1.ウィッチ・ガーデンを探して(2)
ノエルはもともと、祝福の森に住んでいた最弱魔物のスライムだった。
出会ったのは、アシュリーが十歳の誕生日だった。魔力持ちのアシュリーが、聖教会で魔女審判を受け、忌み子として森に捨てられ、途方に暮れていた時。格好の獲物として襲い掛かってきたのがノエルだった。
アシュリーは、唯一覚えていた《魅了》の魔法で難を逃れたのだが、その先がおかしかった。
魔法の効果が切れたのに、スライムは彼女を追いかけ、ついてきた。そして、再び魔法を使うことを強要したのだ。
以来、彼は森をさまようアシュリーから離れなかった。戦う力のないアシュリーに変わり、他の魔物と戦い、その対価として魔法を求めた。
戦ううちに彼は強くなっていった。はじめは、最弱と名高い無冠のスライム。多くの魔物と戦い、大きくなったラージ・スライム。アシュリーの魔法に含まれる魔力をため込み、魔法を使えるようになったマナ・スライム。
森を出るころには、彼はスライム以外の姿を取れるようになっていた。この時点での種族名は、水人形。人形を模した姿で油断させ、近づいた瞬間に襲い掛かってくる中級の魔物で、もうスライムの名前すらないけど、一応は派生種の一つだ。
ノエルの名前は、アシュリーがつけた。
祝福の森のノエル。聖教会の忌み嫌う魔物相手に、なんという皮肉だろうか。
だけど、子供のころからそう呼んでいたし、今ではすっかりなじんでしまっている。
アシュリーとノエルが約束らしい約束を交わしたのは、森を出るころだった。
今後も、ノエルはアシュリーを守る。代わりにアシュリーは、ノエルに定期的に《魅了》の魔法をかけること。魔法は最低でも、一日一度。《魅了》中は、必ず傍にいること。
幼いアシュリーは、深く考えずに彼の条件を呑んだ。彼のおかげで森を生き延びることができたのだ。《魅了》の魔法自体は難しくもない。魔法にかかった彼は、甘えてすり寄ってくるだけで、身の危険に晒されるようなこともなかった。
だから、これで彼が付いてきてくれるものなら、安いものだと思った。
それから六年間。アシュリーが十六になった今も、この関係が続いている。
〇
「アシュリー、君はほんとうに魅力的だ」
アシュリーの膝を枕に、ノエルは嘆息した。生気のない頬が、微かに赤く染まっている。常に感情の見えない彼の顔に、今は満面の喜びがあふれている。
アシュリーはたまらない。膝の上の重みもたまらない。
スライムのころは良かった。甘える仕草は愛らしく、体を撫でればぷるぷる震えて、それがまた可愛かった。手をかざせば、自分から伸びてきて撫でられに来る辺りは、猫みたいだった。
そう。ペットみたいな感覚だったのだ。だからこそ、アシュリーは膝に乗る彼を止めなかったし、両手でわしわしと撫でてもみせた。
その習慣を、ノエルはまだ続けている。丸いスライムだったからこそ許された、膝の上で撫でられるという習慣を、アシュリーに強要し続けているのだ。
現在のノエルは、スライムからかなり変異し、オーバーと呼ばれる魔物にまで変わっている。人型魔物の最上位種の総称だ。ノエルのように無機の魔法生物から派生した場合は、これにエレメントと添えられることがある。オーバーエレメント。もはや、ただの物質ではないということだ。
ここから先に変異すると、次はもう魔物とは呼ばれなくなる。魔族、魔人、そういった種になってしまう。
そうなると、もう本当に人と変わりない。今は冷たい手も、油断すれば溶ける体もない。今は切れば透き通る緑の液体が滴るけれど、そのうち血が滲み、肉を持つようになる。
膝の上が落ち着かない。身じろぎをするたびに感じる、ノエルの頭の重みに、アシュリーはそわそわした。
「頭を撫でて、アシュリー」
目を細め、ノエルはアシュリーの手を取った。そのまま強引に、自分の頭に持って行く。
触れた額の感触に、アシュリーは戸惑った。額には体温が感じられない。夜の空気を吸って、ひんやりとしている。濃緑色の髪は、絹糸みたいに繊細で、やわらかい。本物の人間みたいだ。
思わず手を引こうとしても、ノエルはアシュリーを逃がさない。手を握りしめたまま、彼は不思議そうにアシュリーを見やった。
「アシュリー、いつもみたいにしてくれればいいだけだよ。昔は、僕の全身を撫でてくれたのに」
「変な言い方しないで!」
「変かな? 僕は頭だけじゃなくて、いろんな場所を撫でてほしい。だって、こんなにかわいらしい手なんだ」
