出来ることからこつこつと
新手か。
後から来た暗殺者少女は、ぐすぐすと鼻を鳴らしているもう一人――こっちは少年だったか、その少年に向かってちいっ、と舌打ちする。
「まったく、私たちに貞操なんてあってないようなものでしょう! 減るもんじゃないわよ! ちゃんとお仕事しなさいっ!」
「減るよぉ……」
少年の泣き声交じりの弱々しい抗議を無視して、少女がたんっ、と地を蹴った。勢いをつけ、突き出したナイフごと俺の元へ飛び込んで来る。
見かけからは想像も付かないほど速く鋭い。避けなければ、と思った時には、もう切っ先が胸の辺りにに到達する寸前だった。
大尉は俺を押しのけ、ぱしっと少女の伸びた細い手首を掴んだ。そのまま体を半回転させて少女の体を背負うような格好になると、ぐんと腰を跳ね上げて投げ飛ばす。自らのスピードでかえって勢いをつけ、少女の体はすごい勢いで横方向に吹っ飛んだ。しかし、少女は地面に叩き付けられる前にくるんと体を回転させてしくしく泣いている少年の隣に、猫のように着地する。まるで軽業師だ。
「……いてて」
大尉はぷらぷらと手を振った。手の甲には斬り付けられたのか赤い筋が伸び、だらだらと血が流れている。
「途中で斬られて手ェ離しちまった」
掴まれた手と反対の手で斬ったのか。信じられない反応速度だ。もし、掴まれたまま投げ飛ばされれば、背中から地面に叩き付けられていただろう。……っていうか女の子を叩き付けるつもりだったのか。容赦ないなあ。いやこっちは襲われてるんだし、責められはしないけどさ。
「……そっちの男はそこそこやるようね」
少女は油断なくナイフを構えたが、苛々したように泣いている少年をブーツの踵で蹴った。
「さっさと泣き止みなさい! 二人でかかるわよ!」
「ふええ、痛いよぉ」
大尉は余裕を見せていたわけじゃない。どんな動きにも対応出来るようにわざと体を弛緩させていたんだ。
「おう、トーマス」
手の甲の血をごしごしとコートで拭い、大尉が囁いた。
「……はい」
「見た目で判断すんな。敵の力量見誤ったら死ぬぞ」
「……分かりました」
確かにその通りだ。あの見た目にすっかり騙されていた。けれど、あの刺突はただごとではない。大尉が咄嗟に投げ飛ばしてくれなかったら、あのナイフは俺の心臓を一突きにしていたはずだ。その事実に、改めて全身が総毛立つ。
「後ろが空いた。逃げるぞ」
「はい!」
ばっ、と踵を返して俺と大尉は同時に駆け出す。逃がさないわよ!と逃げる背中に声が飛んで来た。
狭い路地を全速力で走る。
後ろを何度も振り返りながら、必死で大尉の背を追いかけた。
「……はぁっ、はあっ……大通りまで行けば人目があるし、逃げられるんじゃないでしょうか」
「……あー……どうかね。もう大通りも人気がなくなる時間帯だぜ。多分、姿を見せたのもそいつを見越してだ」
「け、警備兵の詰め所に駆け込むとか」
「実を言うとそこまで土地勘ねェんだよなあ……探してる間に追いつかれるかもな」
「……じゃあ、元来た道を戻って歓楽街に」
「そりゃ、ちっと遠いな。やっぱり追いつかれちまう」
「打つ手ナシですか……」
「そうでもねえな。……暗殺ってのは、基本的にガチンコでやり合うもんじゃねえらしい。刺されるまでそいつが暗殺者だと気付かない、ってのが理想だって話だ。あんな格好で娼館に潜り込んでたのも、最中に隙を見て殺そうとしてたんだろ。……ああやって姿を見せたのは焦ってるからだよ。短時間で決着付けてえんだ」
「……つまり?」
「理由は知らんが、奴らには時間がねえ、ってことさ」
「……確信があるんですか?」
「だったらいいな、と思ってる」
少し道が広くなった。大通りに出たのだ。大尉の言う通り、やはり人通りはない。道に面した店も明かりが落とされ、しんと静まり返っている。……大声で助けを呼べば。いや、そうなれば警備兵の他、市民まで現れないとも限らない。この暗殺者兄妹は躊躇いなく姿を見た市民を斬るだろう。軍人の端くれとして、無関係な市民を巻き込む訳にはいかない。
唐突に振り返った大尉は、同時に足を振り上げた。軍靴の底が襲撃者の顔面にぐしゃりとめり込む。流石というべきか、よろけてたたらを踏んでも両手のナイフは離さないままだ。
もう追い付かれたのか!
