第三章 内通者 Ⅳ
満身創痍なカートの目には、鮮やかな星空と、半分にかけた月が映っていた。
あれから彼はとにかく、ひたすら南に向かって走っていた。どれだけ走っても、味方が待っている所まで辿りつけない。
いずれは追っ手が来て、自分は捕まえられるのではないか。そんな不安が頭をよぎっていた。だが、その不安も遥か先に見えた騎兵のおかげで消えていた。
「まさか、本当にいたのか」
月明かりに照らされて見える馬に跨る兵、丘の上にその勇しい姿を見せつけていた。カートにとって、それがどれだけ安堵できる存在か、計り知れない。
「お~い! 味方だ!」
カートは知らないうちに、叫びながら走っていた。騎兵も暗闇の中、カートを確認してから馬を走らせる。その手には騎兵槍が握られていた。
「そこで止まれ!」
見る見るうちに近づいてくる騎兵が、カートにそう叫んでいた。今までここで彼を待ち続けていたのだ。その上、目の前の男が味方であるという確証はない。
騎兵は近くまで来ると、カートを一瞥して言葉をかける。
「所属は?」
「バスニア砦攻略部隊、特務部隊小隊長。カート・アルバーツェリン」
「一応、予定通りだな」
騎兵はそう呟くと、カートにすぐに後ろに乗るように指示する。それに従ってカートは馬に跨ると、騎兵の背中にしがみついていた。
カートは馬が走り出した瞬間に、ほっと安堵のため息をついていた。それに加えて、目頭が急に熱を帯びてくるのを感じていた。
自分は生きている。そう実感した。だから、目頭が熱くなったのか。
だが、それとは何か違う感情が、カートの胸を締め付けていた。一体なんのための戦争なのか。頭では分かっている。でも、どうしても納得がいかない。
部下を、アルベートを失った。あの時、自分は何をしていた。休んでいた。それだけなのに、騎兵は銃を発砲していた。
そもそも、何のための、誰のための、戦争なんだ。カートは涙を流しながらも、考えだしていた。
第一次レルジアント戦争の時、ユストニアは貿易摩擦によって経済が貧窮していた。
そこで目をつけたのが、グイディシュ王国内にある鉄資源であった。それを求めて大陸統一戦争終結後、間もないグイディッシュ王国に攻め入った。
結果は知っての通り、王国の辛勝、ほぼ痛み分けだった。
それから、二十年が経って、再びユストニアが国境沿いの軍備拡張を実行する。それは、王国側が報復戦争をしかけてくる。という、根拠のない過剰な防衛意識から来ていた。
それに対して、グイディシュ王国は鉄の輸出を規制するという処置に出ていた。その上で、軍備拡張を停止して、駐留軍の削減を提案したのだ。
だが、グイディシュ王国側は、国境沿いの守備兵力の削減をすることはしなかった。それは、守備兵力を削減すれば、ユストニアが再び攻めてくるという恐怖からの行動だった。ユストニア側も、二十年前の報復戦争をされるのではないかと恐れている。
両国が互いに「自国内に敵が攻めて来るのではないか」という疑心暗鬼に陥っていたのだ。
ユストニア側が国境沿いの軍を撤退させないことから、グイディシュ王国は鉄の輸出規制を、全面輸出禁止に繰り上げていた。それに対してユストニアは実力を行使したのだ。
それは外交面から、見た時の話である。ユストニア国内では、鉄の高騰と再び起きた貿易摩擦に、民衆が不満を漏らしていた。殆どの国民がこの戦争を支持、それに加えて貴族たちがレルジアントの既得権益を狙っていたことから、この戦争が始まった。
しかし、結局それで戦わされているのは、俺たち兵士だ。多くの兵士が、この戦争に疑問を持たずに戦っているが、俺は違う。
こんなことをしなくても、もっと違う方法があったはずなのだ。
戦わなければ、こんな目にあうこともなかったはずなのに……。
「アルベート。お前を連れ帰れなかった俺を、許してくれ」
カートは一人胸の苦しみを感じながら、騎兵にしがみついて、涙を流していた。
