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赤いドレスに誘われて

作者: 街影屋 黒猫


ある日、真夏の深夜。

仕事場で残業しているのは俺一人だった。


「……終わりか……」


胸の奥に溜まった泥を吐き出すように、俺はそう言った。

目の前にあるデスクの上で、散らかった書類を片付けた。

整理した書類の山に埋もれていたスマートフォンを探り出して、掴み上げた。


画面を見る。着信はない。

誰からの連絡もない。


燻んだ銀色のアルミ合金製ボディが異様に重く感じる。

掴み上げた手の薬指にハマっている結婚指輪は、鉛色のように燻んで見えた。

俺は結婚指輪を外して、胸ポケットに収めた。


「何時だ……」


デスク端に置かれた安っぽい時計を見る。

スマートフォンの画面を見た時に確認すればいいのに、と自分で思ってしまった。間も無く日付けが変わる、急がないと終電を逃してしまう。


「帰るか……」


口から鉛でも吐き出してしまったかのようだ。重苦しいため息が口から出た。

スマートフォンを胸ポケットに収めた。

荷物をカバンに詰め込んでいく。

ペンやメモ帳を収納していく。

全て収めてカバンを閉じた。

胸ポケットからスマートフォンを取り出した。


明日はとても重要な商談がある。

無くせない理由は他にもあるが、明日に限って言えばこのスマートフォンは、心臓と同じくらい大切な存在だ。

社用の電話機は経費削減の為、廃止になった。連絡手段はこれ一つだけだ。絶対に無くせない。



タイムカードを押し、電気を消して入り口の鍵を閉めた。

薄暗い廊下を歩き、エレベーターホールへ向かった。


俺はビルを出た。夜の街では目には見えない小雨が降り、路面を微かに濡らしていた。

俺は傘を持っていなかった。

しかし、地下鉄の駅はすぐ近くにある。

水溜りができる前に、地下鉄の階段を降りる事ができるだろう。


俺は歩いた。

同じ境遇であろう会社員が足早に地下鉄駅の入り口に吸い込まれていく。


俺は歩いた。

次から次へと追い抜かれ、小雨は目に見えるほどに強くなっていた。


俺の足はまだ地下鉄入り口には届かない。

足を誰かに掴まれて引っ張られているかのように、歩きにくい感覚を覚えた。

歩調が乱れて、時折つまずいてしまった。


入り口に着いた時には、スーツの肩が濡れていた。

地下駅へと続く階段を降り始める時には、背後から激しい雨音が聞こえた。

俺は振り向く事もせずに、階段を降りた。

改札を通り、駅のプラットホームまでたどり着いた。

順番待ちをしている。列の後尾に並んだ。


俺は胸ポケットに収めたスマートフォンを取り出そうとした。


「?!……ない……え???」


自分の胸を掌で何度も叩いた。

手応えは全くない。

抜け落ちるほど深く屈んだ覚えはない。

床に落ちた音も聞いていない。


俺は他のポケットも探した。

無い。

カバンの中も探した。

無い。

無い無い無い無い無い……無い…。


「とりあえず落ち着け……」


俺は椅子に座り、深呼吸をした。

商談相手の連絡先は全てメモを取ってある。

電話応対は代替え機を用意すれば何とかなるかもしれない。

