第50話『観測不能領域』
資料室の窓を叩く雨音だけが、やけに遠かった。
白鐘雨音は机の上の資料を見つめたまま、動かない。
有馬が怪訝そうに声をかける。
「おい、どうした」
白鐘はゆっくり顔を上げる。
「……思い出せません」
沈黙。
「何をだよ」
白鐘は答えられない。
“何を思い出せないのか”が分からない。
だが確かに、さっきまでそこに何かがあった。
久瀬黎司はその様子を静かに見ていた。
そして低く言う。
「始まったな」
有馬が眉をひそめる。
「だから何がだよ」
久瀬は資料へ視線を落とす。
一部だけ、不自然に空白になっている。
削除されたわけではない。
“最初から認識できない”。
久瀬は静かに言う。
「観測不能領域に入った」
白鐘が小さく息を呑む。
「観測……不能?」
久瀬は頷く。
「消えた存在が、“認識の外側”へ移動している」
有馬が苛立つ。
「また難しいこと言い始めたぞ」
だが久瀬は続ける。
「今までは“消えた痕跡”が残っていた」
「だが次の段階では違う」
白鐘が震える声で問う。
「どうなるんですか」
久瀬は少し間を置く。
そして言う。
「思い出そうとした瞬間に、認識できなくなる」
沈黙。
有馬が呆れる。
「いや意味わかんねぇって」
白鐘は資料をめくる。
そして一瞬、指が止まる。
「……ここ」
有馬が覗き込む。
「何も書いてねぇぞ」
白鐘は首を振る。
「違います。“誰かがいた空白”があります」
その言葉に、有馬の表情が一瞬だけ曇る。
「……あ?」
白鐘は続けようとして、止まる。
言葉が消える。
思考が滑る。
そこに“名前を当てはめる行為”そのものが拒否される。
久瀬は静かに言う。
「無理だ」
白鐘が震える。
「今、確かに何か思い出しかけたのに……」
久瀬は頷く。
「それが観測不能領域だ」
沈黙。
雨音が少しだけ強くなる。
有馬が苛立ったように頭を掻く。
「じゃあどうしろってんだよ」
久瀬は窓を見る。
外の景色は正常だ。
だが、正常すぎる。
“誰かが消えた痕跡”だけが綺麗に除去されている。
久瀬は静かに言う。
「世界が、“思い出す行為”そのものを排除している」
白鐘が顔を上げる。
「じゃあ久瀬さんは、どうして覚えていられるんですか」
沈黙。
久瀬はすぐには答えない。
その代わり、自分の記憶を辿る。
消えた捜査員。
空白の名前。
共犯者A。
本来なら曖昧になるはずの記憶が、久瀬の中だけでは消えない。
久瀬は静かに言う。
「俺は“消える前”を観測している」
有馬が眉をひそめる。
「それの何が違うんだよ」
久瀬は答える。
「確定前の矛盾を見ている」
沈黙。
白鐘が呟く。
「矛盾……」
久瀬は頷く。
「この世界は、確定したものしか残せない」
「だから未確定の段階で見たものだけが、消え残る」
その瞬間。
資料室の奥で、椅子が軋む音がした。
三人が同時に振り向く。
だが誰もいない。
ただ一脚だけ、少し引かれている。
有馬が顔をしかめる。
「……今、誰か座ってなかったか?」
白鐘が息を止める。
だが次の瞬間、その感覚すら薄れる。
“いたはず”という認識が、崩れていく。
久瀬だけが、その椅子を見続ける。
そして確信する。
まだ終わっていない。
だがすでに――
「消えた存在は、“思い出すことすらできない領域”へ移行し始めている」
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