1.ウィッチ・ガーデンを探して(3)
「ノエル、大丈夫……?」
「アシュリーが心配してくれてる。いつものことなのに」
うっとりとした声だが、その表情はわからない。声の発生源も不明だ。
「だ、だって……」
「大丈夫だよ。すぐに戻せる。心配いらないよ」
すぐ戻せる――そう。ノエルは首が落ちたところで、死ぬことはない。
人型を取ってはいても、彼はもともとスライムだ。魔力と体の一部がある限り、何度でも再生する。だからこそ、彼はあまり自分の体を守る戦い方をしない。足や腕をおとりに、「仕留めた」と思わせた不意を突くのが、彼のような不定形の魔物のやり方だ。
アシュリーから見える首の断面は、人にはあるはずの骨や肉はない。血の一滴もない。
代わりに、緑の液体が詰まっている。断面部分は水の入った袋のように、地面に向かって膨らんでいる。
大丈夫だ。人間ではないのだから。わかっていても、いつものことでも、アシュリーは何度でも焦ってしまう。
「……そんな泣きそうな顔。泣かせたくないのに、泣かせたくなっちゃう」
「な、泣いてない! 泣かない!!」
ぐっと唇を噛むと、アシュリーはノエルの首の断面をぱちんと叩いた。手のひらには、ぷにぷにとした弾力が返ってくる。スライムは切断面に痛みを感じないし、そもそも痛覚自体がない。超越した今も、それは変わらないはずだ。
「ひゃん! アシュリー、そんな大胆な……!」
痛みはなくても、感覚はある。
「君が自分からそんなところ触ってくるなんて……積極的!」
「私今どこ触ったの!?」
「どこって」
ノエルがもじもじしている。顔がないからわからないけど、言い辛そうにしているのはアシュリーにもわかった。
「ないしょ」
「ないしょ!」
ひっ、と身をのけぞらせてから、アシュリーはそれどころではないと思い出す。
――そ、そんなことよりノエルの首!
あるべきはずの首がないのだ。自然に、ぽろりと落ちるはずはない。アシュリーは息を吐き出すと、頭を切り替える。
「頭、切り落とされたって、どうして……」
魔物避けの香水は撒いた。獣は、火を恐れて近づいて来ないはずだ。いったい、なにがノエルの首を落としたのか?
切り落とされた瞬間、アシュリーにはなにも見えなかった。今も、周囲に二人以外の存在はない。静かな森の野営地。焚火が燃えているだけだ。
――いや。
焚火の上に、なにかが揺れている。透き通る緑色の、水袋めいた球体。球体の表面には、曖昧な凹凸がある。崩れた、粘土細工の人の頭みたいな――。
「の……っ」
ノエルの、頭だったものだ。それが、焚火の上で揺れている。宙に浮いているようだけれど、目を凝らすと、その周囲だけもやのように、ぼやけているのが分かった。
「エレメント!?」
アシュリーは跳ね起きた。緑の球体は端からもやに溶けていく。そのたび、もやはわずかに緑がかり、大きくなる。ノエルの頭を捕食したのだ。
――魔法生物。
それは、ノエルと同じく、無機物の魔物だった。
心なく、感覚もなく、魔力だけで動く。だから、魔物避けの香水も効かなかったのだ。
ノエルの首を落とす鋭さと、直前の突風から、属性は風。明確な姿を持たないあたり、無冠のエレメントだろう。
彼らは魔法生物の中でも下位種だ。純粋なる魔力のかたまり。生物と呼べるかどうかも曖昧な存在。実体を持たず、ただ魔力を増やすために他種を襲い続ける。
それが、微弱な魔力体であるうちは、取るに足りない存在だ。だが、人を傷つけるほどの魔力を持つようになれば、話は変わる。姿のない彼らは目視することが難しく、物理攻撃では倒すことができない。
自然災害と同じ。彼らが遠ざかるか、消滅することを待つしかない。危険な存在だった。
「いいね、おいしそう」
ノエルは顔がないまま、しかし笑っているとわかる声で言った。それから、少し間をおいて、フォローするように続ける。
「……君ほどじゃないけど」
「おいしくないから!」
反射的に、アシュリーは否定を口にする。いや、だけどそんな状況ではない。魔物が傍にいるのだ。
「…………あれが、噂の通り魔なの」
息を吐き、気持ちを切り替えると、アシュリーは確かめるように言った。
なんでも切る刃物とは、風のことだったのだ。人を狙うのは、おそらく人間の持つ微小な魔力を狙ってのことだろう。
「たぶんね」
首のないノエルが答える。彼はアシュリーを背に庇い、エレメントに向けて一歩足を踏み出した。
「だ、大丈夫なの?」
種族でいえば、無冠のエレメントよりもオーバーであるノエルのほうがずっと上だ。基本的に、下位種の魔物が上位種より強いことはない。
よほど相性が良いか、よほど環境が有利であるか。あるいは、変異をしないまま下位種に甘んじている変わり者でもない限りは。
――理解はしているけど……。
切り落とされたノエルの首が、アシュリーの不安を誘う。実体を持たないエレメントを、どうやって倒すことができるだろう。相手はノエルを傷つけることができるのに?