仕事面では何とかなるかもしれないが……問題なのは……。


「終電逃すけど会社に戻って……ハァ……一から探しなおそう」


俺は重い腰を上げて立ち上がった。

プラットホームから離れて階段の方へと向かった。

すると、俺の視界にとある物が目に入った。

スマートフォンだ。保護カバーも俺の装着している物と同じ。

地上へと向かう階段に続く通路の曲がり角に落ちていた。


「あった……」


嬉しいという感情は無く、口から出たのは心底うんざりしたような声。

床に落ちているスマートフォンに近づき、拾い上げようと手を伸ばした。


「あっ……」

指が触れる寸前に、曲がり角から白く細い腕が伸びてきてスマートフォンを先に拾い上げられた。


「すみません、それ俺のです!」


俺はそう言いながら曲がり角を曲がった。

女がいた。

場違いな真紅のドレスを着た女。

俺に背を向けている。

腕は掴むだけで折れてしまいそうなくらい細い。

風もないのに、ボサボサの髪とドレスの裾がバタバタと靡いている。

俺は枯れ木のような姿の女に言葉を失った。



「あの……」


俺は声をかけた。

女は返事をせずに立ち竦んだままだ。微かに身体を揺らすたびに、キリキリと軋むような音が聞こえる。

歯軋りでもしているのか?そう思った。

突然、女が勢いよく足を動かしだした。

怒り狂っているかのように肩を強張らせながら、足早に歩いていく。

赤いヒールを忙しなく動かして。

カツッ!カツッ!という軽い足音が通路に響いた。


「ま、待ってくれ!」

俺は追いかけたくない女を追いかけた。

女は青い自販機の影に隠れるようにした。

この女、何か企んでいるのか?

俺は警戒しながら青い自販機に近づいた。

赤いドレスの女が姿を消した自販機の影には、地下へと続く階段があった。


「え??」


俺は毎日のようにこの地下鉄駅を使っている。


だから分かる。


こんな場所に下方へ降りていける階段などなかった。薄暗い闇へと誘い込むかのように階段が続いている。


コンコンコンコン……。

階段を降りていくヒールの音が聞こえる。

女はこの階段を降りていった事は明らかだ。

額から汗が流れ落ちるのを感じた。

俺は一歩ずつ、階段を降りた。


錆鉄の匂いが鼻を突いた。

「なんだここは……」

階段を降り切ると、赤色の照明に照らされた通路があった。

延々と続く洞窟のように荒れた壁面。

目が痛くなるような強い赤色だ。

俺は異様な空間に踏み入ろうとしている。

今すぐ引き返したい気持ちに駆られたが、スマートフォンを取り戻さない事には戻れない。



あれを取られたら俺は……。


「くそっ!」


俺は一歩踏み出した。通路は一本道だ。

どこに続いているのかは分からない。

俺は走って女を追いかけた。

女の背中は一向に見えて来ない。

額から汗が噴き出す。鉄錆の匂いで頭がクラクラしだす。

俺は立ち止まり、床に膝をついてネクタイを緩めた。


「ぜぇ……ぜぇ……はぁ…はぁ」


この空間は何なんだ?!どこまで続いている??女はどこなんだ!?





















