言いながら、ノエルはまたアシュリーの指先を撫でる。もてあそぶようでいて、触れ方はひどく優しい。
「君の手は、僕のどこを触れてもいい。僕は君が、どこに触れてもうれしい。君が触れたくなるように、僕はこんな姿になったんだよ」
アシュリーを見上げて、ノエルはほころぶように笑った。言葉通り、本当に嬉しそうだ。
ノエルがどのような変異をしてきたか、傍にいたアシュリーはよく知っていた。
魔法生物であるノエルは、体内の魔力量が一定以上になると、別種に変化する。
スライムにとって、魔力を増やす方法は複数ある。何らかの魔法を受け、その魔力を吸収するか、他の生物を消化、吸収し、その生命を魔力に変換するかだ。
ノエルの場合は、アシュリーを守るために他の生物を捕食し、アシュリーが定期的にかける魔法を受けてきた。そのおかげもあって、彼は加速度的に成長してしまったのだ。
ノエルは魔力をためると、人の姿に近づくように変化していった。元は無性であったが、人型になるとき、男性に性分化することを選んだ。
姿かたちは、アシュリーが好む方へ変化していった。背はアシュリーより高いが、高すぎることはない。年は、アシュリーよりも一つか二つ上くらい。昔、アシュリーが好きだと言ったから、透き通る緑の体は、今はその色を瞳に残している。
「頭だけじゃなくてもいいんだよ。手も、足も、この体全部、君のものだ。興味ない? 触ってみたいと思わない?」
「ない! ないない!!」
ひっ、と悲鳴じみた声を上げ、アシュリーは首を振った。とんでもない。
「一度くらいは、見てみたいと思わない? きれいな体だよ。なんなら、傷つけたって、いじめたっていいんだ」
「へ、変態!」
思わずアシュリーは、ノエルに握られた手を引いた。そして、そのまま彼の額をぱちんと叩く。それを受けて、ノエルはますます笑みを深くした。
「うん。もっと言って。もっとやって。君から受ける仕打ち、なにもかもが愛しいんだ」
「ううう、この、変態! 変態!!」
「ああ、うん。君の羞恥、いいね。すごくいい」
細められた淡い緑の目は、酩酊したように揺らめいている。青ざめながら赤くなるアシュリーを見つめ、逃れた手を再び握りしめた。
「もっとその顔が見たいのに。僕は君の体に触れることができないなんて。君が触れてくれるのを待つだけなんて。こんなの――――たまらない。ぞくぞくする」
「へんた……い、いや、ううう……」
もはや、なにを言ってもノエルを喜ばせるだけだ。アシュリーは言いかけた言葉を飲み込み、小さくうめく。
《魅了》とは、そもそもそういう魔法なのだ。相手の心を奪い、どんな命令でも喜んで聞くようにさせるもの。自分の代わりに戦わせたり、秘密の情報を聞き出したり、なにか目的をもって使用し、使用後はすぐに相手から離れる。
さもなければ、魔法が切れた瞬間に、相手の怒りを買うからだ。無理矢理に感情を塗り替えられた相手は、多くの場合、術者を嫌悪し、憎むもの。自分にされたことが、気持ち悪くて仕方がない。そう思われてしまうもの。
だから、このスライムは相当な変わり者だった。
魔法が解けたとき、アシュリーを憎むどころか、再度の魔法を望むのだから。
「僕はねえ、アシュリー。君に夢中でいることがとても気持ちいんだ」
とろけそうな宝石の瞳が、アシュリーを映す。宝石には似つかわしくない、薄汚れた小娘を、世界で美しいものでも見るかのように、見つめる。
「無機物の僕が、心無い僕が、自分以外のことで埋め尽くされる感覚が。自分の命よりも大切なものがあるってことが」
一度目を閉じると、彼はゆっくりと身を起こした。膝の重みが失せ、アシュリーは内心ほっとする。
が、それも一瞬だ。突風が吹くと同時に、アシュリーは強い力で肩を押された。不意のことに抵抗もできず、地面に背中から落ちる。
――押し倒された!?
「ノエル! 変なことはしないって――」
言ったのに。
その言葉を、アシュリーは飲み込んだ。怒りと困惑に顔を上げ、視線を向けた先。アシュリーを押し倒し、覆いかぶさるノエルがいる。膝を地面につき、半立ちになったような彼の体。そして、アシュリーを見下ろす首が。
ない。
うなだれるような首の断面だけが、アシュリーの目に映る。
「ノエル!!」
アシュリーは悲鳴を上げた。全身の血が引いて行く。
首のないノエルの体に、アシュリーは手を伸ばす。その手が、彼の首元に触れた瞬間。
「切り落とされちゃった」
えへへ、とどこか照れくさそうな、ノエルの声がした。