「もちろん」
ノエルは言った。顔がなくても、笑っているのだとわかる。
「君がいる限り、僕は絶対に負けないし――――」
風が止まる。木々のさざめきも消える。静寂が満ちる。
それは、次の衝撃の前触れだ。
「僕が死んでも、君は傷つけさせない」
突風が吹く。
魔力を孕んだ風が、アシュリーとノエルに向かってくる。緑がかったもやが、風の中心に見えた。
――ぼ、防御魔法……!
アシュリーは慌てて精霊に呼びかけるが、風の方が早い。
そして、風よりもノエルの方が早かった。
ノエルの体が崩れる。
代わりに、緑色をしたスライムが膨れ上がった。アシュリーをかばうように広がったその体に、風を纏ったエレメントが突き刺さる。が、破れない。弾力のある体が、エレメントの刃をはじき返した。
スライムの体は、そのままエレメントを包み込む。実体のないもや全体を大きく閉じ込め、徐々に小さく縮んでいく。エレメントは内部でもがくように暴れるが、緑色の壁がぽこぽこ歪むだけで、決して逃れることはできない。
体は収縮していく。暴れていたエレメントも、徐々に動きを鈍くしていった。もやは霞み、薄れ、スライムの体に溶けていった。エレメントが、ノエルにしたのと同じように。
最後に残ったのは、人の体積程度の、大きなスライムだ。
「アシュリー」
相変わらず、どこから聞こえるかわからない声がした。
「この格好ならいいでしょう? 君の膝を貸して?」
「む」
むむ、とアシュリーは唸る。まだ、《魅了》の効果が切れるには早い。今のノエルは、アシュリーに夢中のままだ。
効果切れまでは、彼を膝に乗せ、頭を撫でてやる。小さいころにした習慣が、今のアシュリーには忌まわしい。
「襲われたばっかりなのに……!」
「あんなの、なーんてことない」
「私には命の危機だったわ!」
死ぬかと思った。アシュリーは魔力持ちだけど、戦う力はほとんどない。一人でエレメントと出会っていたら、まず間違いなく殺されていただろう。
ノエルは大きな体を揺らす。顔がないから表情がわからない。いや、顔があったとしても、《魅了》状態の彼が笑み以外を浮かべることはないのだけど。
「…………うう」
アシュリーは息を吐いた。肩を落とし、観念してその場に座り込む。
それから、自分の膝をぽんと叩いた。
「わかったわよ! ――――ありがとう。助かったわ。だから」
どうぞ。と膝を差し出す。スライムに戻ったノエルは、毛を逆立てるように、体表全域を波打たせた。
「アシュリー、君は魔性の女だ」
ため息みたいな声で、ノエルは言った。震えるからだが徐々に薄く、大きく広がっていく。アシュリーを飲み込むほどに大きくなると、彼はその広がった体で飛びついてきた。
ひいっ、とアシュリーはのけぞった。アシュリーの目の前には、ノエルに吸収されたエレメントと同じ視界が広がっている。
ただし、ノエルはアシュリーを吸収はしない。代わりに――。
「変なところ触らないでって言ったでしょう!!」
へんたーい! と叫ぶと、ノエルは心地よさそうに笑った。