それでも馬は、戦場を駆け抜けていく。
騎兵に乗ってバスニア砦前の陣地に着いたカートは、陣地内の兵士たちが身支度をしていることで、安堵していた。計画通り順調に陣地内の撤収作業が行われていたのだ。
もし、このまま戦い続けていれば、村にいる敵連隊に撃滅されかねない。
陣地内に戻ったカートは、どのユストニア兵からも歓声で迎え入れられていた。
それに構うことなく、彼は自分もすぐに身支度をしようとしていた。だが、すぐにバスニア砦攻略部隊の指令所に、カートは呼び出されていた。
そして、今、指令所のテントの中、作戦司令官と向かい合っている。
「任務ご苦労、カート君」
目の前で横柄な態度で、カートを見る司令官は、労いの言葉をかけていた。だが、その言葉には感情のかけらもこもっていない。あるのは、帰ってきた部下へ、作業としての労いの言葉だ。
「お言葉、ありがとうございます」
恭しく頭を下げて見せるが、目の前の司令官は貴族である。カートにとってこれほど屈辱的な構図は、いい気分のするものではない。
「さて、帰ってきて早々で悪いのだがな。我々は後退してすぐに、そのままポルターナ封鎖部隊に戻されることになった」
司令官はそう言ってカートを見つめる。だが、それを知らせる意味が全くわからない。カートは疑問に思い、司令官に尋ねていた。
「私は一小隊の指揮官に過ぎません。なぜ、直にそのようなことを?」
「ふむ。噂以上に、頭の回る奴らしい」
司令官は満足そうにカートを見ながら、顎に手をやって笑みを浮かべる。
「先ほども言ったように、我々はポルターナの封鎖部隊に戻される。それに加えて、封鎖部隊にはタレンジ共和国の義勇軍旅団五千名と、本国からの増強軍一万人が加わって、おおよそ、三万の兵力になるのだ。ここまで言えば、分かるか?」
司令官の言葉にカートは奥歯をかみ締めていた。そう、司令官は暗にポルターナの攻略が開始されようとしていることを、言っているのだ。
ポルターナの封鎖には、威嚇の意味も込めて、もともと一万五千名余りの兵力があてられていた。だが、ラネス平原での敗北以降、この封鎖部隊の五千名は各地域の制圧に駆り出されていた。その旅団の中で、最も兵力が多いのがカートの所属している連隊だ。
カートの連隊はバスニア砦攻略に駆り出され、陥落寸前の砦を前に撤退を開始していた。
その部隊が引き戻され、なおかつ、封鎖部隊に増強されるのだ。
攻略開始の合図以外の、なにものでもない。
「司令官殿、それと私にどういう関係が?」
カートはそれでも、自分が呼び出されて話を聞かされている意味が分からなかった。小隊指揮官とはいえ、たかが一小隊長にすぎないのだ。このようなことを、直接司令官から話されることなど、まずありえない。
「君を南側の山道ルートの総指揮官に、任命しようと思っている」
なにを言い出すのかと思えば、カートは司令官の言葉に耳を疑っていた。
たかが小隊指揮官の自分が、なぜ、山道の南側ルートの総指揮官なのか。それ以前に、指揮官になるだけの資質と階級を、カートは持ち合わせてないと思っている。
「お言葉ですが、南側ルートとはいえ、私が総指揮をとることなど、横暴です。私以外にも階級の高い、適任者がおられるはずです」
カートはそう言って司令官を見つめていた。総指揮を任せられるにしては、カートの階級は低すぎるのだ。第一に、他にも優秀な兵士は大勢いる。その中で、なぜ、自分なのか。それが彼には納得がいかなかった。
「なぜ、そう思うかね?」
司令官は不満そうに眉根をひそめて、カートを見つめる。
「自分は、一度は失態で捕虜となりました。その失態を負った兵士が、指揮官になれば、兵たちの士気も下がるでしょう」
淡々と事実を述べていくカートは、司令官に対してまっすぐと向き直る。
「君の言うことも、一理ある。だが、兵士たちが君を英雄視していれば、話は違ってくる。陣地内では早くも君の噂で持ちきりなのだよ」