女の子は追い付いたと同時に背後から急襲しようとしていたのだ。それを、大尉は蹴りで迎撃したのだろう。
女の子は顔を片手で覆いながら体勢を立て直した。……痛そう。
「……いったぁ……女の子の顔を蹴るなんてどういう神経してんのよ! それでも紳士なの! この人でなし! 鬼! 悪魔!」
大尉は眉を寄せて頬を掻く。
「ごめんな?」
「ごめんで済むわけないでしょ! 鼻血が出たじゃない!」
「ハンカチ使うか?」
紳士だ。
ふっと影が月明りを遮る。無意識に俺は後ろに飛んだ。ガッ、と俺が今まで立っていた場所に二本のナイフが突き立てられている。
「避けないでぇ」
泣き声交じりの鼻声。……こっちは少年か。
「いいわよ兄さん! そっちの弱そうなのさっさと殺してこっちを援護して!」
弱そう、じゃなくて実際弱いけど、さっさと殺されてたまるか!
俺たちの小隊の中で一番剣が上手かったニックの言葉を思い出す。
目線と、足の動きをよく見るんだ。目線が狙う箇所を、足の動きが次に来る行動を教えてくれる。
……そんな達人みたいな真似が出来るかっつーの!
畜生せっかく思い出したけどあんまり役に立たないよニック!
けれど、敵の得物がナイフで良かった。何度もかすって血が滲むのを感じたが、刃圏が狭いため、動きに合わせてバックステップを繰り返せば致命傷にはならない。相手があまり平静じゃないことも、幸運だったのだろう。少女と比べて剣先が鈍い。
と、冷静に考えてはいるが実際はうわあ、ひゃあ、と悲鳴を上げながら避けているので大変カッコ悪い。
「うえええん……避けないでぇ。死んで下さぁい」
「やだよ!」
そんな物騒なお願いを聞く気はない。大体、泣きたいのはこっちだ。刃物を突きつけられて死んでくれなんて言われるこっちの身にもなってくれ。
殺意を抱いて向かってくる人間は怖い。
……でも、フレデンスタンほどじゃない。あの人はもっと怖かった。それこそ、泣き叫ぶのが当たり前だろと思うほど怖かった。あの眼光一つで心臓が止まりそうなほど怖かった。
俺は未だに弱虫で臆病な一般兵だけど、本当の英雄の前に立ったんだ。
こんな、戦場も知らない子供の暗殺者なんて……ちょっと怖いけど怖くない!
「兄さんッ! そっち早く片付けてっ……こいつ、強……」
大尉と対峙している少女が焦燥の入り混じった声で怒鳴った。
大尉の大振りな一撃を、少女はすんでのところで躱す。しかし大尉はそれを読んでいたのか、更に距離を詰めて逆の手で掌底を打った。それを恐ろしく柔軟な体を反らせて避け、伸びた大尉の腕に斬り付けようとするが、大尉は素早く腕を引くと蹴りを放つ。少女は辛うじて後方に跳んで躱した。絶え間なく攻撃することで、少女の途轍もないスピードを殺しているのだ。けれど、斬られたコートを見る限り、大尉も着実にダメージを受けている。
改めて脅威を感じた。歴戦の元傭兵とほぼ互角に戦っているのだ、あの少女は。
俺に向かってぶん、と振られたナイフをなんとか避けた。危ない危ない。余所見なんかしてたらまず俺が死ぬ。
「うっ、うっ……もう……何で避けるんですかぁ」
「避けなきゃ死ぬだろ!」
「ふええん、来てくれれば戦わなくて済んだのにぃ」
レオナール少佐の忠告を聞いて良かった。あのまま娼館に行っていたら、正体に気付く間もなくこいつらに殺されていたかもしれない。
……あれ?
レオナール少佐の言葉を思い出し、何かが引っかかった。
――今宵はたおやかな女性の胸の中で眠るのは諦めて、宿で過ごすといい。
用心して、宿で過ごせ……って?それって、宿で過ごせば用心になる……ってことか?
「大尉!」
俺は大声で叫んだ。一か八かだ。確信はないけど助かるためだったらなんでもしなきゃ!
