ」

「確かに腕とかすごい太いわね。私の二倍はありそうですね」景子ちゃんは俺の腕の隣に袖をまくった自分の腕を並べる。

「でしょ。身長を補うために筋トレとかがっつりやってるんですよ。大変ですよ。一応五年前甲子園優勝してる高校なんでレギュラーに入るの大変ですよ」景子ちゃんの隣の自分の腕を曲げて力瘤を作って見せる。

「でも、一年でレギュラーなんでしょ?すごいですね。今のうちにサイン貰っておこうかしら。将来プロ野球選手になったら高値で売れるかもしれないし」笑って俺の力瘤を触る。

「サインですか?まだ誰にも書いてって言われたこと無いですけどね。」

「なら私がサイン第一号って事かしら」

「そうなりますね。でもサインなんて何書いていいか解らないですよ」

「ただ、名前書けばいいんですよ。昼休みに色紙買ってくるから後でサイン書いてね」

「解りました」顔全体で「困惑」を表現したが、伝わったかどうか解らなかった。

「じゃ、私、そろそろ行くわね」

「もう行くんですか?」反射的にそう言ってしまった後に思わず口を押さえてしまう。

「淋しいの?」にやにやしながら景子ちゃんは言った。

「そうじゃないです。ただ、もう少し話がしたかっただけですよ。俺男子校だし」

「そうか。でも、私仕事だから。また今度ね」そう言って景子ちゃんは個室を出て行った。

誰もいない淋しい部屋は俺に昨日の部室の光景を思い起こさせた。恐怖が蘇り俺は震えているのに気づいて、目を閉じて布団を顔までかけて寝ようと努力したが、闇は余計あの光景を蘇らせていた。体の震えが止まらずに、体を腕で抱きしめて、布団の中で丸くなり寝ようと努力した。気づくと深い眠りに落ちていた。


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