「は?」
司令官の顔を見ながら、カートは首をかしげる。何も自分は英雄視されるようなことはしていない。やったとすれば、無謀な突貫攻撃と、捕虜になった屈辱的敗北である。
「わからんかね? 君の臨時特別部隊の生き残った連中が、そうとうな戦果をあげたと報告したのだ。そして何より、君の部下は、部隊の撤退をさせるために自らが捕虜となったと証言した。これに加え、尋問に耐えて、しかも、単身陣地に帰還したのだ。だれが見ても、君は英雄であるよ」
カートはその言葉を、内心否定していた。あくまで、自分がここまでこられたのは、味方のおかげである。なおかつ、捕虜となったのも、自分の浅はかな考えからである。
自分が英雄であることなど、そんなことがあるはずがない。
であるのに、兵士たちはそんな彼を、英雄と騒ぎ立てているのだ。モノはいいようと言うが、これほど事実を前向きに兵士たちが捉えているのに、カートは愕然としていた。
「まあ、そういうわけだ。兵士たちの期待も信頼も厚い。頑張ってくれたまえ」
「ですが、私はただの少尉に過ぎません」
カートの言葉に、司令官は顔色を変えずに見つめる。
「按ずることはない。私が階級など、どうにでもする。それに、君には充分指揮官として素質はあると思う。給料もあがるし、勝てば貴族にもしてやる。だから……」
カートはその司令官の言葉に、顔色を変えていた。明らかに、司令官を嫌悪する表情を浮かべている。そう、これが今現在のユストニアの貴族の実態だ。カートはこんな者たちに振り回されて、この戦場に来ていると思うと、無性に腹立たしく思えて仕方がなかった。
だからこそ、目の前の司令官を睨みつける。だが、それにもかかわらず、司令官は笑顔で彼に近づいていく。
「だから、頑張ってくれ」
司令官はそう言って、カートの肩に手を載せていた。そして、顔を彼の耳元に近づける。
「でなければ、君をわざわざ救い出した甲斐もないからな」
カートの耳元で司令官はささやく。司令官の言葉に呆然とするカート。ようは、カートのために、一人の普通の兵士が、あの王国軍陣地に向かわされたのだ。
「そ、それじゃあ、あの、王国の兵士は!?」
「そうだとも、我が軍のただの兵士に、服を着せたにすぎん。相手側の内通者も、あいつが捕まればばれるだろう。だが、目的は達したのだ。別に構わんさ」
カートは腸が煮えくり返るような想いで、司令官を睨み付けなら言う。
「そ、そんな。では、あの村にいた我が軍の参謀は!?」
カートの問いかけに、司令官はその鼻の下に生やしたカイゼル髭を撫でながら言う。
「なんの話かな? われわれの参謀は、デルマシアの高原で策を練っているが?」
「は!?」
「あれは民間人だ。ただのじじいに服を着せて脅しただけ。はったりの脅しを真に受けた割には、よくやってくれたと思うよ」
「あ、あなたって人は!」
拳を握り締め、カートは司令官に向いていた。奥歯をかみ締めて、今にも殴りかかりそうなほどの剣幕で、睨みつける。
「せっかく、助かったのだ。ここで命を無駄にすることはない。君にだって家族はいるのだろう」
司令官はそう言ってカートをなだめる。戦闘に関係のない民間人さえ、この戦場に巻き込んでしまっている。そのことが、カートには許せなかった。
だが、ここでこの司令官に手を出せば、確実にカートは幽閉されるはめになる。なんといっても、目の前の男は貴族であり、上官だ。カートはただの市民に過ぎない。
市民が貴族に手を上げたというだけで、一方的に裁かれる。その上、今の状況では上官と部下の関係た。この男を殴って待っているのは、独房に十数年という禁固刑だ。
家族にも会えず、ただ、独房で毎日を過ごさなければならない。
カートは何もできない自分に、拳を握り締めていた。
「分かりました! やってやります。やってやりますとも!」
