2.人が幸せに暮らす町(2)
レイラたちとは、結局夜まで飲んでいた。
彼女たちと別れ、日課であるノエルへの《魅了》が終わる頃には、すっかり夜中になってしまった。
安宿の一室。衝立だけでベッドを仕切った二人部屋。ベッドに腰を掛けるアシュリーの膝の上で、ノエルは寝息を立てていた。
本当に息をしているのかは、不明だ。寝る必要があるかどうかもわからない。
ただ、ノエルは《魅了》の効果が切れる前に、必ずアシュリーの膝の上で眠りにつく。その瞬間が好きなのだと、いつかアシュリーに語って聞かせたこともあった。
――《魅了》の効果が薄れていく瞬間は、むなしい。
あれほど好きだった人間が、どんどん色あせていく。眠ってしまえば、恋をしたままでいられる。好きな相手を、最後まで好きでいられる。それがたまらなく嬉しい。
起きたときには、恋心はすっかり消えている。もはやなんの感慨も抱かない。恋が失われて行く様を、感じずにいられるのだ――と。
アシュリーは、膝の上のノエルを見下ろした。今の彼は、まだ《魅了》の効果が残っているはずだ。
寝顔にうっすら笑みを浮かべたノエルの髪をひと撫ですると、アシュリーは旅の荷物に手を伸ばす。中には、魔女の小屋で見つけた一冊の手帳が入っている。
手帳の中身は、驚くほどに大したことがない。その日の天気や、料理のメモ、落書きがときおり書かれているだけだ。白紙のページも多く、特に後半部分は真っ白だった。
もちろん、ウィッチ・ガーデンに関する記載はない。魔女との交友を示すようなことも書かれてはいない。
が。気になる名前が一つ。
――柊の月、ルシアと会う。彼女は去って行った。もう我慢できない。私は行く。
その記述を、アシュリーは指でそっとたどる。
「……ルシア」
魔女たちを追いかけるうち、たびたびこの名前を目にするようになった。ルシア。どうやら女で、そう若くもなく、多くの魔女を知っているらしい、ということだけがわかる。
魔女たちの残す記録の最後は、必ずルシアとの決別だ。彼女と別れ、多くの場合は火刑となり、死んでいく。
――何者だろう。
多くの魔女と知り合う相手。相手の魔女は火刑となる。単純に考えると、公認魔術師を狙って魔女を売る密告者だろうか。
だが、なんとなく引っかかる。普通なら、決別した時点で密告には注意を払うはずだ。なのに、なぜ大人しく火刑されているのだろう。
あるいは、アシュリーが出会った魔女たちが甘かっただけで、逃げ切った他の魔女もいるのだろうか。
これだけの密告数なら、公認魔術師に召し上げられていてもおかしくない。が、ルシアと呼ばれる魔術師に心当たりはなかった。無名の魔術師なのか。それとも、まだ魔女なのか。あるいは、魔女でさえもないただの人間なのだろうか。
――追いかけてみようか……危険かな? でも、これだけ魔女と横つながりのある相手は見たことがない。
魔女は自分を隠すものだ。自分の正体を告げるのは、命を預けられると思う相手だけ。その点で、彼女の魔女づきあいは突出していた。
――他に、情報もないわけだし。直接接触しないようにして、少し調べてみよう。
アシュリーは手帳を閉じると、息を一つ吐き出した。探し物なら、適任を知っている。ちょっと値が張るけれど、交渉次第でどうにかなるだろう。
――明日、またギルドに行ってみよう。
ついでに、いい依頼がないかも確認して、魔物避け、魔物寄せの香水も売れたら売って――。
考えながら、アシュリーは無意識にノエルの髪を撫でる。体温のないノエルは、髪までひやりと冷たい。手入れなんてしたこともないくせに、指どおりが良くて、妬ましくて仕方がなかった。
緑の髪はきれいだ。今は短い彼の髪は、気分次第で伸ばしたり、結んだりしている。長い髪を撫でるのは、アシュリーは嫌いではなかった。
アシュリーの髪が長かったころ、母親に撫でてもらったことを思い出す。もう、七年以上も前の話だ。
「…………君は」
閉じていた瞳が、うっすらと開く。
「僕が寝ているときは優しいね」
「ノエル、起きてたの!?」
うん、とノエルは頷く。とろんとした瞳、いつもよりも、少し低い声。これはどっちだ?