「宿です! 宿の近くに逃げましょう!」
「あァ!?」
「レオ少佐が用心のために宿で過ごせって! 宿の近くなら、用心になるってことじゃありませんか!?」
「……なるほどな」
大尉がそう呟くのが聞こえた。
ただの思いつきだし、保証なんてないけど……今はそれを信じるしかない。このまま黙って殺されてたまるもんか。
「ふぇえん、駄目ぇ」
泣きべその少年の顔に焦りが生まれた。やっぱり、何かあるんじゃないか?
少年がギュッと足に力を込めるのが見えた。
踏み込んで来る……?……あっ、刺突が来る!
俺は奥歯を噛み締め、踏ん張って横に避けた。途端に、体をその身体能力で限界まで伸ばし切り、予測した刃圏を遥かに超えた刺突が腕をかすめた。後方に跳んで避けていたら、確実に捉えられていたはずだ。ニックの言葉を思い出して良かった。あの言葉で少しでも足に注意を向けていなければ危なかった。
心の中でやっぱり役に立ったよ、とニックに礼を言い、少年が体勢を崩した隙を盗んでその場を離脱する。
大尉も少女を跳ね飛ばしてその後に続いた。
大通りの先は十字路になっている。
「どっちですか!」
「左だ! まっすぐ進めば宿に繋がる道に出る!」
その言葉に従い、大通りを左に折れて走る。人気がないはずの道の先に、数人の影があった。
「警備兵だ」
ほっとしたように大尉が呟く。
「ええっ!?」
俺がぶんぶんと手を振り、助けて下さあい!とあらん限りの声で助けを求めると、影たちはただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、ガシャガシャと甲冑を鳴らしてこちらへ駆けつける。
ちっくしょう!と少女の悔しそうな声が背後から聞こえた。振り返ると、もう既に二人の暗殺者の影はない。どうやら、逃げたようだ。いくら手練でも、この人数を相手には出来ないらしい。
「どうした?辻強盗にでも襲われたかね」
先頭の警備兵の隊長らしき髭を蓄えた小太りな中年の男が首を傾げた。今はこの平凡な顔のおじさん警備兵が天使に見える。
暗殺者に襲われたことを訴えようと口を開くと、大尉が手でそれを制した。
「……まーな。宿に戻る途中でさ。助かったぜ。……あんたら、この時間はここらを回ってるのかい」
「うむ。夜間は物騒でな、こうして見回りしとる。お前さんたちは旅行者……いや、傭兵かい?夜はなるべく出歩かん方がええぞ。戦争のせいで、余所者の食い詰めた傭兵だのごろつきだのがうろついとってな。そいつらが悪さしよる」
「ああ、なるほどな。だから、余所者の多い宿を中心に見回りしてるってことかい」
そうか、あの暗殺者兄妹は警備兵が来るのを警戒していたのか。
「そういうことだ。昔も今も夜が物騒なのは変わりゃせんがな。腕っ節を過信して暢気に出歩いとるとそうなる」
警備兵の隊長さんは目で、傷だらけの俺たちを指した。大尉は肩を竦めて頷く。
「ま、隊長さんの言う通りだな。油断してたよ。仕事中に悪いが、護衛を頼まれてくれねえか。いやな、小金溜め込んでることを知られちまったからよ。また狙われたらかなわねえ。宿を変えようと思ってさ」
「た、たい……」
物言いたげな俺の肩をがしっと引き寄せて、大尉は耳元に口を寄せた。
「……どっかの要人じゃあるまいし、暗殺されかけたなんて言っても信じちゃもらえねえよ。ややこしくなるだけだ。狙われた理由もはっきりしねえ。ったく、面倒くせえことになったぜ」
「そう、ですよねえ……これからどうするんです?宿を変えるって?」
「アテがある。あの野郎に借り作るのも面白くねえが、寝てる間にあいつらに忍び込まれたかねえからな」
とにかく、大尉に従っておいたほうが良さそうだ。……つくづく、自分の『何も出来なさ』に無力感を覚える。結局俺は新兵でただの一兵士で、大尉のように強くはなく、慕ってくれる部下もいないしすごい人に顔が利くわけでもない。こうやって、すぐに案を出して行動することも……何にも出来ない。大尉と比べる方が間違っているんだろうが、こんな人の傍にいるとつい余計に自分を卑下してしまう。俺はきっと、大尉に嫉妬してるんだ。
いそいで宿に戻り、荷物をまとめて外へ出た。宿のおかみさんに事情を話して、宿泊はキャンセルさせてもらった。大尉が借りる時に払った宿代は返さなくていいと告げると、おかみさんもそれで文句はないのかあっさり頷いてくれた。