忌々しげに見つめるカートに、司令官は笑みを浮かべる。
「おお、それはよかった」
そういって、彼に手を差し出す。だが、その手をカートは握ろうとはしなかった。
「その代わり」
カートはそう言って真剣な眼差しで、司令官を見ていた。
「その代わり、勝てば、必ず、私に貴族の地位をください」
彼の言葉に、司令官は頷いてみせると、肩に手を乗せていた。
「いいだろう。せいぜい、君の活躍には期待しておくよ」
耳元で司令官は呟くと、カートを残して足を踏み出していた。
司令官の態度に憤りを感じるカートは、一つの決心をしていた。ユストニアでは貴族が特権を握っている。ならば、貴族になって、愛する祖国、全てを変えてやろう。
司令官が出て行ったテントの中で、カートは決意を新たに、握り拳を作っていた。
貴族になって、ここの司令官を殴り飛ばすことを夢見ながら……
◆
濃霧のかかる早朝、フィルドォと呼ばれる男が村内で捕まっていた。ホフマン大隊に所属していた兵士で、ユストニアから帰化して既に三年が経っているという。
フィルドォの趣味は鳩を飛ばすことだった。彼の住んでいる地元の鳩レースでは、よく彼の鳩が優勝していたという。そして、何より問題だったのが、彼がその経歴を生かして軍に入隊して、軍用鳩を管理していたことだ。
ホフマンの大隊に配属されてから一年がたっていたらしく、その人柄から彼が内通者だと疑う兵士もいなかったという。だが、ここの村に付いてから彼は、ずっと偽造報告書を作り続けた。そして、軍用鳩を放って、敵に情報を与えていたのだ。
この重罪で軍事裁判にかけられ、近々裁かれることが決まっている。それも、彼が王国の国民であるからだ。もし、ユストニア国籍であれば、即刻、銃殺刑に処されていただろう。リオデは捕虜を逃がしたものの、このことをいち早く発見したことで、罪状に関しては帳消しとなっていた。
それもこれもフォリオンがリオデを擁護し、ウェリストなどの反リオデ派将校を黙らせたからだ。これで、リオデはフォリオンに一つ貸しができていた。
そのことを思い出しながら、昼下がりの休憩を満喫していた。
リオデ大隊は村から先陣をきって、出発していた。度重なる戦場に休みはなく、大隊兵士の顔色も優れない。
それでも、リオデは大隊を歩ませて、ものけの空となった駐屯地で騎兵隊と合流した。そこで、久々にリオデ大隊が一つとなっていた。
ベルシアとアリナと、何日ぶりかの再開を、リオデは果たしていた。
嬉しそうにヴェーリィ水を入れるアリナに、ティオや他の兵士はもちろん、リオデも癒されていた。嫌なことばかりが重なる戦場での、ほんの一時の休息と癒し、それをどの兵士たちも満喫していた。
「隊長、偵察を幾らかしてみましたが、あの様子だと、我々がつくまで、絶対にもってくれますよ」
笑顔でそう報告するベルシアに、リオデも安堵のため息をついていた。あそこで敢行した突撃が、味方の砦を救ったのだ。そう思えば、リオデの命令で死んでいった部下の命も、無駄ではないと思える。
「よかった。これで、私も少しは気が晴れるもんだよ」
そう言ってリオデはベルシアに笑みを見せる。彼もまた笑みをうかべていた。
「それよりも、隊長、アリナちゃんを、よくベルシアなんかに任せましたね」
リオデの横に座っていたティオは、そう言って初対面のアリナを見ていた。
村の少女とはいえ、顔立ちも整っていて、艶やかな黒い髪の毛がとても印象深い。アリナは大人の女性にも見劣りしないほどの可愛さと、その反面、落ち着いた女性を思わせるなんとも言えない魅力を持っている。
いわば、美少女といえる。
そんなティオの言葉に、ベルシアは彼を馬鹿にしたように言う。
「馬鹿か。俺はガキんちょには興味ないの。俺の女にするなら、あと四年くらいは待たないといけないからな」
「上官に馬鹿とは何だ!?」
