猫
私は生まれたときから、世界をすべて理解していたわけじゃない。
けれど、あなたの匂いだけは、最初から知っていた気がする。
目を開けたばかりの頃、世界はぼやけていて、光は強すぎて、音は大きすぎた。
だけどあなたの手は違った。
少し硬くて、少し冷たくて、それなのに触れられると安心した。
私は小さく鳴いた。
あなたは笑った。
その瞬間、この人は私のものだと思った。
あなたはよく「死ぬほど愛してる」なんて言葉を口にした。
人間は大げさだ。
死ぬことを簡単に使う。
でも私は知っている。
あなたは本当に私を大事にしていた。
帰りが遅い日も、疲れている日も、必ず私の名前を呼んだ。
私は怒ったふりをして背中を向けながら、耳だけあなたに向けていた。
早く帰ってきてほしかった。
だって私は独りでは生きられないから。
あなたは時々、「一緒にいるのは大変だ」なんて言った。
冗談のように笑いながら。
でも私は冗談が分からない。
だから少しだけ爪を立てた。
あなたは痛そうな顔をして、それでも撫でるのをやめなかった。
馬鹿にしているわけじゃないと、その手が教えてくれた。
笑わないで、ちゃんと聞いてほしかった。
私はあなたと同じ言葉を持たない代わりに、仕草や声でしか伝えられないのだから。
頬を寄せられると、嬉しいのに逃げたくなった。
嬉しすぎると怖くなる。あなたを失う未来が、ほんの少しだけ見えてしまうから。
私は知っていた。
猫の時間は、人より短い。
あなたより先に年を取る。
あなたが変わらない速さで歩いている間に、私はどんどんおばあちゃんになる。
それでも愛してくれるのか、何度でも確かめたかった。
あなたが「好きだよ」と言うたび、私は安心して眠った。
私はあなたの温度が好きだった。
世界の基準はそれだけでよかった。
あなたは時々、死ぬのが怖いと言った。
未来の話をして、急ぐように生きていた。
私は理解できなかった。今ここで撫でている時間がすべてなのに、どうしてまだ来ていない明日を怖がるのだろう。
置いていかないで、と私は思った。
でも本当は、置いていくのは私の方だと知っていた。
ある日、あなたから知らない匂いがした。
甘くて、柔らかくて、少し緊張した匂い。
私は鼻をひくつかせ、あなたの服を何度も嗅いだ。
胸の奥がざわついた。だから軽く噛んだ。
あなたは困った顔をした。
人間の言葉で言う浮気。意味は知らない。
でも「取られるかもしれない」という感覚は分かった。
しばらくして、足音が増えた。
部屋にもうひとつの気配。
視界はもう昔ほどはっきりしない。
輪郭がにじんで、光が揺れる。
それでも分かった。
優しい声、慎重な手。
私を怖がらせないように、ゆっくり近づいてくる人。
知らない人なのに、嫌ではなかった。
その人はあなたを見ると少し笑い、私を見るともっと静かに笑った。
撫で方はぎこちないけれど、悪意がない。
私は目を細めた。
ああ、大丈夫なのだと思った。
あなたは独りじゃなくなる。
私がいなくなっても。
時間は静かに短くなっていった。
起き上がるのが難しく、高い場所より床が好きになった。
あなたは気づいて、寝床を低い場所に移した。
水も近くに置いた。何も言わないのに、全部分かっていた。
私は知っていた。
もう遠くへ行く日が近い。
あなたを越して、遠くへ行く。
猫はそういう生き物だ。謝る必要はないのかもしれない。
それでも心の中で何度も言った。
ごめんね、と。
あなたは私を抱き、何度も名前を呼んだ。
声が少し震えていた。
私は喉を鳴らした。大丈夫だよ、と伝えるために。
忘れないでくれる?
ずっと愛してくれる?
でも最後には、不安は消えていた。
あなたの隣には、もうひとつの温度があった。
優しい手が、あなたの背中に触れていた。
あなたは独りじゃない。
だから安心できた。
私はゆっくり目を閉じた。
怖くなかった。
世界は薄れていったけれど、最後まで残ったのはあなたの匂いと、体温だった。
私はあなたの温度が好き。
ずっと、ずっと好き。
だから安心して眠れる。
猫として生まれて、あなたに出会えてよかった。
あなたの飼い猫でいられた時間が、私の全部だった。
さようならは言わない。
だってあなたが生きている限り、私はきっとどこかで丸くなっている。
――ずっと、あなたがすきよ。




