表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

作者: 耳無 桃
掲載日:2026/03/24

私は生まれたときから、世界をすべて理解していたわけじゃない。

けれど、あなたの匂いだけは、最初から知っていた気がする。


目を開けたばかりの頃、世界はぼやけていて、光は強すぎて、音は大きすぎた。

だけどあなたの手は違った。

少し硬くて、少し冷たくて、それなのに触れられると安心した。

私は小さく鳴いた。

あなたは笑った。

その瞬間、この人は私のものだと思った。


あなたはよく「死ぬほど愛してる」なんて言葉を口にした。

人間は大げさだ。

死ぬことを簡単に使う。

でも私は知っている。

あなたは本当に私を大事にしていた。

帰りが遅い日も、疲れている日も、必ず私の名前を呼んだ。

私は怒ったふりをして背中を向けながら、耳だけあなたに向けていた。

早く帰ってきてほしかった。

だって私は独りでは生きられないから。


あなたは時々、「一緒にいるのは大変だ」なんて言った。

冗談のように笑いながら。

でも私は冗談が分からない。

だから少しだけ爪を立てた。

あなたは痛そうな顔をして、それでも撫でるのをやめなかった。

馬鹿にしているわけじゃないと、その手が教えてくれた。

笑わないで、ちゃんと聞いてほしかった。

私はあなたと同じ言葉を持たない代わりに、仕草や声でしか伝えられないのだから。


頬を寄せられると、嬉しいのに逃げたくなった。

嬉しすぎると怖くなる。あなたを失う未来が、ほんの少しだけ見えてしまうから。


私は知っていた。

猫の時間は、人より短い。

あなたより先に年を取る。

あなたが変わらない速さで歩いている間に、私はどんどんおばあちゃんになる。

それでも愛してくれるのか、何度でも確かめたかった。

あなたが「好きだよ」と言うたび、私は安心して眠った。


私はあなたの温度が好きだった。

世界の基準はそれだけでよかった。

あなたは時々、死ぬのが怖いと言った。

未来の話をして、急ぐように生きていた。

私は理解できなかった。今ここで撫でている時間がすべてなのに、どうしてまだ来ていない明日を怖がるのだろう。

置いていかないで、と私は思った。

でも本当は、置いていくのは私の方だと知っていた。


ある日、あなたから知らない匂いがした。

甘くて、柔らかくて、少し緊張した匂い。

私は鼻をひくつかせ、あなたの服を何度も嗅いだ。

胸の奥がざわついた。だから軽く噛んだ。

あなたは困った顔をした。


人間の言葉で言う浮気。意味は知らない。

でも「取られるかもしれない」という感覚は分かった。


しばらくして、足音が増えた。

部屋にもうひとつの気配。

視界はもう昔ほどはっきりしない。

輪郭がにじんで、光が揺れる。

それでも分かった。

優しい声、慎重な手。

私を怖がらせないように、ゆっくり近づいてくる人。

知らない人なのに、嫌ではなかった。

その人はあなたを見ると少し笑い、私を見るともっと静かに笑った。

撫で方はぎこちないけれど、悪意がない。

私は目を細めた。

ああ、大丈夫なのだと思った。

あなたは独りじゃなくなる。

私がいなくなっても。


時間は静かに短くなっていった。

起き上がるのが難しく、高い場所より床が好きになった。

あなたは気づいて、寝床を低い場所に移した。

水も近くに置いた。何も言わないのに、全部分かっていた。


私は知っていた。

もう遠くへ行く日が近い。

あなたを越して、遠くへ行く。

猫はそういう生き物だ。謝る必要はないのかもしれない。

それでも心の中で何度も言った。

ごめんね、と。

あなたは私を抱き、何度も名前を呼んだ。

声が少し震えていた。

私は喉を鳴らした。大丈夫だよ、と伝えるために。


忘れないでくれる?

ずっと愛してくれる?

でも最後には、不安は消えていた。


あなたの隣には、もうひとつの温度があった。

優しい手が、あなたの背中に触れていた。

あなたは独りじゃない。

だから安心できた。


私はゆっくり目を閉じた。

怖くなかった。

世界は薄れていったけれど、最後まで残ったのはあなたの匂いと、体温だった。

私はあなたの温度が好き。

ずっと、ずっと好き。

だから安心して眠れる。

猫として生まれて、あなたに出会えてよかった。

あなたの飼い猫でいられた時間が、私の全部だった。

さようならは言わない。

だってあなたが生きている限り、私はきっとどこかで丸くなっている。


――ずっと、あなたがすきよ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