ティオは鋭い視線でベルシアを睨みつける。そんな彼に、ベルシアはよそふく風といった感じで、空を見上げていた。
「ああ、もったいない。怒った顔が、美しいのが憎いですな。ティオ殿が女であれば、口説いていたのになぁ」
どっと周りにいた兵士たちの間で笑いが起こる。アリナもそんな二人のやり取りに、くすりと笑みをこぼしていた。
「た、隊長! ベルシアを何とかしてください!」
部下の兵士たちに笑われて動揺するティオは、リオデに助けを求めていた。
だが、そのリオデも、ティオの困り果てた顔を見た瞬間に、顔をそらしてくすりと笑っていた。
「た、隊長まで!」
ティオは最後の頼みであるリオデにまで笑われ、心底落ち込んでいた。顔を地面に向けると、深いため息をついて見せていた。
「す、すまん。あまりにも、お前の困った顔が、かわいくてな」
リオデはそんなティオの背中に手を当てる。ティオはリオデの言葉に、さらに胸をえぐられる。格好がいい、美青年だ。そういわれるならまだしも、リオデには「かわいい」とさえ言われる始末だ。
男としての誇りをけなされている。
それを思うとティオは、俯いたまま再び深いため息を吐いていた。
「で、でも、あのベルシアを口説かせたいとまで言わせたんだ。凄いことだぞ」
リオデの言葉に、ティオは更に落ち込んでいた。すかさずアリナが彼女に言葉をかける。
「リオデさん、それフォローになってません」
またしても、どっと笑い声があたりを包む。部隊の最高指揮官と兵士が戯れるような光景は、他の部隊では滅多と見られるものではない。
こうして、リオデやティオ、ベルシアが下級兵士と戯れていること自体が、異常である。
だが、こうすることで、兵士たちはリオデやティオの人柄を知ることができる。ひいてはそれが信頼に繋がった。最終的には兵士たちが、命を預けてもいいと思えるようになった。だからこそ、リオデに大隊の兵士たちが付いていくのだ。
王国の軍隊の中では、本当に異質な存在、それがリオデ大隊である。だからこそ、規律や伝統を遵守する軍人から、彼女は嫌われるのだ。
ホフマンの部下のウェリストも、その一人である。女性でありながら、ここまで実力で成り上がった彼女を、よく思わない。
王国軍の中には、他にも彼女をよく思わない人間が、大勢いる。
談笑するリオデたちの前に、肩を落としたヴィットリオが近づいてきていた。
リオデはそれに気づいて、ヴィットリオに対して顔を向けていた。
「リオデ隊長、申し訳ありませんが、話をする時間をくれませんか?」
栗色の髪の毛の青年軍医のヴィットリオは、浮かない顔をしてみせる。そして、彼はリオデに頼み込んでいた。おそらく、誰かからか兄の真相を聞かされたのだろう。
冷酷な現実を突きつけられたヴィットリオは、元気なくリオデの前に立ち尽くしている。
「わかった」
リオデは顔から笑みを消した。そして、アリナの作ったヴェーリィ水を飲み干すと、ベルシアにコップを渡していた。
「ベルシア、口はつけるなよ」
そう言ってベルシアを見ると、彼は苦笑しながら言う。
「ちょっとは信頼してくださいよ。自分は隊長を心から愛してるんですから!」
「気持ち悪いことを言うな。冗談でも殺すぞ」
軽口を叩いたベルシアに、リオデも冗談で返す。周りからはまた、笑いが起こっていた。
彼女はそんなやりとりをおえると、すぐに立ち上がっていた。そして、ヴィットリオに付いてくるようにいう。彼は黙って彼女の後ろについて、歩いていた。
他の兵士たちの目に付かないところへ場所を移す。そして、リオデはヴィットリオに向き直って真剣な視線を向ける。
ヴィットリオはそれに、口を開けないでいた。暫く二人の間に、沈黙が訪れていた。
それに耐え切れず、リオデが口を開こうとした。その矢先だ。
「隊長、ぼくは、僕は、兄が死んだなんて、いまだに信じられません」
