第2話「吉田波瑠」
「…………。」
さらさらさらっ
ちょんちょん、スーッ
さらさらっ
さらさらさらっ
筆がキャンバスの上で踊っている。
フィギュアスケートのように。
「…………。」
美術部の部室。
控えめに響き渡る運動部の掛け声や吹奏楽部の練習の音色。
辺りが橙色に染まり出す時間である。
景色だけに留まらず時間や音までも染めてしまいそうな。
しかしそれらを弾き返すような圧倒的集中力。
「…………。」
彼女の名前は吉田波瑠。
恒春高校3年生の受験生だ。
先生から聞いた話によると、成績優秀でいくつかの大学側からの推薦の話も来ているらしい。
だが先輩は「どの大学も受ける気は無い」の一点張りだそうな。
「入学する目的も意味も無いし見つからない」ということなんだと。
ただ、絵を描いてる時は心地いいみたいだ。
なんでそんな事が分かるかって。そりゃあ分かるよ。
「…………。」
何もかも跳ね返してしまいそうな集中力。
それは凡人の僕でも感じ、分かってしまう。
空気が張り詰めているのが分かる。
そんな中僕はというと、部室でぽつりと座ったまんま。
部活なんて初めてだし右も左も分からず先輩に何度尋ねても答えてくれない。
ううむ、新入部員が入ったんだからせめて何か教えるべきじゃないのか?
――――――というよりも話しかけづらすぎる。
あまりに集中してるもんだから邪魔しちゃ悪いかなと思ってタイミングを図ってるんだけども
ずっとキャンバスに向かって筆と色だらけのパレットを持ってにらめっこしているから。
「うーん…………よし」
こんなもんか、というような表情を浮かべ、ひと息つこうと先輩はペンを置き自分の絵を見つめだした。
今だ!
「あの―――――」
「君が、新入部員君?」
「えっ!?えっと……はい」
話しかけようと思ったら逆に話しかけられ驚いてしまった。
そして改めて先輩を見ると、はっと息を呑む綺麗さだった。
幸薄な顔立ち。
ウエディングドレスのような白い肌。
たんぽぽの綿毛のようにふわっとした黒髪のショートカット。
フルートを奏でる音のように透明な声。
スラリとした細い首と華奢な鎖骨。
数秒ぐらい固まったと思う。
単純に綺麗な人だと思った、僕ってちょろいなあ。
そんな僕に先輩はただ、ぽつりと呟くように。
「絵、好きなの」
「えっ、ああ見るのは好きですけど――――――」
「いや、私が」
ああ、自分の話か。主語って大事ね。
「そ、そうですか」
うーんなんか調子狂うなあ……。
でも、何故か憎めない感じ。
先輩は筆を洗い、たたっと流れるように片付けを終えて、
「それじゃ」
カバンを持って部室を後にした。
そして、先輩の足音はゆっくりとフェードアウトしていった。
時計を見るとさっきは午後4時頃だったのにもう6時だ。
「僕も帰ろうかね」
部室の鍵を職員室に返却し、下駄箱で外靴と上靴を履き替える。
「んっ?」
玄関に視線をやると先輩の姿があった。
先輩は突っ立ったまま静かな雨空を見つめていたが、靴を履く音に反応したのかこちらを振り返り僕の存在に気付いたようだ。
軽く頭を下げ会釈する。
「ああ、後輩君。」
そう言うと先輩は再び空を見上げた。
「あ、あの。自己紹介忘れてました、篠田奏楽って言います。奏でる空って書いて奏楽です。」
先輩は空を見上げたまま答えた。
「吉田波瑠。普通の漢字。」
「よ、よろしくお願いします。」
いや、名前漢字クイズのレベル高過ぎないか。
普通ってどれ、どれ。
「先輩、帰らないんですか?」
「濡れるの嫌」
「傘、忘れたんですか?」
「よって帰らない」
「いやいや、流石に帰りましょう?」
チェンジアップのような投球返答に戸惑った。
傘を忘れたみたいだ。
ここで先輩を置いて帰る……という選択肢は男として有り得ないのではないか。
分かっているさ。
残る選択肢は――――――
「先生に言ったら、傘を借りられると思いますよ」
本当は傘に入れてあげるのが1番いいんだろうけど、そんな勇気も余裕さも僕にはなかった。
雑巾を絞りに絞ってやっと出した一滴のような思いで僕は先輩にそう言った。
先輩は空を見つめたまま首を縦に振った。
それだけだった。
僕はもう何だか申し訳なかったり、自分の情けなさに居ても立ってもいられずその場を後にした。
「じゃあ、お疲れ様でした」
先輩、本当にすいません。お気を付けて。
心の中では言えるのに、口には出せないなんて。
僕はこの場所から早く去りたくって早歩きで帰っていた。
このもどかしさからも逃げてしまいたくて。
翌日――――――
今日も昨日に引き続き天気は雨模様。
部室の窓に雨が滴る中。
「えっ先輩がお休み?」
「そうなのよ――――今日風邪を引いたんですって」
顧問の秋山薫子先生だ。
この美術部の顧問でもあり吉田先輩の担任でもある。
ちなみに昨日職員室に鍵を返した時に挨拶は済ませたので、もう秋山先生は僕のことを知っている。
「篠田君も、体調管理は気を付けてね〜」
「はい、ありがとうございます」
「あっ……そうだ、ちょっと篠田君にお願いがあるんだけどいいかしら?」
吉田宅前――――――
天気は変わらず雨。
「入部早々、大ミッション……かな?」
秋山先生から、今日の配布物のプリントを渡しに行って欲しいと頼まれた。
その時の吉田先輩の体調も、明日教えて欲しいんだと。
ちなみに先輩宅近くのスーパーでお見舞い用にりんごを買っておいた。ちょっと大袈裟だったかな。
傘を支えながらバッグの中にあるお届け物のプリントを出す準備をしておく。
あとはインターホンを押すだけ。
「押すのか……僕は押していいのか……!?」
女の子の家に行くなんて初めてだもん!
