第35話『消える証拠』
資料室の引き出しは、確かに開いていた。
だが中身は「空」ではない。
白鐘雨音はそこを見つめて、声を落とす。
「……ここ、昨日まで証拠品ありましたよね」
有馬が即答する。
「そんなの入ってねぇだろ」
白鐘は固まる。
「入ってました」
「共犯者の身元資料と、現場写真と……」
言いかけて、止まる。
“何が入っていたか”が、少しずつ曖昧になっている。
久瀬黎司は引き出しの中を見る。
そこには何もない。
しかし“何かがあった痕跡だけ”が残っている。
紙の擦れ。
インクの滲み。
だが内容はゼロ。
久瀬は静かに言う。
「消えている」
有馬が眉をひそめる。
「だから何がだよ」
久瀬は答える。
「証拠だ」
白鐘が小さく言う。
「証拠って……消えるものなんですか?」
久瀬は少し間を置く。
「普通は消えない」
その言葉が逆に重い。
沈黙。
白鐘がもう一度引き出しを見る。
「でもこれ……“最初から何もなかった”みたいに見えます」
久瀬は頷く。
「それが厄介だ」
有馬が苛立つ。
「いや普通に盗まれたとかだろ」
久瀬は否定しない。
だが静かに言う。
「盗まれたなら、空白は“空白として残る”」
「これは違う」
白鐘が息を呑む。
「どう違うんですか」
久瀬は引き出しの底を指す。
「“存在の履歴ごと削除されている”」
その瞬間、有馬が小さく呟く。
「は? 履歴ってなんだよ」
久瀬は答える。
「この世界は記録で成立している」
「記録がある限り存在は維持される」
白鐘が震える声で言う。
「じゃあ……記録が消えたら?」
久瀬は一言だけ答える。
「存在も消える」
沈黙。
資料室の空気がわずかに軽くなる。
いや、“軽くなったように感じる”。
有馬が周囲を見回す。
「なんか……一人減ってねぇか?」
白鐘も即座に確認する。
机、椅子、人数。
だが“誰がいないか”が分からない。
ただ、確実に何かが減っている。
久瀬だけが静かに言う。
「また消えたな」
白鐘が顔を上げる。
「何が……消えたんですか」
久瀬は答えない。
代わりに机の上を見る。
そこにあったはずの報告書の束が、完全に消えている。
有馬が声を荒げる。
「おい!さっきまであっただろ!」
白鐘も頷く。
「ありました……確実に……」
だが次の瞬間、白鐘の表情が曖昧になる。
“それが何の報告書だったか”が思い出せない。
久瀬は静かに言う。
「始まっている」
白鐘が震える声で問う。
「何がですか」
久瀬は短く答える。
「現実の自己修正だ」
有馬が呆れる。
「またそれかよ」
久瀬は窓を見る。
雨は変わらない。
だがその雨粒の一部が、確かに“減っている”。
久瀬は確信する。
この事件はまだ壊れていない。
だがすでに――
「証拠という概念そのものが、現実から削られ始めている」
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