ヴィットリオはその重い口をあけて、彼女に語りかけていた。リオデはそれに、ただ黙って聞くことしかできなかった。
「ここに兄がいないのは、まだどこかで偵察に行っているからなんだって。でも、現実は違いました」
そう言ってヴィットリオは深いため息をついていた。そして、顔を地面に向ける。
「ウィルフィという方が、兄の死を話してくれました。それに、他の兵士たちも、みんな、僕を見て気の毒に、という顔を向けてきました。それで、確信したんです。兄はやっぱり死んだのだ。と」
ヴィットリオはそこで言葉を区切ると、リオデに向き直っていた。そして、鋭く睨みつけるような、彼女を突き刺すような視線を向ける。
「でも、その原因が、あなたなら、僕は、あなたを許せない! あなたは僕の兄を殺したんだ!」
ヴィットリオがそう言うのもわかる。理由はどうあれレイヴァンは、結局は彼女のために死んだことに変わりはない。そして、なにより、ヴィットリオは彼の兄弟である。ここでこうやって、リオデを責める権利はあるのだ。
「すまない。とは思っている。だが、後悔はしていない」
リオデは凛と澄ました表情で、ヴィットリオを見ていた。彼は納得がいかないらしく、潤んだ瞳で彼女を睨みつけていた。
「なぜ、あなたはなぜ、そんな冷酷でいられるんです! 僕の兄を殺しておいて!」
眉をひそめたまま、リオデは憎まれるのを覚悟して、口を開いていた。
「私は軍人だ。冷酷にならないといけない時もある」
「あなたは、僕の兄を殺したんだ。罪悪感を微塵も感じないんですか!?」
ヴィットリオはそう言って主張を、けして曲げようとはしなかった。その言葉がリオデの胸に突き刺さっていた。
実際、罪悪感を持たないことなどない。部下を見殺しにまでして、自分は生き延びたのだ。それで罪悪感を持たないほうがおかしい。
だが、もう、そのことでもう悩むことはしない。リオデ自身、明確な答えを見つけ出して、前に進んでいるのだ。
「君のお兄さんには、心のそこから感謝している。だが、私はそのことで罪悪感をもたないと決めている。悩んで立ち止まっていることは、せっかく助けてもらったこの命を、無駄に使っているのと同じだから」
リオデはそう言ってヴィットリオに真摯な視線を向き直っていた。何も曇りのない瞳をむけられ、ヴィットリオは初めて顔を背けた。
地面に俯いて、その目からどんどん涙を流していく。ぽたぽたと雪に吸い込まれていく涙、ヴィットリオのやり場のない気持ちを、冷たい雪が受け止めていた。
「すみません。僕は、その、気持ちをどうしても、整理が付けられなくて、僕は、僕は」
嗚咽を漏らしだしたヴィットリオは、膝を突いていた。そして、そのどうしようもない気持ちを、地面に積もった雪に向けて、何度も繰り返し、拳を振り上げていた。悲痛な叫びを上げながら、リオデの前ということも忘れて、一心不乱に雪を殴っていた。
リオデはそれをただ、声をかけることもできずに、見守るしかなかった。
それから、また一夜あけた早朝、リオデ大隊が駐屯地前に整列していた。
その整列した兵士の前で、リオデは声高らかに叫んでいた。
「総員、これよりバスニア砦に向かう! ここからは本当の戦場が待ち受けている。私は諸君らを心から信頼をしている。だからこそ、一丸となって、バスニア砦を共に救おう!」
リオデの言葉に兵士たちは、歓喜の叫びを上げていた。リオデはその中で、決意を固めていたヴィットリオを見た。彼は空を仰ぎ見て、胸に拳を当てていた。
だが、リオデの視線に気づいて、目を合わせると、すぐに王国式の敬礼をして見せていた。リオデもまた、彼に対して真剣な表情で、答礼していた。
何千の将兵が、バスニア砦に向けて雪の上を行軍しだす。
戦場に渦巻く人々の想いをかき混ぜながら、戦場は広がっていく。
誰もこの戦火を止められない。ただ感情をもたず、多くの人を巻き込んでいき、戦場は広がっていくのだ。
悲劇を繰り返しながら……。