警備兵のおじさんに人数を割いてもらって、警備兵さんたちに護衛されながら、大尉のアテとやらに向かう。
声をひそめて、大尉、と声をかける。
「ん? 傷が痛むか? ……着いたら手当てしてもらうから、ちっと我慢してろ」
「あ、いえ。それはありがたいんですが、そうじゃなくて……俺、大尉のこと恩人だと思ってます。っていうか、現在進行形で恩を受けっ放しですけど……ハハ……なんていうか、全部大尉におんぶに抱っこって感じで……自分が情けないです」
「あァ? 俺は俺で自分の身を守るためにやってるだけで、お前はそのついでだ。別に恩を売ってるわけじゃねえし、恩に感じる必要もねえよ」
「そうかもしれませんが、でも俺、助けられてばっかりで、そのことに恩を感じるのは当たり前です。俺……大尉への恩返しになることなんて何も出来てない。……暗殺者だって、俺を狙ってたんだとしたら……大尉を巻き込んでしまったことになります」
「……お前、いちいちそうやって自分のせいにしてて、疲れねえのか? マゾっ気でもあんのか?」
呆れたような大尉の声音に、俺は目を瞬いた。
「え……」
「誰だって出来ねえもんは出来ねえ。知らねえことは知らねえ。そりゃ、誰だって初めは右も左も分からねえのは仕方ねえだろ。助けられたんなら、俺も宿に逃げようっつったお前の提案に助けられたぜ。そうやってお前にも出来ることはあるだろ。ありゃ感心したぜ。限られた情報を武器に出来る奴は長生き出来る。想像力を働かせられる奴は強えーぞ。なのに、そいつを拾い上げもせずに何も出来ねえ、なんてグチグチへこんでよ。お前を何も出来ねえ奴にしてるのはお前じゃねーの」
自分が、自分を何も出来ない奴にしてる……か。
それは、妙に自分の中にしっくりと収まった。何も出来ないのは本当だけど、俺にだって出来ることはある。そう信じてもいいのだろうか。俺も少しは、やれば出来ることがあるのか。
「……出来ないなりに、出来ることをやれ、ってことですか」
「そういうことだな。……俺も戦い方を教わったから素人よりは戦える方だが、お前みたいに美味いパンは焼けねえよ。作り方を知らねえからな」
「はは」
そうか。その通りだ。出来ることをやればいいんだ。出来ないことはやれるようになればいい。そんなの、当たり前のことじゃないか。
「……暗殺者もな。俺も標的にしてたんじゃねえか。名前知ってたしよ」
警備兵を気にしながら、大尉は声のトーンを下げて囁く。
「確かに、そうですね……差し向けたのはやっぱり、レオ少佐の言っていた反戦派でしょうか」
「それ以外に心当たりはねえしな。お前が散々人の恨み買ってるような奴じゃなければの話だけどよ」
「そんなの、大尉だって。……人の恨み……か。ロゼルってことはありませんかね。英雄を殺された仕返しとか?」
「考えられなくもねえが、反戦派がロゼルの手先なら反戦派に命令すりゃいいだけだろ。イコールで考えていいんじゃねえか」
「……ですよね」
こっちでいいのかい、と警備兵が少し戸惑ったように訊ねた。
「こっちはもう貴族街だが……」
「ああ、ご苦労さん。ここらなら治安も悪くねえし、ここまででいいぜ。ありがとな」
……貴族街?
暗くてよく見えないが、周りには贅を凝らした大きな屋敷が並んでいる。鉄製の門の前には、門衛が警戒するようにこちらを睨んでいた。
「あんたたちが不審者ってことはないだろうね」
胡散臭げに見る目には、襲われた被害者でなく、襲う気の不審者ではないかと疑う色があった。分からなくもない。これから悪さをしようとしている人間なんて大事に送り届けたら、自分たちが責任を負うことになるかもしれないと思えば、そりゃ慎重にもなるだろう。
「いや……心配ねえよ。ここらは市街より厳重に監視されてるだろ。こんなところでおかしな真似したら、そこら中に突っ立ってるおニイさんたちにとっ捕まっちまうよ」
大尉がおどけて肩を竦めると、警備兵は苦笑した。
「ハハ。まあ、それもそうだな」
「いいんですか、身分照会とか……」
一人の警備兵が不安げに耳打ちしている。
「貴族の雇ってる傭兵だろう。いつものことだ。……じゃあな!これに懲りて、夜間の出歩きは控えろよ!」
「うーっす」
しっかり釘を刺して詰め所に戻っていく警備兵を見送って、大尉はひらひらと手を振った。
……で、大尉は貴族街なんかに何の用があるんだ?