…………コツン……………










俺の背後でヒールの足音がした。

足音はトンネル内に何度も反響した。

「は……ぁひぃ……」

思わず口が開き、カラカラに乾いた口内から小さな悲鳴が漏れ出した。


ゆっくりと視線を動かす。

真横の血を塗りたくったような赤い壁面が見える。

俺の呼吸はひどく乱れた。

舌が上顎に張り付くような感覚。

地鳴りのような心臓の音が身体の内側から聞こえる。


振り向きたくない。

だが、振り向かなければいけない。


俺は後ろを見た。

通路の真ん中にスマートフォンが落ちていた。

俺のスマートフォンだ……間違いない。


「はぁ……はぁ……」

スマートフォンを拾い上げ、画面をタップした。

動画のタブをタップして、一覧の中にあるサムネイルの一つをタップした。

女と男が顔を見合わせながら笑い合い、ホテルに入って行く様子が映されている動画だ。


「良かった……消えてない」


この動画の女は俺の妻だ。偶然遭遇した浮気現場の証拠映像。

離婚を有利に進めるための証拠だ。

だが、これを撮影したのは数年前。

離婚に踏み出せないのは、俺がまだ妻を愛しているからだ。

話し合いで解決できれば……。


スマートフォンは床に落ちても故障せず、動画は消えていなかった。


本当に良かった。

胸を撫で下ろすと同時に電話が鳴った。画面には咲子と表示されている。妻からの電話だ。

俺は通話を押して、耳元にスマートフォンを近づけた。



「あー、もしもし」

涼子の声だ。俺は返事をしようとした。

「はい、黒澤です」


「呪い代行の依頼をしたいのですが」

だが、電話の向こう側ですぐに返事が返された。

妻の声と、若い落ち着いた感じの女の声だ。

二人の会話が始まった。俺はその会話をただただ聞いた。


「依頼ですね、相手は?」

黒澤は問いかけた。


「旦那です、殺して欲しいんです」

妻は答えた。


「旦那様ですね……具体的な理由を教えてください」


「生命保険に加入してるので、離婚する前に死んで欲しいんです」


「分かりました、ではなるべく自然な形の方がいいですね?方法はこちらでお任せください」


「よろしくお願いします」


「あと一点質問があります、旦那さんの通勤手段は?」


「電車通勤ですがー……何か?」


「いえ……駅なら人も多くてこちらとしては仕事がやりやすいです」


「旦那は〇〇線のXX駅で降りて会社に向かいます」


「分かりました……貴方の関与を疑われない方法でやりますね……あ、報酬は死亡保証金の3割いただきます」


「……え?……わ、分かりました」


「くれぐれも"報酬を払わない"という選択をしないようにしてくださいね?では……」


会話はそこで切れた。

俺はスマートフォンを床に落とした。

その場で足踏みして、頭を描いた。爪を立て頭を掻きむしった。



「あー……あ……あ……あーあー……」


俺は来た道を戻った。怒り以外の感情が湧かない。

涙が流れて歯軋りを止められない。

心が壊れてしまったのかもしれない。


コツン……コツン。


背後からヒールの音がする。

俺は振り向いた。

赤いドレスの女が背を向けて立っていた。

女は決して俺に顔を見せようとしない。

怒りに狂った俺は、拳を握り閉めて女に近づいた。


「なんなんだお前!!」

俺は女に殴りかかった。

女は拳をヒョイと避け、手応えは無かった。

女はヒールを鳴らして逃げ去っていく。

俺は女を追いかけた。

赤いトンネル内に、二つの足音が響いた。

追いかけている俺はどんな顔をしているんだろう。

きっと鬼のような形相だろう。


赤いトンネルの終わりが見えた。駅のプラットホームに続いていた。

不可解な構造だが、気にする余裕もない。

俺はトンネルからホームに出た。

人混みの中から赤いドレスの女を探した。


「間も無くホームに電車が到着します、白線から下がってお待ちください」


アナウンスが流れた。

ドレスの女はどこにもいない。

俺は視線を右に左に動かした。


「いた……」

赤いドレスの女を見つけた。中年サラリーマンの背後に立っている。

俺は女の肩を掴もうと手を伸ばした。


「……ぐぎぎぎ……」


女は中年サラリーマンの背にめり込むようにしていった。

女が背中から中年サラリーマンの中に入り込んだ。

俺の伸ばした手は、中年サラリーマンの肩に当たってしまった。


「あ、え?!すんません……」

俺は驚きつつも、中年サラリーマンに向けて謝った。

中年サラリーマンは振り向いた。目つきがおかしかった。魚のような感情のない目をしていた。


「……ぐぎぎぎ……」

サラリーマンは歯を剥き出しにしていた。


「え?」


サラリーマンに胸ぐらを掴まれた。凄い力で線路側に押し込まれていく。

周囲の人が止めに入った。

「何してんだお前ら!!」



「おいっ!やめろ!やめ……」

俺は必死に抵抗した。

が、無駄だった。

あっという間だった。

ホームから突き飛ばされた。

レールの上に落下して、頭を強く打った。


「いて……て」


けたたましい警笛が鳴る。

悲鳴が聞こえた。俺の身体は動かなかった。



ザシュッ!!







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