――《魅了》、まだ効いてる? もう効いてない?
眠いだけにも見えるし、《魅了》状態にも見える。効果はそろそろ切れるころ。判別がつかない。
「普段はあんなに冷たいのに。冷たい、というよりも、距離を取ろうとしている感じ?」
声に甘さはない。代わりに、寝起きのせいか舌足らずに感じられる。
「君の自制心は好ましいけれど」
ベッドに置かれたアシュリーの手を、ノエルが握る。握ったまま、自分の口元へ持って来て、その手首に唇を寄せた。
「もう少し、僕に許してくれてもいいんじゃないかな」
「ノエル!」
《魅了》中だ。慌ててノエルを振り払えば、彼もそれ以上は追って来ない。恥ずかしさと居心地の悪さに顔をしかめるアシュリーを見て、嘘くさい笑みを浮かべる。
「手だけじゃなくて、もっと触れたらだめかな?」
「《魅了》中は駄目! ノエルは、なんというかこう……へ、変な所ばかり触るじゃない!」
「だって、触りたいんだもん。君の誰にも触れさせない場所を、僕だけが」
「だから駄目!」
断固。アシュリーは首を横に振る。
アシュリーだって、昔からこれほど彼に制約を課していたわけではない。最初の方は本当に好き勝手させていた。
まだ丸いスライムだったころは、彼はよくアシュリーの膝の上に乗ってきた。肩や頭に乗ることもあったし、アシュリーはひんやりとした彼の感触を、可愛いものだと受け止めていた。
なのに、いつの間にか変わって行ってしまった。ノエルの接触は、だんだんと色っぽく、艶っぽくなっていった。足やら首筋やら、触れる場所もどんどん際どくなった。触れられるたびに、そこは駄目、あれは駄目と拒んでいった結果、残ったのがアシュリーの手だ。
それがノエルには不服らしい。だからこそ彼は、アシュリーから触れたくなるように姿を変えていった。魅力的で、性的で、触れずにはいられなくなるような異性の姿に。
「君だって、僕に触ってみたいと思わない?」
ノエルは自分の体を指し示し、口の端を曲げた。今は旅装を解いて、寝る前の軽装に変わっている。彼の体の線が、よくわかる姿だ。
骨の浮いた首筋。男性にしては細いけれど、引き締まった体つき。程よい筋肉の浮かぶ体を、彼は見せつけるように指でなぞる。見ている方が恥ずかしくなるような、煽情的なしぐさだった。けれど、彼にはよく似合う。わかってやっているのだ。
「僕になんだってしていいんだよ。どんなにひどいことでも、どんなに優しいことでも」
「なんもしないってば!」
ぱちん、とノエルの額を叩く。普段ならこれも喜ぶノエルだが、今はかすかに眉をしかめるだけだった。《魅了》が解けかけているのかもしれない。
「…………《魅了》中は駄目、か」
眉をしかめたまま、ノエルは呟く。眠りに引き戻されるように、彼は重い瞬きを繰り返した。
「なら、《魅了》されていないときならいいのかな」
「……その時は、こんなことしないでしょう」
「そうだね」
瞼の重さに負け、ノエルは目を閉じる。眉間の皺も、それと同時に消えて行った。また眠りに落ちるのだ。
「僕に心があれば……《魅了》がなくても、恋をしていられたら幸せなのに」
ぽつり。眠りに入る直前に、ノエルは小さく漏らした。寝言みたいに、ささやかで曖昧な言葉だった。
髪を撫でてみても、ノエルはもう目を覚まさない。本格的に眠ってしまったらしい。
身勝手なノエルを見下ろし、アシュリーは口を曲げた。
「……幸せじゃないと思うよ」
アシュリーの指には、すり抜けていく冷たい髪の感触だけがある。