緊張だってするもんもん!
「キモッ!僕キモッ!」
ひと呼吸おいて、何をやっているんだ僕は、と自分で自分に飽き飽きした瞬間緊張が解けた……つもり。
「よ……よし…………。えいっ!」
ピンポーン
押した!押してよかった?
いや押すべきだよね?
いや!くよくよするな!
こ、これは頼まれ事であって――――――
動揺と葛藤でモヤモヤしているとインターホンから少ししゃがれた先輩の声が聞こえた。
『 後輩君か、動かないでね』
怖い怖い!先輩怖い!
きっと待っててってことだよね!…………だよね?
ガラガラガラ
引き戸が開いた。
「上がったら」
マスクを着けた先輩が顔をひょこっと出してそう言った。
ちょっと怖い。
「あ、いや大丈夫です。秋山先生から――――――」
「上がったら」
「は、はい……。」
やっぱり調子狂うなあ……。
先輩の家は風情漂う温もりのある木造の平屋だ。
「今日は、お邪魔してしまってすいませんね」
「うん」
先輩の部屋で二人っきり。
先輩の部屋は女の子らしい、という感じではなく絵に関する物ばかりで溢れていた。
もちろん緊張しないわけがなく、それを振り払うように会話を切り出したのは僕だった。
「雨、止みませんね」
先輩が頷く。
「………………。」
会話が途絶えて気まずい。
そんな僕らを時計のチクタクという音と静かな雨音は見守り、包んでいるようだ。
…………
「あっ、そうでした」
先輩が「?」というような表情でこちらを見る。
ガサゴソガサゴソ
「これ、秋山先生からのお届けものです。こっちは僕からですけど」
僕は頼まれたプリントとお見舞い用のりんごを先輩に渡した。
「ありがとう」
先輩はリンゴを手に取り、見つめながら語りだした。
「リンゴ好きなんだ、私」
「へえ、どうしてですか?」
「最初に描いたのがリンゴでね――――――」
それはそれはたくさん描いたそうで。
リンゴが好きだったんだと。
幼い頃から絵を描くのがとにかく好きで幼稚園の先生や学校側も褒めてくれたそうだ。
「――――――そして今の先輩を作ってる訳ですね」
スッ、と僕へリンゴを突き出し
「その通り」
先輩は少し嬉しそうに言った。
「今度、先輩の絵見せてくださいね」
先輩は意外にも照れくさそうに髪をくしゃくしゃしながら頷いた。
「じゃあ、僕はこの辺で……あっ」
青い花柄のカーテンが外の景色の額縁のよう。
そして強い雨。
帰れるかどうか分からないほどの雨の中。
どうしよう、と戸惑う僕に先輩がいたずらっぽくもあり、心配しているようでもある。
そんな表情でこう呟いた。
「止むまでいたら。君は病むかもだけど、なんてね」
――――――翌日、美術部部室にて
「はっくしょん!!」
「大丈夫かい」
先輩が絵を描きながら聞いてきた。
「はい、まあ……ぼちぼちですかね」
風邪をひいてしまった。
けれど昨日の先輩の言葉、意味が分かった。
「ふっ……あははっ」
「どっどうしたの、急に笑って」
「いや、昨日の事なんですけどね――――――」
また少し、先輩との距離が近づいた気がした。